【とりあえず、飯を食おう】使徒言行録9章1−19節

2023年10日1日(日)徳島北教会 世界聖餐日礼拝説き明かし

使徒言行録9章1-19節(旧約・新共同訳 p.229-230、聖書協会共同訳 p.225-226)

▼使徒言行録9章1-19節(聖書協会共同訳)

 さて、サウロはなおを主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

 ところが、旅の途中、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかける声を聞いた。

 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられる。」

 同行していた人たちは、声は聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたがが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。

 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 ところで、ダマスコにアナニアと言う弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。

 すると、主は言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。彼は今祈っている。アナニアと言う人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」

 しかし、アナニアは答えた。「主よ、私は、その男がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて縛り上げる権限を、祭司長から受けています。」

 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」

 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」

 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。

▼世界聖餐日

 皆さん、おはようございます。

 今日は教会の暦では、世界聖餐日という日になっています。毎年、10月の第1日曜日が世界聖餐日で、日本キリスト教協議会のホームページによれば、その始まりは1930年代の北米の教会にあると言われます。その主旨は、「世界中のキリスト者が主の食卓につくことによって一致し、互いに認め合うことを願って始められた」ということですが、これが1930年代ということで、第2次世界大戦の直前です。

 だんだんと世界が戦争に向かって、対立を深めてゆく中で定められたもので、少なくとも世界のクリスチャンは、共にイエスの食卓に招かれた者として、一致し続けようではないかという願いが込められた日であると言えると思います。実際には当時、第2次世界大戦に向かってゆく世界の動きを止めることはできなかったんですけれども、それでも戦争が終わった後、再びこの世界聖餐日は守られて、キリスト教徒どうしが和解の食卓を続けてゆくことができるように、という願いを込めて続けられているわけです。

 そして、現に今行われている戦争、たとえばウクライナとロシアとの戦争も、様々な要素があるなかで、キリスト教徒どうしの戦争であることということも事実であることに、私たちは心が痛むのですね。そして、更に日本が武器に注ぎ込むために予算を倍増させるとか、そのために増税をするとか、平和憲法を掲げているにもかかわらず、それを政府が積極的に破っている中で、私達は、この平和と和解の食卓を大事にしようという、この世界聖餐日の精神を掲げて、私たちの信仰生活を送らなければならないと思うわけです。

▼十字架につけられたままのイエス

 今日読んだ聖書の箇所は、パウロという人がこのイエスの和解の食卓につくまでのいきさつを描いた物語です。ここでは「サウロ」という名前になっていますが、あとになって彼はキリスト教の宣教をするようになって、「パウロ」という名前に名乗りなおすようになります。

 物語の前半はこのパウロ/サウロがイエスと出会った場面です。サウロはもともとユダヤ教のファリサイ派という、掟(つまり律法)を守れないものは切り捨てろというほどの、強烈なユダヤ主義の人物でした。そして、ユダヤ教側から見ると異端の新宗教だった、当時の初期キリスト教を激しく弾圧、迫害していました。イエスを信じる人たちにとっては、サウロという人は恐怖の対象だったでしょうね。

 そして、今回もシリアのダマスコ(現在のダマスカス)にいるイエス派(当時は本当はキリスト教という名前もついていなかったので、仮に「イエス派」と呼びますけれども、最初はこの人たちはこの9章2節にありますように「この道に従う者」「この道の者」と自分たちを呼んでいたに過ぎませんでした)このイエス派(この道に従う者)の人たちを捕まえに、馬に乗って「脅迫し、殺そうと意気込んで」向かっていたわけですね。

 私なんかは、若いときはこの新共同訳の前の「口語訳」という日本語訳を読んでいて、そこにはここの箇所が「殺害の息をはずませながら」と書いてあるのが、恐ろしくて忘れられない記憶があります。

 しかしサウロは、そうやって殺害の息をはずませながらダマスコに向かう途中で落馬します。そしてその時に、彼はイエスの声を聞きます。イエスは「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのだ」と言います。

 「サウル」というのは、パウロのヘブライ語名です。ギリシア語の世界では最初は「サウロ」で、やがて「パウロ」と名乗るようになりますけれども、ユダヤ人の間で話されるヘブライ語の世界では「サウル」と呼ばれていたんですね。だから、たぶんこの時のイエス様はヘブライ語で話しかけたんでしょうね。

 サウロはエルサレムから遠く離れたタルソスという町の出身で、どちらかというとギリシア語ネイティブなんですね。そのサウロにイエス様はヘブライ語の方言の1つで、イエスが生まれ育ったガリラヤの言葉であるアラム語で話しかけたわけです。つまり、同じユダヤ人として話しかけた。

 「お前と私は同じユダヤ人だよ。なんで同じユダヤ人であるお前が私を迫害するんだ。私を信じている人々を迫害することは、私を迫害することなんだ。私を信じる人を殺すことは、こうやって私を殺しているんだ」とイエスに言われて、サウロはびっくり仰天するわけです。

▼自分を赦しながら死んでゆく人たち

 その時になってサウロは、自分が何の罪もない人を殺しているという事実を改めて突きつけられたのかもしれませんね。

 今日読んだこの「使徒言行録」という本の、今日読んだか箇所の少し前、7章に、最初のイエス派のメンバーだったステファノという人が、迫害にあって殺される場面が出てきます。この時ステファノは神さまに「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫びながら死んでいったと書いてあります。

 こんな風に、イエス派の人たちは、イエス様が十字架につけられながらも、敵を赦しながら死んでいったことに倣って、自分たちも敵を赦しながら死んでいったと思われます。

 そうやって、敵を赦しながら死んでゆく、その人たちに手をかけていたわけです、サウロは。そして、自分が殺している相手が、自分を赦しながら死んでゆく姿を目の当たりにしながら、彼の心は次第に苦しみを抱えるようになったのではないかと思います。

 そして、その苦しみ、矛盾、葛藤が最大限に膨らんで、ついに心が崩壊した時に、彼は十字架につけられたイエスが自分に「なぜだ!」と問いかけて来る声を、幻の中に聞いてしまったのではないかと思われます。

 完全に自分のやっていたことにおける矛盾と罪深さに叩きのめされたサウロは、目が見えなくなったと書かれています。これが文字通り本当に目が見えなくなったということなのか、それとも彼がこれからの人生を完全に見失ったということの象徴的表現なのかはわかりませんが、とにかくサウロは何も見えなくなり、打ちひしがれてしまいました。そして、何も食べることも飲むこともできなくなってしまいました。

▼苦しむために選ばれる

 さて、そんなサウロを受け入れ、世話をすることになったのが、アナニアという人です。神さまから「おまえがサウロを引き受けよ」と選ばれます。アナニアは心底怖くなったに違いありません。町から町へと巡りながら、自分たちイエス派の仲間を逮捕しては拷問し、殺害するということをしてきた、あの恐ろしいサウロという男の世話をするために選ばれたんですね。震え上がったと思います。

 アナニアは、自分を選んだイエスに対して、「あの男が何をしてきたか私は知っているんです。勘弁してくださいよ」と言いますね。「あの男は自分たちをどんな目に合わすか分かりませんよ。そのために、ユダヤ教の政治権力者の当局からお墨付きをうけてやってるんですよ」と。

 けれどもイエスは言いますね。「私があの者を、サウロを選んだのだ」と。そして「これから彼が私の名のために、どんなに苦しまなくてはならないかを、彼に示そう」と言うんですね。サウロもまたイエスに選ばれた人だったわけです。

 サウロはこれまで自分が殺してきた人たちの仲間にならなければいけない。一体、イエス派の人びとの信用を勝ち取ることができるだろうか。また、ユダヤ教の人びとから見れば、サウロは裏切り者です。イエス派を殺すために全権を委託していた人間が、イエス派に寝返ったのですから、こんな裏切り者は殺さなくてはなりません。サウロは今度は命を狙われる側になります。

 こんな命の危険を伴うような八方ふさがりの状況で、サウロは自分がこれまで罪深い人間であったことを悔い改め、そんな自分でもイエスが赦してくださっているのだということを人に伝えるという困難を引き受けなければならない、とイエスは言うんですね。

▼敵を愛する決断

 アナニアは恐ろしかったのですけれども、イエスの言う通り、サウロがいるところを訪ねて行くことにしました。

 そこでアナニアが出会ったパウロは、目が見えなくなった、これまでの人生の意味を完全に見失い、これから自分がどうしたらいいのか、完全にわからなくなってしまった一人の憐れな弱い人間でした。

 ここでアナニアの心に浮かんだのは、イエスの「敵を愛しなさい」という教えだったのではないでしょうか。あるいは、「善いサマリア人のたとえ」として知られているイエスのたとえ話だったかもしれません。

 サマリア人というのは、ユダヤ人から「汚れている」と言われて差別されていた民族ですが、そのサマリア人が、瀕死の重傷を負って倒れていたユダヤ人を助けた、あなたはどう思うか、というたとえ話ですね。

 このたとえ話の場合、サマリア人から見れば、ユダヤ人が重傷を負って倒れていても、「あいつらはいつも自分らを差別しているやつらや。普段からヘイトスピーチ投げつけられたり、下手したら命かて奪われるかもしれん。あんな奴、ほったらかして死んでしまえばいいわ」と言って通り過ぎても、おかしくないような敵対関係だったんですね。

 でしたけれども、イエスの話の中では、このサマリア人は倒れているユダヤ人を見て、はらわたがよじれてしまうような憐れみの感情(ギリシア語ではそういうニュアンスになります)を抱いて助けたと言われています。痛めつけられている者が、痛めつけている側の人間を助けたではないかというお話です。

 このイエスのたとえ話が、アナニアにも伝えられていたのかもしれません。アナニアは憎むべき敵である迫害者サウロが再起不能のような状態になっている様子を見て、はらわたがよじれるような憐みの情が湧いて、なんとかして助けなきゃと思ったのではないでしょうか。

 普通なら助けるなんて考えられない状況です。けれども、イエスが「あのサウロのところに行け」と言うのが聞こえたというのは、アナニアがイエスによって与えられた信仰が、「このサウロという人を助けなさい」と言っているのだ、という思いに実ったということなのでしょうね。

▼とりあえず飯を食おう

 アナニアはサウロに手を置いて言いました。

 「イエス様が、あなたの目が見えて、聖霊が注がれるようにと、私をあなたに遣わしたのですよ」と。

 そこでサウロは、イエスが敵である自分を裁かないこと、赦していること、そしてイエスのために働くように自分を選んだのだということを悟りました。それで彼の目は開かれました。自分の立ち位置、何をこれからするべきかを悟ったのでしょうね。

 そこで、さっそくアナニアはサウロに洗礼を授けました。そして彼らは食事をしたと書いてあります。

 この食事は聖餐です。

 もっとも当時は礼拝の中で食事をするのが、それも夕食を一緒に取りながら礼拝するというスタイルだったので、アナニアはこの「食事を伴う礼拝」にサウロを招待したんですね。

 そこからサウロのクリスチャンとしての、そしてイエス派の宣教者としての人生が始まります。そのサウロの宣教者人生の始まりに、「まずは飯を食おう」、「とりあえず飯を食おう」、「話はそれからだ」といってアナニアはイエス派の礼拝に参加させたわけです。

 飯を食わなくては、生きる力は湧きません。イエス派の、すなわち「この道に従う者たち」の、つまり初期キリスト教の礼拝は、飯を食いながら元気を身につける集会でした。そして、サウロが初めて参加したこの礼拝の食事は、かつて敵であった者どうしが赦し合う、いわば「和解の食卓」でもありました。この食事によって、サウロは「この道の者たち」と和解したんですね。

 そして、この「和解の食事」の精神を、いま、世界聖餐日は受け継いでいるわけです。一緒に食事をするというのは、「あなたとわたしは敵ではありませんよ」というしるしです。和解するために、「とりあえず飯を一緒に食おう」というのが、キリスト教会の働きです。

 私たちのこの徳島北教会も、(ちょっと先ですけれども)2024年の最初の新年礼拝から、愛餐会を再開する予定を役員会で決めました。1年の始まりを、教会で飯を食うことから始めるというのは、とても良いアイデアではないかと思っています。

 何を始めるにも、まず飯を食おう。そのことをとても大事にしているのが、キリスト教という宗教なんだということを、今日は皆さんにお伝えしたいと思いました。

 説き明かしを終わります。

▼祈り

 私たちの命と愛の源である神さま。

 今日もあなたに預けられた命を、こうして生きることができますことを感謝いたします。

 本日は世界聖餐日であり、あなたの御子イエス・キリストが最後の晩餐によって定められた食事をいただく聖餐式を持とうとしております。

 この聖餐式を通して、イエス様の命を私たちに与えてください。ここにある食べ物と飲み物が私たちのお腹に入ったとき、あなたの愛が私たちの体の中に入ることを、私たちが思い起こすことができるよう、私たちの心を導いてください。

 とはいえ神さま、地上には十分な食物もなく、日々命をつなぐことも危ぶまれる人も多いことを、私たちは知っております。

 このような不公正、矛盾の満ちた社会を作ってしまっている私たちを悔い改めさせ、願わくば、私たち人間がこの世を少しでも、誰にとっても生きやすい世の中に変えてゆくことができる力を与えてください。

 ひとりひとりの力は微力ですが、その微力を合わせて、あなたに喜ばれる世界を作れるように、どうか私たちに謙虚な重みを与えてください。

 私たちは、全ての人が十分に食べ、和解の食卓につくことができることを望みます。

 この願いばかりの貧しき祈りを、イエス・キリストの御名によってお聴きください。

 アーメン。

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