【わたしが再び立ち上がる日】マルコによる福音書16章1-8節

2023年4月9日(日)徳島北教会イースター礼拝説き明かし

▼マルコによる福音書16章1-8節(新共同訳 p.97、聖書協会共同訳 pp.95-96)

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。

 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(新共同訳)

▼見捨てられた息子

 皆さん、イースターおめでとうございます。イエス様の復活をお祝いする日曜日です。レントの長い40日間の喪に服するときを経て、2日前の金曜日にイエスが十字架につけられ、3日目の今日、復活したことを祝います。

 イエスが亡くなったのは紀元30年ごろだと言われていますけれども、もし紀元30年ぴったりだったとすると、それは計算上4月7日(金)だったということです。ですから、その2日後に復活のできごとがあったとしたら、それはまさに今日と同じ4月9日(日)ということになります。

 その時あったと伝えられている出来事が、今日お読みした聖書の箇所になります。

 イエスが十字架にかけられたのが、4月7日の金曜日の朝でした。そして、午後3時にイエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んで亡くなったと、このマルコによる福音書には書いてあります。

 普段イエスは、神さまのことを「アッバ」、つまり「パパ」と呼んでいたようなのですけれども、ここでは「わたしの神よ」と呼んでいることですね。もう自分は神から見捨てられたという絶望が、「パパ」などと呼べるような心境ではなくなってしまったのでしょうか。

 「親愛なるパパ」ではなく、心底腹立たしい。「おいこら、神! なんで俺を見捨てたんじゃ!」と、はらわたが煮えくり返った恨みの言葉であったのではないでしょうか。

 これは冒涜の言葉ですが、同時に、理不尽な病や事故や死に襲われたときに私たちが「おいこら、神! 何を考えてるんじゃ!」と言いたくなる、その気持ちをイエス自身が身をもって味わってくれている。イエスは私たちの苦しみを知っているということを、私たちに思い起こさせる言葉であったとも思われます。

▼ガリラヤでイエスに会える

 さて、イエスはそうやって、1人の哀れな敗北者として墓に葬られます。当時のお墓というのは、ご存知の方も多いと思いますが、人が立って入れるほどの横穴になっていて、中に遺体を寝かせて、大きな石板で入り口を塞ぐといったものでした。

 イエスが葬られたのが4月7日の金曜日で、その日の日没から安息日が始まるので、アリマタヤのヨセフやマグダラのマリアたちが大慌てで、応急的に墓穴の中にイエスの遺体を寝かせて、すぐに帰ってしまい、土曜日は安息日で、一切の用事をしてはいけない。安息日は土曜日の夜には明けるけれども、夜中に出歩くような非常識なことはできない。それで日曜日の夜明けごろに、マグダラのマリアを代表とする女性の弟子たちが、いったん放り込むように置いてきたイエスの遺体を、今度こそきれいに葬ろうと思ってやってくるわけです。

 すると、お墓の中が空っぽになっている。空っぽのお墓の中に1人の若者が座っていたとマルコによる福音書には書かれています。白い長い衣を着ていたらしい。

 ここでは単に「若者」ですが、これがあとの方にできた他の福音書では「天使」ということになっていたり、1人が2人に増えていたりという風に話が発展していくのですけれども、一番最初に書かれたこのマルコ福音書では、天使ではなく、1人の若者ということになっています。

 それから、このマルコ福音書では、イエスの遺体が無いということだけが言われていて、蘇ったイエスの肉体は出てきません。お墓が空っぽだったということだけが描かれています。

 そんなわけなので、聖書学者の中でも、実はイエスの遺体はあるグループの人たちに持ち去られて、ここに座っていたのは、そのグループのメンバーだったのではないかという説を唱えている人もいます。しかし、それも証拠がないので、どう受け止めていいのかわかりません。

 ただ、一番最初に言い伝えられていたのは、「お墓が空っぽだった」「イエスはそこにはいなかった」という出来事だったので、イエスが肉体的に蘇ったということは、最初は言われてなかったということ自体は事実なんですね。

 そして、この若者は「イエスはあなたがたより先に、ガリラヤに行かれる。ガリラヤに行けばイエスにお会いできる」と言いました(マルコ16.7)。

 ガリラヤ地方というのは、このエルサレムという場所から北の方におよそ200キロメートルということなので、私が住んでいる京都府内からこちら徳島市内までの距離よりも遠いということになります。当時の人達は歩いて旅をしますけれども、5日はかかっていたと言われています。そのガリラヤの方にイエスは先に向かっているということなのですね。

 「今からガリラヤに5日かけて行けばイエスに会えるよ」というのは、肉体として蘇ったイエスに会うかどうかはともかく、何らかの特別な意味のあることが待っている。あなたがこれから北へ5日間の旅をしてガリラヤ地方に行けば、特別な何かが待っているんだということを示している可能性があるわけです。

▼ガリラヤとはどこか

 ガリラヤとはどういう場所でしょうか?

 それはイエスの活動が始まった場所、イエスの「神の国運動」と呼ばれている活動の原点となったところです。

 「神の国運動」とはどんな活動でしょうか。それは一言でいうと、「神の国は近づいた」というイエスの呼びかけから始まり、その神の国の先取りを現在の世の中で、少しずつ実現していこうとする活動であり、具体的には、病気の人を癒やし、困窮した人と食べ物を分かち合い、罪人とされていた人を赦してゆくという活動でした。

 そして、イエスは「神の国というのはこういうところだ。それがもうすぐ来る。泣いている人が笑うようになる。笑っている人が泣くようになる。これまで当たり前になっていた矛盾だらけ、不公正だらけ、卑劣な世の中がひっくり返るぞ! そんな神の国が近づいているんだ」と教えて回りました。

 そのような活動をイエスは1年間しか行わなかったという説もあれば、3年から4年行ったという説もあります。とにかくイエスがそのような「神の国運動」を行ったのはほとんだガリラヤ地方でのことであって、それに比べるとエルサレムに来てから十字架まではほんの短い期間に過ぎませんでした。イエスの「神の国運動」といえば、それはガリラヤの活動だったわけです。

 ですから、「ガリラヤでイエスに会える」というのは、「イエスの活動の原点に戻れ」ということなんですね。そして、そこに行けば、イエスに出会うことができるだろうと。

 そこには、イエスの行った「神の国運動」を受け継いでいる人たちがいる。その中にイエスの面影を見ることができるだろう。また、その運動に頼って生きざるをえない弱く小さくされた人たちがいる。そんな人たちの中にも、旅から旅への行き先で、人の世話にならざるをえなかった放浪の預言者イエスを重ね見ることができるだろう。

 「そうやってガリラヤに行けばイエスに会えるのだ」と、この若者はお墓にやってきた女性たちに告げたのだと思われます。

▼イエスを終わらせるわけにはいかない

 ちなみにここで若者が「あの方は復活なさって」と言っているのは、正確には「起こされて」あるいは「引き上げられて」という言葉になります。ギリシア語の「エゲイロー」というのが原形ですけれども、その単語が受身形になっています。「あの人は寝かされた。墓の中に寝かされた。けれども起こされたのだ」と言っています。「自分から」あるいは「自力で」復活したと言っているのではなくて、「何者かに」「起こされた」わけです。

 イエスを起こした、あるいは引き上げたのは何者でしょうか?

 ここで、「神がイエスを再び起こしたのだ」というのは、普通の考え方です。教科書どおりで言えばそういうことになるのだろうなと思います。しかし、あえてここで違う考え方をすることも可能ではないのかなとも思います。

 つまり、イエスを再び起き上がらせたのは、イエスが逝ったあと遺された人たちの思いではなかったかと考えることもできるのではないでしょうか。

 イエスを起き上がらせたのは、「イエスの生涯はこれで一巻の終わりだ」ということを絶対に認めることのできない、イエスと共に歩んできた人たち自身の思いだったかもしれない。

 イエスの命、イエスの言葉、イエスの行いは、ここで終わらせるわけにはいかないのだ! というほとばしるような思いが、「イエスは我々の間に生きている!」という、「それこそが真実なんだ!」という思いを生み出したのではないでしょうか。

 イエスは亡くなりました。にもかかわらず、イエスがこの世に生きていたという現実が、生前よりもっと強く、イエスを慕ってきた人たちの間に感じられるようになったのではないでしょうか。

 かけがえのない人を失うことで、失ったあと、ますますその人の存在が強く意識されるようになるということがあります。私はつい最近それを経験しています。それが「復活」というものではないか、すでに私たちの間にその人が復活しているということなのだと思うのですが、いかがでしょうか。

▼私が再び立ち上がるイースター

 復活とは、遺された人間たちの心のなかに起こることだと今言いました。もしそうだとすれば、復活というのは、イエスひとりの問題ではありません。それは、私たち自身がイエスと共に起き上がる。立ち上がる。引き上げられるということが、とても大事なことなんだということにもなってきます。

 私たち自身が心から新しくされ、息を吹き返して、生き直すということがあって、初めて本物のイースターと言えるのではないでしょうか。

 イエス様が生き返った! すごい! さすがは神の子だ! 奇跡だ! すばらしい……そんなことが本物のイースターというわけではないのですね。

 本物のイースターは、私たち自身が心底から新しくされるということです。新しい人間として生まれ変わる。それがイースターです。イエスに出会うことで、自分の人生が新しくされる。それが私たちの復活です。

 私たちの人生には、打ちひしがれ、疲れ、傷つき、絶望することがたくさんあります。魂が死んでしまったようにぐったりとしてしまったり、もうこれ以上生きていても仕方ないからと投げやりになってしまうこともあるでしょう。しかし、ひとたびは死んだとしても、やがてイエスと一緒に、再び起き上がる時が来ると、復活の物語は教えてくれているのではないでしょうか。

 それまでとは全く違った方向に目が開けて、新しい生き方を始めるようになる。日本語では「悔い改め」と訳されている、「メタノイア」が起こるようになります。

 「悔い改め」というと、何か悪いことをした人、間違ったことをした人が、後悔して反省して「もうしません」と言うような意味に感じられる日本語ですけれども、そういうことではありません。

 「メタノイア」というのは、「心のあり方が転換すること、物事の捉え方が変わり、生き方そのものが方向転換してゆくこと」を指す言葉です。今まで、「こんな世界で生きていても仕方ない」とか、「自分の生きている意味なんてあるのだろうか」とか、「自分ひとりが小さなことをしてみたところで何になるんだ」とか。そういった諸々の失望や落胆、絶望といったものに目が覆われている。

 しかし、そこからクルッと目線を180度ひっくり返して、見える景色を変えてみる。全く新しい生き方があることを知る。その大転換に勇気を持って挑んでみる。それが「メタノイア」であり、復活である。そのような、自分の人生の息の吹き返し。生き直し。生まれ変わり。すなわち復活。それを象徴しているのがイースターなんです。

 その「復活」すなわち「引き起こされること」は一瞬にして起こるかもしれないし、じっくりと時間をかけて起こるかもしれない。また、それがいつ起こるかも神さまにしかわからない。

 でも、とにかくイエスと出会うことによって人間は、イエスと共に立ち上がる人生に引き起こされるのだ。イエスと共に引き起こされ、イエスと一緒に生き直すのだ。それが私の第2の誕生日となるのだということを、改めて思い起こすのがイースターだということです。

 私にとってのイースター、私たちにとってのイースターとはどのようなものでしょうか? どんなイースターを私たちは体験できるでしょうか。それを考えてみませんでしょうか。私たち自身のイースターを求めていきましょう。

 祈ります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください