【主の祈りには感謝の言葉がない】マタイによる福音書6章9−13節

2022年7月17日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし

マタイによる福音書6章9-13節(新約聖書・新共同訳p.9、聖書協会共同訳p.9)

▼それぞれの「主の祈り」

 みなさん、おはようございます。今日は「主の祈り」についてお話をしようと思います。

 「主の祈り」は、おそらくほとんどのキリスト教会の礼拝で唱えられているのではないかなと思います。もちろんいわゆる標準的なといいますか、「文語訳」ですね、「プロテスタント1880年訳」とも言われます。

 「天にまします我らの父よ。願わくは、御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ……」と続いてゆくものですね。

 1880年訳ですから、もう140年ほど前の訳をそのまま使っているわけですよね。でも、そういう教会が多いと思います。私も、これで育ちましたし、これ、1954年版の『讃美歌』(今わたしたちが使っている『讃美歌21』の前に日本基督教団でもっぱら使われていた讃美歌ですけれども)それの564番がこの「主の祈り」でして、奏楽付きで歌うように唱えたりする教会もあるんですね。「天にましますわれらの父よ~」みたいな、歌う側は音程が変わらないんですが、オルガンの奏楽がいろんな和声を弾いて導いてくれる、非常に美しいものです。これの使徒信条のバージョン、「我は天地の造り主~」というのもあるんですが、これも奏楽は非常に美しいもので、こうすると礼拝に参加している会衆の側も憶えやすいんですね。

 私なんかは中学生のときからそういうのを叩き込まれて育ってきたので、「天にまします我らの父よ~」が染み付いてしまっています。なので、初めて徳島北教会に来て、最初の頃はこの教会独自の「主の祈り」になかなか馴染めませんでした。「主の祈り」となると、つい最初に「天にまします……」が出てきてしまうんですね。

 けれども、こういった風に、文語訳ではない独自の訳を使っている教会もちらほら見かけます。私が時々奉仕させていただく枚方くずは教会も、独自の訳を使っています。それぞれの教会が、「この訳の方が元来のイエスの祈りに近い」という判断で、自分たち独自の主の祈りを献げているということは案外あるんですね。

▼神様の名前が聖なるものとされますように

 この「主の祈り」、主というのはイエスのことなので、「主イエスの祈り」というわけですけれども、これが私達の祈りの基本形だよとイエスが教えてくれたものだと捉えられて、伝えられてきています。

 今日読んだマタイによる福音書とルカによる福音書に書かれています。ルカではお弟子さんたちの1人が「私達にも祈りを教えて下さい」と言ったのでイエスがこの祈りを教えたということになっていますけれども(ルカ11.1)、今日読んだマタイの方では、特に誰に対してというわけではなく、5章以下続いている、いわゆる「山上の説教」の中に組み込まれる形で、みんなに教えるという形になっています。

 最初の「御名が崇められますように」というのは、最新の聖書協会共同訳では「御名が聖とされますように」となっています。私がよく参照する田川建三さんの訳では「御名が聖められますように」と翻訳しています。言い換えると、「神様のお名前が聖なるものとして特別なものとして扱われますように」ということだろうと思われます。

 神様の名前といっても、神様の本当の名前というのはわかりません。出エジプト記でモーセに名乗った時は、「わたしはある」という者だと言っていますし、よく「ヤハウェ」という名前で呼ばれることもありますが、これも、そういう呼ばれ方をされていたであろうという学説に則って言われているだけで、本当にそうかはわかりません。

 ですから、「神様のお名前が聖なるものとされますように」というのは、「もし仮に神様にお名前があるとすれば、それが特別なものとされますように」という意味ですから、要するに、「神様をみんなが特別に大切にするようになりますように」ということであろうと思います。

▼御国が来ますように、御心が行われますように

 続いて「御国が来ますように」というのは、「神の王国が来ますように」ということですが、この「王国」というのは、ご存知の方もおられると思いますが、「統治」とか「支配」という意味があります。ですから「神の治めるところ」、それが来ますようにということですね。

 この「御国」=「神の国」というのを、よく死んだ後に行く「天国」のように解釈する人もいますけれども、ここで大事なのは、この「神の国」が「来ますように」。つまり神の国というのは「行く」ところではなくて「来る」ものなんですね。

 ですからこの地上に神の国が来る。「地上が神の支配する、神が統治するようなところになりますように」ということですね。

 では、「神の統治、神の支配」というのは、どういうことか。正直言って、ちょっと「神の支配」と言うと、普通の人が聞いたら怖がられそうな印象がありますよね。特に最近では自民党が統一教会というカルトにどっぷり浸かっていて、抜け出せない状態になっている。統一教会というのはたくさんの人を洗脳して、莫大な金額のお金を吸い上げる、たくさんの訴訟でも負けている。それでも洗脳と金集めをやめない、とんでもない反社会集団ですけれども、「神の支配」と言うと、そういう危険なカルトのニオイがすると、一般人に思われても仕方がないような言葉ではあります。

 けれども、聖書には「神は愛です」と書いてあります(1ヨハネ4.8)。つまり「神の国、神の統治、神の支配」というのは「愛の国、愛による統治、愛による支配」ということです。

 私達は「御国が来ますように」と祈り、聖餐式で「主の~御国が来ますように~」と歌っているのは、「本当の意味で愛がこの世の中に満ちあふれたらいいね。そうなってほしい」という願いのことなんですね。

 その次の「御心が行われますように」というのは、ルカの方には書かれていなくて、マタイだけが書いているので、ここはマタイが強調するために付け足したんだろうと言われていますけれども、「御心」というのは「神様の愛の心」ですから、先程の「神の国」がこの世に来ますようにというのを、同じ趣旨が繰り返されている。つまり、神の愛の心がこの世で実現しますように、という願いが繰り返されているわけです。

▼とにかく今日明日の食べ物には困らないように

 さて、前半が神様に関する祈りであるのに対して、後半は人間の生活のことに話が移ります。

 徳島北教会版では「私達の日毎の食物を、今日もお与えください」。

 今日お読みした新共同訳の聖書では、マタイ版では「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」、ルカ版では「毎日与えてください」となっています。要するに、今日も明日も食べるものをくださいとお願いしているのですね。

 ここは「必要な糧」とか「日毎の食物を」と訳されていますけれども、元々は「パンを与えてください」です。けれども、イエスがおられた地域ではパンが主食なわけですから、私達が「毎日の食べ物を今日も、明日も食べられますように」という言葉に意訳しても問題はないでしょうね。

 私が聖餐式の式文を、「パンと杯」と言わずに「食べ物と飲み物」と言い換えるようにしたのも(あれは皆さんにゆっくり確認しないで、独断先行でやってしまって、大変申し訳無いと思っていますけれども)、そういう含みもあります。一応、それでも聖餐式ではパンとぶどうジュースを使っていますけれども、あちらではパンと言っているものが、こっちではこっちの食べ物でも問題は無いわけで、特にZOOMでリモート聖餐式を行う場合には、形通りに用意できない人がいる場合もあるわけで、できる限りの用意でいいではないかと判断したわけですね。

 大事なことは「日頃、食べ物に困りませんように」ということであって、イエスもこの「何が無くてもいいから、とにかく食べ物には困らないようにしてほしい」という、人間にとって最も基本的な祈りを最初に持ってきたというところに、イエスがどんな暮らしをしている人のことを想定して言っているのかがよくわかります。

▼負債から解放されて自由になれますように

 続いて、「私達に負債のある者をゆるしましたように、私達の負債をもおゆるしください」。

 これもイエスが、実際の暮らしの中で、地主や金貸しに苦しめられている貧しい庶民のことを想定して言っているのだということから、徳島北教会版では「負債」という訳になっているのでしょうね。新共同訳や聖書協会共同役では「負い目」という訳になっています。

 金銭的な負債を抱えているという意味だけに限定されるのではなく、日常生活での様々な場面や人間関係においても私達が負ってしまう「負い目」からも解放されますようにという願いでもある、という風に解釈されるのが一般的です。

 それから、この部分はルカ版では「わたしたちの負い目」ではなく、「わたしたちの罪」になっています。これに引きずられて、文語訳では「我らの罪をも赦し給え」になっているんでしょうね。

 けれども、一応その日その日の食事はなんとかできているという人でも、多額の負債を抱えている人は当時もいたということです。そういう人たちのことをイエスは想定している。

 これは現代でも、たとえばローンという負債を抱えて生きている人はたくさんいるわけで、人生の自由を奪われてしまっている庶民は、昔も今も少なからずいるわけです。

 ですから、「全ての人が負債から解放されて、自由に生きられたらいいのにな」という、これも先程の「食べ物に困らないようにさせてください」と同じ様に、「私達の経済的自由が奪われないようにしてください」と願っている。

 「私も自分に負債のある者を解放しますから」ということですから、お互いに経済的に自由になろうと言っている。これも人間として基本的な、決して裕福ではない庶民にとって切実な祈りと捉えることができるわけです。

▼日々の暮らしを安定させてください

 そして、最後に「わたしたちを試みにあわせないで、悪しきものからお救いください」。

 「試み」というのは「試練」、「自分の人生が試されるような苦しみ」ということですね。

 「試練」というのは、適度なものだったら人間を強くしてくれるいいものだという人もいます。耐えられないような試練ではなく、自分を鍛えてくれるような、克服できる可能性のある逆境に立ち向かうことから逃げていると、人間はどんどん能力の低いものになってゆくと言われます。私はぐうたら者で、ちょっと楽に流れることが多い人間ですから、あまりこういうことについては声高に偉そうに言うことはできないのですけれども、実際のところそういうものらしいです。人間の脳というのは、自分が壊れない程度に困難を乗り越えることで、鍛えられてゆくものらしいんですね。

 ですから、ここで「試練にあわせないでください」というのは、そんなレベルのものではないかも知れない。ここまで「今日明日食べるものが何とか手に入りますように」とか、「負債が免除されますように」とか、そういうその日その日を生きるのに精一杯という人のことをイエスは想定しているわけですから、そういう人の受ける試練というのは、もう死活問題になるような試練ということなんでしょう。

 そこをなんとかくぐりぬけて、この試練から逃れさせてくださいと。心安らかに暮らせるようにさせてくださいと。

 そして、これはルカ版にはありませんけれども、マタイは「悪しきものからお救いください」という言葉を付け加えています。聖書協会共同訳では「悪からお救いください」と訳しています。「悪い人」とも「悪」そのものとも受け取れる言葉だということです。

 具体的にはどんなことを指しているのかはわかりませんけれども、さきほどの「試練にあわせないでください」と合わせて受け取るとすれば、「日々の暮らしの安定を破るものから救ってください」ということになるのではないでしょうか。これも庶民の切実な願いです。

▼「主の祈り」には感謝の言葉がない

 さて、ここまで「主の祈り」を改めて見直してみて、私はふとあることに気づきました。

 「主の祈り」には感謝の言葉がないんですね。「あれ?」と思いました。

 普段、我々はお祈りをする時は、まず感謝から始めますよね。これは教会でみんなの前でお祈りするときでも、一人でお祈りするときでもそうではないかと思います。「まず感謝しなさい」と教えられているのではないかと思うんですね。

 ところが、イエスが「こう祈りなさい」と教えた祈りの中には、感謝の言葉がありません。

 そこで「感謝」、「感謝いたします」といった言葉が聖書の中にどれくらい使われているか、ちょっと調べてみました。すると、実はイエスが実際「感謝した」と書かれているところはほとんど無いんですね。

 「感謝」についてたくさん書いているのはパウロさんです。パウロは自分の手紙の中で、かなり頻繁に「感謝いたします」、「感謝します」と言っています。「感謝しなさい」はあんまりありません。自分が「感謝します」ということがほとんどです。

 イエスは「感謝します」とも言いませんし、「感謝しなさい」とも言いません。日本語訳でも「ありがとう」という言葉は一切ありません。

 なぜ、イエスは感謝もほとんどしないし、「感謝しなさい」とも教えなかったのでしょうか。

▼なぜ感謝の言葉がないのか

 ここからは全くの推測ですが、これまでイエスがどんな人達に対して語ってきたのかということから考えると、日々の生活で感謝できるようなことが無かった人たちを相手にしていたから、「感謝しなさい」とは言えなかったのではないかと。そんなことを思うわけです。

 日々のパンを手に入れるのも必死で、返しきれないような負債を抱えて、今日明日安心して暮らせるかどうかもわからないような人、「もうお願いですから、勘弁してくださいよ」と言いたくなっているような人に対して、イエスは「感謝しなさい」とは言わなかったのではないでしょうか。

 それとも、「それでもどんな時にも感謝しなさい」と言う方が信仰的なのでしょうか。確かにパウロは、たくさんの試練にあいながらも、どんな時でも「感謝します」と言います。そこはイエスとは違うところです。しかし、そんなパウロでも「感謝しなさい」と人に教えることはありません。

 イエスが「感謝した」と書いてあるのは、ごくわずかな箇所です。というか2つの場面だけです。1つは4000人に食べ物を与えた時と、もう1つは「主の晩餐」いわゆる「最後の晩餐」と呼ばれている場面だけです。

 もうちょっと細かく言うと、マタイとマルコには5000人に食べ物を与える場面と、4000人に食べ物を与えるお話があって、イエスがそこにあるわずかな食べ物に「感謝した」と書いてあるのは、4000人の食事のときだけです。

 それから、ルカでは最後の晩餐の場面でしか、イエスは感謝の祈りをささげていません。

 つまり、イエスはたくさんの人がいる前で、わずかな食べ物しか無いという状況で感謝したということ。それから、自分がもう敵の手に渡されて死ぬことになるだろうという、その別れの食事の時に、パンと杯に感謝した。それだけだということです。

▼ユーカリスト

 このイエスが感謝した時の「感謝」という言葉は、ギリシア語では「エウカリスト」と言います。「ユーカリスト」とも言われます。そして「ユーカリスト」というのは「聖餐」のことも指します。「聖餐」と「感謝」は、同じ「ユーカリスト」という言葉で表されます。つまり、「聖餐」というのは「感謝」の食事であり、その始まりは感謝することの少ないイエスの「感謝」に始まることだったわけです。

 ちなみに「聖餐」が「ユーカリスト」、「愛餐」は「アガペー」と呼ばれます。聖餐が感謝の食事、愛餐が愛の食事というわけです。

 ここで、イエスが4000人に食事を振る舞ったというのも、聖餐とつながってきます。両方とも同じように、「感謝してパンを裂いた」と書いてあるからです。

 福音書を書いた人たち、少なくともマタイとマルコにとっては、イエスが「感謝してパンを裂いた」という風に同じように描いている。多くの人に分け隔てなく分配した食事と、聖餐の食事との根っこにあるものは同じなんだよということが表されている可能性があります。

 私達が聖餐をオープン、あるいはフリーで誰もが食べ物、飲み物を受け取ることができるようにしている根拠の1つもそこにあります。イエスが感謝してパンを裂く時は、誰に対しても開かれた場所だということです。このようにイエスが「感謝してパンを裂く」という振る舞いをする場所は他には無いのですから、この食事の場面は非常に大事です。

▼共に食べることへの感謝

 そういうわけで、イエスは人に「感謝しなさい」とは教えなかった。それは、「感謝できるものなら、とっくに感謝しているよ」という人たちに対する配慮ではなかったか。

 しかし、そんなイエスも、感謝する時があった。それは、自分だけではなく、限られた、選ばれたメンバーでもなく、自分の周りの人と一緒にパンと杯、あるいはパンと魚を分け合う時にだけ、感謝した。最低限の食べ物が今日も明日も与えられますようにと祈ったその人が、ここにある食べ物を、別け隔てなく一緒に分け合う時にだけ、感謝した。

 そういうことではないでしょうか。

 イエスが人に教えた祈りには、願いの言葉しかありません。

 しかし、イエス自身は、人と食事を分け合うときだけは感謝した。

 その生き方を私達はどのように受け止め、どのように生きるべきなのでしょうか。

 祈ります。

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