【激怒するイエスに端っこからついてゆく】

2022年8月7日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし

マルコによる福音書11章15-19節(新約聖書・新共同訳p.84、聖書協会共同訳p.83)

▼イエスの印象

 イエス様というのは、どういう方か。皆さん、イエスという人について、どういう印象をお持ちでしょうか。

 優しくて、いつも温厚に微笑んでいるイメージでしょうか。よくキリスト教書店に売っている子ども向けのカードなどには、優しくにこやかに子どもたちを迎えているような、そんな風にイエス様は描かれていますよね。

 あと、西洋の絵画などでは、ちょっと弱々しいイエス様が描かれていたりしますよね。十字架につけられる前に、苦しみながら祈っている様子とか、十字架につけられて、うなだれている様子とか。

 あと、いかにも神々しく物静かな、神秘的な佇まいとか、例えばダ・ヴィンチの「最後の晩餐」などは、弟子たちの裏切りを告げる場面で、うつむいていかにも悲しそうな顔をしています。

 いずれにしろ、イエス様の印象というのは、静かな人という風に描かれていることが多いと思うんですね。

 ところが、私のイエス様の印象というのは、ちょっと違っておりまして、イエス様というのは、よく怒る人、よく憤る人というイメージがあるんです。

▼あなたがたは不幸だ

 たとえば、マタイによる福音書の5章から7章にかけて「山上の説教」というセクションがありまして、ここに「幸い」についてイエス様が教えているところがありますよね。「心の貧しい人は幸いである」という有名な言葉が言われているところです。

 この記事には並行箇所というのがありまして、同じような内容が別の福音書に書かれていたりするんですね。それで、このマタイの「幸いである」と同じ起源の言葉だろうというのがルカにもありまして、「平野の説教」というのがあります。

 ここには、イエス様が「あなたがたは幸いである」と言ったあとに、「あなたがたは不幸である」と言っていることが記録されているんですね。ご存知の方もいらっしゃると思いますけれども、こういうものです。

 「しかし、富んでいる人々、あなたがたに災いあれ。あなたがたはもう慰めを受けている。今、食べ飽きている人々、あなたがたに災いあれ。あなたがたは飢えるようになる。今。笑っている人々、あなたがたの災いあれ。あなたがたは悲しみ泣くようになる。」(ルカ6.24-25)

 かなり過激ですけれども、イエス様の言葉の中には、こうやって、貧しい人や泣いている人の対して優しい言葉をかける一方で、裕福な人や笑って暮らしている人に対する呪いの言葉があったりするんですね。

 他にも、マタイによる福音書の23章なんかには、律法学者やファリサイ派の人びとに対して「偽善者に災いあれ」という言葉が6回も繰り返されています。「災いあれ」と何度も執拗に繰り返す。かなりきつい言葉遣いです。

 考えてみたら、さっき子どもたちに優しいイエス様の絵が多いと言いましたけれども、子どもを抱き上げる前に、イエス様って子どもたちが来るのを止めようとしたお弟子さんたちに憤って叱りつけているんですね(マルコ10.13-14他)。ですから、やっぱり結構怒りっぽいなあと、私はそういうところに着目してしまうんです。

▼私なら叱られるだろう

 そんな風に、イエスという人は、けっこう敵と味方がはっきりしていて、社会的な弱者や子どもに対しては、力強く励ましてくれる、頼もしい味方になるけれども、そこそこにこの世で恵まれた暮らしをしていて、しかもあまり弱者に奉仕しているわけでもない人に対しては、ボロカスに怒るところがあります。

 私、もしイエス様と同じ時代に、イエス様に近いところに生きていたとしたら、ちょっとイエス様の弟子になってついていくのは怖いかなぁという気がすると思います。

 まあ、弟子になったとしても、12人のお弟子さんみたいに、近いところにいるんじゃなくて、もっと女性や男性も含めてたくさんの人たちがイエス様についてガリラヤからエルサレムについていっていたみたいですけれども、その集団の端っこのほうで、おとなしくしてついて行っていたと思うんですね。

 自分なんか、一応住む家もあって、一応満腹できるくらい食事のできる生活はできているので、イエス様から見たら、叱りつけられる方だろうな、とか。子ども3人育てて、結構お金使っちゃって、そんなに今お金持ちというわけではありませんけれども、それでも、どちらかというと、「あなたの財産を売り払って、貧しい人の全部施しなさい」と言われて、悲しんで帰ってしまう方の人間だろうなと思うんです(マルコ10.21-22他)。

 まあ、このお金持ちの青年に「財産を売り払って貧しい人々に与えなさい」と言ったときは、イエス様は怒って言ったんじゃなくて、「慈しんで」(原語では愛して)言われたということになっているんですけどね。

▼カルトまがいの神殿宗教

 今日、読んだ聖書の箇所でも、イエス様怒っています。

 エルサレムの都に入ってきてすぐの頃ですけれども、神殿に入って暴れていますね。縄でムチを作って、動物商人やその売り物の動物を叩き出したり、両替商の机をひっくり返したり、商売人が神殿の境内を横切って通路にしているのを追い出したりしています。

 この場面、よく保守的な教会では「宮浄め」と呼ばれていまして、神聖な場所を商売人が占領しているのは良くないから、商売人を追い出して、神殿を清めようとしたのだと解釈されてきたりしていたんですね。

 しかし最近では、そういう意味ではなくて、神殿に集中していた宗教的権威、政治権力、経済の中枢に対して、怒りをぶちまけたのだろうという解釈が出てきています。

 当時のユダヤ教では、人間の罪を神様に赦してもらうためには、生贄を献げないといけないと、人びとは教えられていたんですね。基本的に人間というのは罪深い者であると。

 そして、これも皆さんご存知であろうと思いますけれども、当時は病気や障害というのは、悪霊にとりつかれたせいか、神の呪い、罰だという風に解釈されていました。イエス様はそういう「自分は罪のせいで病気になったんだ」と思っていた人に、「大丈夫、あなたは赦される」と言って回って、癒していきましたね。

 だから、イエス様にとっては、「あなたは生贄を買って、神に献げないと赦されないぞ。地獄に落ちるぞ」と、人に裁きの恐怖を与えて、その恐怖を利用して、生贄にする動物を売りつけて商売をしようなんていうカルトまがいのやり方は、許せなかったわけです。

▼ここは強盗の巣だ

 他にも、もう一つイエスが怒りを燃やしたのが、神殿の両替システムですね。

 当時、ユダヤ地方も含めて、ローマ帝国の各地ではデナリオン銀貨などを始めとするローマの通貨が使われていました。けれども、神殿の中だけは昔からのユダヤの通貨だったシェケルで納めないといけなかったんですね。このシェケルで、献金も神殿税も払わないといけませんでした。

 で、このローマの通貨とユダヤの通貨の交換のレートを決めていて、しかも手数料を取っていたのが、ここに出てくる両替商人です。そして、この両替商人や、さっきも出てきた生贄用の動物商人たちからのうわまえ、そして献金や神殿税といったお金を、ガバガバ儲けていたのが祭司階級で、この人達は二重三重に利益を上げるような社会システムを作り上げていたんですね。

 しかも、この神殿の祭司階級の人達は、たいてい大地主でもあって、たとえばイエスが生まれ育ったガリラヤ地方にもたくさんの農地を持っていて、小作農をたくさん雇っていたと言われています。

 イエスがたとえ話で話した、誰も雇ってくれないぶどう園の労働者でも、同じようにその日家族が食べていけるだけの最低の賃金を払ってやれよ、という話も、そういう社会背景があってのことなんですね。

 そういうわけで、祭司というのは、あの手この手で貧困層から利益を吸い上げて裕福な暮らしをしていたわけです。

 これにイエスは怒ったんですね。そして言いました。「お前たちはここを強盗の巣にしている!」

▼全ての民の祈りの家

 ここでイエスは、「強盗の巣」云々を言う前に、「神殿は全ての民の祈りの家と聖書に書かれているではないか」と言っています。

 これは旧約聖書のイザヤ書56章7節にある言葉なんですね。

 イザヤ書56章をちょっと省略しながら引用すると、こんなことが書いてあります。

 「公正を守り、正義を行え。私の救いが到来し、私の正義が現れるときは近い。なんと幸いなことか、このように行う人。それを揺るぎなく保つ人の子は。安息日を守り、これを汚すことのない人。いかなる悪事にも手を出さない人……」(イザヤ56章1-3節)

 ここには、世の中に公正が行われ、正義が貫かれるようにという願いがあって、それが実現された時に、「私の家は(つまり神殿は)すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56.7)と書かれているわけです。

 これも、イエスが引用したときには、イエスの時代の神殿への批判になっていまして、神殿というのは、「ここまでは他の民族は入ってもいいけれども、ここから先はダメ。ユダヤ人しか入ってはいけない」という線引きがなされている場所だったんですね。

 具体的に言うと、まず「異邦人の庭」という場所が一番外側の入り口に近いところにあります。ユダヤ人以外の人はここから先は入ってはいけませんよ、というわけです。その先には「婦人の庭」という場所があって、女性はここから先は入ってはいけませんと。そして、その中には「男性の庭」というのがあるんですけれども、更にその中には「祭司の庭」があって、そこには祭司階級の人間しか入れない。更にその中に、大祭司しか入ってならない「至聖所」というのがあります。そこに、十戒の石の板が置かれているとされているわけです。大祭司はそこで、神の使いと直接会うと言われていました。

 イエスは「ここは全ての民の祈りの家だ」と言いました。「全ての民」というのは「全ての民族」という意味ですから、「ユダヤ人だけしか入れない」という特権意識を捨ててしまえと言っているわけです。これも、神殿を運営している祭司たちの怒りを招いたと考えられます。

▼これで終わりではない

 そんなわけで、自分たちとは違う民族の人間を排除しようとする。高額の税金を巻き上げる。「神様の罰が下るぞ」と恐怖を与えて、貢物を買わせる。こういった政治と宗教が一体化して一般人からお金を巻き上げて生活を圧迫しているような体制に対して、イエスは異を唱えたわけですね。

 イエスはそういう怒りをはっきりと表明する人でした。その結果、彼は命を狙われて、最終的には逮捕されて、死刑に処せられました。

 彼のやり方は間違っていたんでしょうか。彼のやり方は賢くなかったんでしょうか。彼は権力を持った人たちに死刑という形で口を封じられて、それで全てが終わったんでしょうか。

 はっきりと怒りを怒りとして表明することは、結局は自分の身を滅ぼしてしまう。だからやめておいたほうがいいという結論に落ち着いてしまうのでしょうか。

 ……イエスは復活した、と伝えられています。

 イエスの復活については、いろいろな説が唱えられています。ある人たちは、実際に肉体が蘇生したと言います。ある人たちは、実際の肉体が蘇生したというのは、生物学的にはありえないので、これは何らかの象徴的な表現なんだろうと言います。

 私自身はどちらかというと、実際に肉体が蘇生したとは思っていないほうです。イエスが復活したというのは、イエスの直弟子たちが、「イエスの生涯はこれで終わったわけではないんだ」と解釈したことが、イエスの復活の物語を作ったんだと思っています。

 「イエスの言葉、イエスの働きは、イエスが死んだからと言って終わりではないんだ」という思い、それが「イエスは神によって再び起き上がらされた(これは「復活した」という言葉の本当の直訳ですけれども)」という言葉になっていったのではないかと思います。

▼ちょっと離れた場所で

 イエスは怒る人でした。だから、ちょっと怖い。イエスと同じ時代、同じ場所に自分が生きていたとしたら、できれば直接の知り合いにはなりたくない。けれども、彼の怒る気持ちはわかる。何に対して怒っているのかがわかれば、そりゃあ彼が怒るのももっともだと思う。だから、ちょっと離れた所で、イエスを応援してきた。

 そして、「イエスの命はあの十字架の上で終わったわけではないんだ。まだこれからなんだ」と弟子たちが叫び始めたのならば、自分もその群れについていきたいと思う。できる限りのことをして、その動きに加わってゆきたいと思う。そんな風に思うのです。

 自分は怒るイエスについて行く者としては小さな存在かもしれない。しかし、イエスに従う群れの端っこの方でも、ついて行きたいと思うのです。皆さんはいかがでしょうか。

 祈ります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください