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【嫉妬と劣等感から出てしまった罪】創世記4章1−16節

https://youtu.be/CAqGdNi_85I 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝説き明かし創世記4章1−16節(カインとアベル)旧約聖書・新共同訳 pp.5-6、聖書協会共同訳 p.5 ▼人類最初の殺人   おはようございます。今日は人類最初の殺人が行われてしまった場面を聖書で読みました。  「罪」という言葉が聖書の中で最初に出てくるのも、このカインとアベルの物語からです。  人類最初の罪が、兄弟殺し。つまり、自分が最も仲良く身近であるはずの者の命を奪ってしまうということから始まっているのだよと、この物語は教えてくれているんですね。そして、この兄弟殺しを生んでしまったのは、嫉妬と劣等感による憎しみです。  確かに私たちは、自分とはかけ離れた者に対しては、嫉妬したり劣等感を持ったりはしませんよね。ある程度自分と近いからこそ、その相手と自分を比較してしまいます。  たとえば、自分とモーツァルトを比較して「俺の音楽の才能がモーツァルトに負けている』と言って悔しがる人なんて、そうそういないと思うんですね。少々ピアノやギターが弾けても、最初からモーツァルトなんて天の上の存在なので、比較にならないわけです。  モーツァルトには、アントニオ・サリエリというライバルがいたそうですね。『アマデウス』という映画(私、観てませんが、公開された当時、かなり話題にはなりました)。この映画では、モーツァルトを殺したとかいう話になっているそうですが、実際には憎み合うほどの関係ではなく、お互いに才能を認め合う良いライバルだったということらしいです。  けれども、モーツァルトに嫉妬できるとしたら、それはモーツァルトと実力が近いサリエリしかいないわけで、だからこそサリエリがモーツァルトを殺した……という話にした方が、いかにもリアリティを感じさせる物語になるわけです。  人は、自分に近い者に嫉妬を抱き、劣等感を覚え、憎しみを抱きがちな生き物なのである、ということなのだろうと思います。 ▼神様のえこひいき?  この物語には理不尽に思われる部分がありますよね。  そもそもなんで主はアベルの献げ物に目を留めて、カインの献げ物に目を留めなかったのか。主はえこひいきしたんじゃないか。だから、カインが怒るのは当たり前じゃないか。そもそも主が目を留めてくれないということ以上の自己否定は無いわけで、そのことに対するカインの怒りや悲しみの方に同情するわ、という見方はあると思います。  これに対して、ぼくはよく「神様は肉のほうが好きやったんやろう」と言います。  適当なことを言ってるようですけれども、もう少し丁寧に言うと、これは遊牧民の間で語り伝えられた物語がもとになっているので、神は遊牧民の先祖であったアベルの献げた肉を、カインの献げた農作物よりも好んだということになっているのではないかということです。  何故かというと、この「アベル」という言葉は「アピル」さらに後の時代には「ヘブル」と言葉が変化して、イスラエル民族の先祖であるヘブル人のことを指しているのではないかという説があるからなんですね。「アピル」というのは、「小さい者」「卑しい者」「虐げられた者」といった意味があって、あちこちの逃亡奴隷たちが集まってイスラエスの12部国連合を作ったのだ、といった歴史にもつながってくるので、この話は街に入ることができない遊牧民のお話なんだなと推測されるわけです。  だから主が肉を選んだのは、たまたま主が遊牧民の神様だったからで、農作物に目を留めなかったのは、単に好みの問題であって、他意はない。そういうことだろうと思うんですね。けれども、もともとはそういうことなのでしょうけれど、そのような伝説をもとにして、最終的にこの物語を作った人たちは、人間の根源的な愛情と憎しみの物語に仕立て上げました。 ▼アダムとエバの過ち  この出来事の背景には、そもそもアダムとエバが善悪の知識の木の実を食べたことから始まっていることがあるのではないかと思っています。  アダムとエバは、善悪の知識の実を食べることで、自分達が裸であることに気づき、それを恥じて隠したと書かれています。  ありのままの自分を恥じることなく生きていたのに、そのありのままを恥じてしまう。それが善悪の知識であったという。  それは、自分という存在の善悪を判定しようとして、自己のありのままを肯定できない、自己否定の出来事であったのかなと思います。  自分が善い存在なのか、悪い存在なのか、それをあれかこれか考えようとするところに過ちの始まりがあるのではないでしょうか。  本来はそれは神の領域です。人間は自分の存在の善悪を判定する必要はなく、全てを神に任せてありのままに生きていればよかったのですが、この出来事によって、自分で判定しようとするものになった。そうやって神から離れたんだということなのでしょうね。 ▼他人の評価  このアダムとエバの過ちはこの2人の子育てにも影響を与えたと考えることができます。  2人は、自分の望ましくないと思われるところは隠してしまうという態度を身につけました。つまりありのままの自分を相手には開かない夫婦となりました。  そんな2人は、カインとアベルにも、ありのままの自分を愛することを教えることができなかったのではないでしょうか。もしそうだとすれば、カインとアベルにとっては、自分たちが育った家庭は、本当の意味での安全基地にはなってなかったのだろうと思われます。  望ましい自分と望ましくない自分があるということを学んだカインとアベルは、自分が受け入れられるか受け入れられないかを、他人の評価、特に自分の身近な人の評価によって決めてしまうような子たちに育ったのではないでしょうか。  そして、主がたまたま片方の献げ物を自分の好みで選んだのに対して、自分の評価が損なわれ、自分を全面的に否定されてしまったように思ってカインは激しく怒ったのではないでしょうか。 ▼罪に支配される  主はカインに言います。  「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と言います(創世記4.6-7)。  つまり、主は「お前は正しくない」とは言っていません。「もしお前が正しいのなら」、自分が正しいと思うことをやっているのなら、自信を持って顔を上げればいいじゃないか。けれども、正しいことを行っていないのなら、罪がお前を支配するだろうと。  そして、実際カインは、罪に求められて、自分のほうが罪に支配されることになってしまいます。カインは最終的には、「自分は間違ったことをしていない」と自分で肯定することができなかったのでしょうね。 ▼呼びかける神  9節で主はカインに「お前の弟アベルはどこにいるのか」と尋ねています。これはその前の3章9節で、主なる神が「どこにいるのか」とアダムを呼んだのに似ています。神様は、人間がどこでどのようにしているのかを当然ご存知なわけですが、あえて「あなたはどこにいるのか」と尋ねます。  それは人間に「自分はどこに立っているのか」、「自分は何をしているのか」、「今自分はどのような状態で生きているのか」という問いを投げかけているわけです。「お前の弟アベルはどこにいるのか」。それは、カインに自分のしたことの意味を問うています。  「何ということをしたのか」(10節)。これも3章の13節にあるように、主なる神が木の実を食べた女に対して「何ということをしたのか」と言ったことと似ています。やはり、人間が自分のしたことの意味を問い直すための質問です。何をやったかという目に見える行いはもうわかっているわけです。そうではなく、やったことの意味を改めて問い直しているわけです。  人間は自分の存在を認めてくれないと思った時、あるいは、自分を認めてもらうためには、自分の最も近しい者であっても、自分よりも弱い者の命をも奪うほど、他者に攻撃性を抱くものなのだということを示しています。  これは、単に個人と個人の問題のみならず、社会的な関係でも起こりうることです。自己承認が危うい人ほど、他の集団の人を攻撃し、排斥しようとします。あるいはその攻撃性を自分自身に向けてしまうでしょう。カインの場合は、その攻撃性を自分以外の人間に向けてしまったわけです。 ▼土の中から叫ぶ声  その結果、命を奪われた者の叫びは、本人が死んでしまったとしても絶対に収まることはないのだ、と10節には書いてあります。「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(創世記4.10)。理不尽に命を奪われてしまった者の嘆き、悲しみ、痛みは絶対に忘れ去ってはならないものなのだということが言われています。  と同時に、このようなことを起こってしまう前に、神でさえもカインを止めることはできなかったのかなと、私は改めて思います。人間のやることに神はもはや介入できないんですね。ただ、その嘆き、悲しみ、痛みに耳を傾けるだけです。そして、「何ということをしたのか」と人間に問いを投げかけるのみです。その問いを人間は自分で考え続けてゆくしかありません。  神は、私たちの嘆きを知ってくれている。しかし、その嘆きを生み出さないようにすることは、人間自身の努力に託されているということではないかと思われます。 ▼カインを守る神  そして、主はカインに呪いをかけて追放します。カインは14節で「わたしが御顔から隠されて」と言っていますが、神の顔から隠されるということは、いよいよカインが神から離れてゆく、つまり「神に背を向ける」すなわり「罪」の状態に置かれてしまうということになります。  しかし、最終的に主は、自分の命が狙われてしまうことを恐れたカインにしるしを付けて、彼が殺されることにないようにします。カインは自分は殺されても仕方がないような存在だと知っているわけですが、そんな彼が殺されることのないように、神は守ろうとしてくれるわけです。人を殺したからと言って、その加害者を殺してもよいというわけではないのだということではないでしょうか。 ▼さすらう人間  『なぜ私だけが苦しむのか』という本を書いたハロルド・クシュナーという方は、その本の中で「人類最初の罪、殺人は、嫉妬が原因だった。嫉妬というものが、いかに殺人的な感情の原因になっているのかを説いている。/それは心理学的には、親の愛情を得るための競争に根ざしている。ただ愛されることを求めるのではなく、より多く愛されることを求めるのである。/そして人間は嫉妬によって、自分が幸福になるよりも、他人の不幸を喜んでしまうという罪を犯してしまうこともある。/また、他人が自分よりも苦しみや痛み、悲しみが少ないように見えた時、、人は強烈な嫉妬を覚えてしまうのである。」(クシュナー、斎藤武訳『なぜ私だけが苦しむのか』岩波、2008、p.173-174参考)と言っています。  自分の存在が肯定されない人間ほど、他者の存在が承認されないことを望み、攻撃してしまうものではないでしょうか。そして、自分よりも弱いと思われる人間、あるいは人間集団を攻撃してしまうものなのではないでしょうか。  しかし、本当に癒やされなくてはならないのは、人を妬み、排斥してしまう加害者のほうかもしれません。本当の意味で愛されることなく育ったカインを愛する人こそが必要とされているのかもしれません。  そのような愛がなければ、本当の意味でこの社会から暴力や差別やヘイトが無くなることはないでしょう。愛されなかった人が愛されるような社会を作ってゆきたいものです。  祈ります。 ▼祈り  神様。カインとアベルの物語によって、人の妬みがいかに人と人の関係を破壊してゆくのかを私たちは知らされます。  この世で、本当の意味で愛されていない。全く人に顧みられてはいない人々が、さらに弱い立場の人を痛めつけ、排斥している社会の現実を見るにつけ、全ての人が真実の愛を受けなくてはならないということを、改めて思い知らされます。  神様、どうか私たちを愛してください。あなたの愛が形をとったイエス様へと私たちを近づけてください。そして願わくば、その愛を人に伝えることのできる私たちになれるように導き、私たちをこの世へと送り出してください。  イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
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【いろんな言葉が話せたらいいだろな】使徒言行録2章1−13節

https://youtu.be/uQbiQgrLtY4 2022年6月12日(日)徳島北教会ペンテコステ礼拝説き明かし 使徒言行録2章1-13節(新約聖書・新共同訳p.214-215、聖書教会共同訳p.210-211) ▼ペンテコステ  おはようございます。  今日は、1週遅れのペンテコステのお話をします。先週は私の平日の勤務先の都合で日曜日に出勤しなくてはいけなくなったので、ペンテコステ礼拝をすることができませんでした。それで、1週間遅れということになりました。  「ペンテコステ」というのは「50」という意味で、一説によれば、過越祭から50日目の祭日ということらしいですが、細かいことはわかっていないようです。何かしら春か初夏の季節にユダヤ教では祭が行われていたようです。それをギリシア語を話すユダヤ人の間では、ギリシア語で「ペンテコステ」と呼んでいました。  そして、ちょうどその時期に今日お読みしたような出来事が初代のクリスチャンたちの間で起こったというので、この出来事そのものを「ペンテコステ」と呼ぶようになったというわけです。  過越祭から50日目の祭日に、弟子たちが1つの場所に集まっていると、突然激しい風が吹いて来るような音がして、家中に響き渡り、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上に留まったと。すると、一同は聖霊に満たされて、霊の導くままに、他国の言葉で話しだしたとあります。  ここで、他国の言葉と書いてあるのは、元の言葉では「舌」と同じ言葉です。ですから、「炎のような舌が現れて、異なる舌で話しだした」という言葉遣いになっているんですね。  そして、「霊」というのは「風」という意味も持っていますから、まさに神様の霊が風となってゴーゴーと弟子たちに迫ってきたということがわかります。ここでの「霊」は単数形なので、1つの霊が弟子たちみんなを導いたということになりますので、まさにひとりの神の霊が弟子たちを突き動かす力になったということですね。  弟子たちの心のなかに、「イエスのことを伝えなくては!」という情熱が湧き上がったのだけれども、それは弟子たちの自発的な情熱というわけではなく、神様から否応無く迫ってきたものだということなのであろうと思われます。 ▼地元の言葉  このペンテコステの出来事というのは、面白い話ですよね。ガリラヤ地方出身の、そちらの地方の方言丸出しのイエスの弟子たちが、突然、色々な地方、色々な民族の言葉を喋り始めたというわけですね。  5節に、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」とあります。ここを「信心深い」と訳すか、「真面目な」と訳すかは訳によって分かれていますけれども、いずれにしろ、ユダヤ人の律法、つまりユダヤ人の生き方を定めている掟に忠実な人たちという意味であろうと考えられます。  この天下のあらゆる地方というのは、ローマ帝国の内外を問わず、あらゆる地方出身のユダヤ人ということですね。9節以降あげられている地名の中には、ローマ帝国のさらに東側の地方(パルティア、メディア、エラムというのは、そのあたりだそうですけれど)も含まれていて、まさにその当時のこの地域の人達が知りうる限りの「天下」のあらゆる地方だったということがわかります。  それらの人たちは、その当時のローマ帝国の東半分の共通語としてのギリシア語を、仕事上話してはいましたけれども、自分の地元では、地元の言葉で話して、地元の言葉の中で育ってきたんですね。そして、そういう地元の言葉がたくさんたくさんあったようです。これが、この人たちにとっては本来の自分の言葉です。  その地元の言葉を、やはりガリラヤの地元の言葉で育ったはずの弟子たちがしゃべり始めたというのですから、みんなびっくりしてしまったというお話です。 ▼いろんな言葉が話せたらいいだろな  この物語が実際にあったことだと考える人もいれば、そうではなく創作されたものだろうと考える人もいます。  しかし、どっちにしても、お互いに通じなくなってしまっている言葉が、通じるようになったというのは、おとぎ話的に見ても、とても楽しいものだと思います。  この物語を、旧約聖書のバベルの塔の物語と関連付けて理解しようとする人もいます。  バベルの塔の物語(創世記11.1-9)では、人間たちが天に届く塔を立てて、名を上げようとしますけれども、神様がそれを嫌って、人間が互いに言語が理解できないようにしようとされたとあります。  そのようにしてバラバラにされてしまった人間が、イエスの福音によって、再び一緒になったのだという理解の仕方ですね。そういう風に考える人がいます。  それも面白いと思いますけれども、このペンテコステのお話は、再び言葉が1つになったというのではなく、それぞれの言葉はそれぞれのままであったということが大事なことなのではないでしょうか。  この物語は、弟子たちがなんとかして、色々な地方の言葉を話して、天下のあらゆる地方の人々にイエスのことを良い広めたいという願いから生まれてきた話でしょうね。  天下のあらゆる国の人々に伝えたい。そのために、私たちはあらゆる言葉を話せるようになりたい。そういう願い、そういう情熱がこもったお話ですけれども、その際に、全ての言葉が再び1つになった……というのではなく、それぞれの地元の言葉を守る形で、その人たちに分かる形でイエスのことを知らせたいということが大事なのではないかと私は思います。 ▼バビロン捕囚の記憶  それぞれのオリジナルな言語を大事にしたいということは、「平和を造る人々は、幸いである」(マタイ5.9)と通じる考え方です。  色々な言語を話す人達が住んでいるのに、それを1つの言語に統一しようとするのは、大抵、政治的、軍事的に強い立場にいる国なのではないでしょうか。  バベルの塔の物語の「バベル」というのは、「バビロニア」と暗示する言葉であると言われています。ユダヤ人は紀元前6世紀に、新バビロニア帝国に強制移住させられました。これを「バビロン捕囚」と言いますけれども、このバビロン捕囚のときに、ユダヤ人は自分たちの言葉や宗教儀式を行う神殿を奪われるという目に遭いました。  そして、その時に「動く神殿」「持ち運べる神の言葉」として、そして自分たちの言葉であるヘブライ語を保存するためにも、「聖書」という書物を編纂しなければならないという契機が生まれたという話を聞いたことがあります。  バベルの塔の物語には、その時の記憶が反映していて、1つの言葉であることの弊害、1つの言葉によって名を上げようとする人たちに対して、神はこれを嫌われた。そして言葉をバラバラにした。これは本来の人間のあり方に戻されたということになるのでしょうね。 ▼名を上げるために言葉を奪う  たとえば、日本はアジアの色々な国に、日本語を学ぶことを強制しました。大日本帝国という国を広げて、大東亜共栄圏という構想をもとに、自分たちの名を上げようとしました。  もうだいぶご年配になって、そんなに人数が多くではないと聞きますが、ある年齢以上のアジア人は日本語が普通に話せるということらしいですね。これも、それぞれの国の人に対して、日本が日本語を強制した結果です。  私は同志社という学校に勤めていて、尹東柱(ユン・ドンジュ)という詩人の名前をよく耳にします。尹東柱は太平洋戦争中に朝鮮から日本の立教大学、そして同志社大学に留学して来られた方で、独立運動に加わった容疑で逮捕され、最終的には福岡の刑務所で獄死されています。  この尹東柱の詩を刻んだ石碑が、京都の同志社大学の礼拝堂の横に設置されています。  1940年代に、日本の弾圧のせいで、一切の文学活動が禁止されていた中で、朝鮮語で詩を書き続けた尹東柱という人がいたのだということを思うと、他の民族に日本語を強制し、また強制連行(すなわち捕囚)を行ったことの罪深さを思ってしまいます。  そのようなことを思いながら、今日のペンテコステの物語を読むと、強大な軍事力を持って、「パックス・ロマーナ」(ローマの平和)と言いながら、天下のあらゆる国々を抑えつけていき、ギリシア語やラテン語といったローマ帝国の言葉を世界共通語としていったローマ帝国に対して、どういう思いでこの福音書を書いたルカは、それぞれの地元の言葉を弟子たちが話せることを理想としたのか、考えさせられませんでしょうか。 ▼平和を造り出すもの幸いなり  これは、新約聖書がギリシア語で書かれていることと矛盾してはいます。新約聖書がギリシア語で書かれたのは、世界の全ての人に広げるためには、当時の現実としては当時の世界共通語であるギリシア語で書かないといけないということだったのでしょう。そして、実際、初代のクリスチャンたちの宣教活動も、エルサレムから離れた各地ではギリシア語で進められていったのでしょう。  けれども、今日のペンテコステの物語では、それぞれの地元の言葉を大切にするということが描かれています。それは、それぞれの地元の生活を大事にするということにつながるのではないでしょうか。それぞれの言葉を大事にするということの中にも、平和を造り出すということにつながるものがあるのではないかと、私は思うのですが、皆さんはいかがお考えになりますでしょうか。  本日の説き明かしを終わります。祈りましょう。 ▼祈り  愛する神様。  あなたに与えられたこの体と心、そして命を生きることができます恵みを感謝いたします。  そして、こうして愛する教友の皆さんと共にあなたに礼拝を捧げ、あなたに触れることができますことを感謝いたします。  私たちは1週遅れでペンテコステの聖書の箇所を読みました。  イエス様の弟子たちが、たくさんの人々の故郷の言葉を話せるようになったと書かれてありました。  そこに、たくさんの国々、たくさんの民が持っている文化を尊ぶ、あなたの思いが表れているのではないでしょうか。  私たちの多くは、そのような様々な言葉を巧みに操る能力はありませんが、それぞれの言葉を話す人を大切にすることができますように。  そして、どうか私たちの思いを平和を造り出すものへと導いてください。平和の使いとして私たちをこの世に送り出してください。  イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン。  
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【イエスは若いか年寄りか~永遠の青二才】ルカによる福音書3章23節前半

https://youtu.be/DRoQ2CHuPWo 2022年5月29日(日)枚方くずは教会主日礼拝宣教ルカによる福音書3章23節前半(新約聖書・新共同訳p.106、聖書教会共同訳p.105) ▼イエスが何かを始めた  今日の聖書の言葉は、「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」という一言ですね。  これ実は、日本語訳では「宣教を」という言葉は補足でありまして、この文章には、もともと「イエスが始めた」としか書かれていません。何を始めたのかは実ははっきりとしていないんですね。  ただ、「イエスご自身が」とあるのは、「イエスご自身もまた」という風にも訳せるので、「イエス自身もまた洗礼者ヨハネのように」と訳すことも可能だとも言います。それなら、イエスもヨハネのように荒れ野で洗礼活動を始めたように受け取ることもできるかもしれません。  ただ、洗礼者ヨハネと一緒に活動していた時はともかく、その後ヨハネが殺されて、イエスがガリラヤに戻って自分の活動を始めた時は、もう洗礼を授けていたということは語られていないので、洗礼を授けて回るというのが、イエスの活動の本来の目的であったということは考えにくいと思われます。  とにかく、ここでは単に「始めた」としか書かれていないので、本当のところ、何を30歳のころ始めたのかは、正確にはわからないんですね。  何を始めたかわからないけれども、とにかくイエスは何かを始められた。そして、それがこの世を決定的に変えてゆく上での重要な転換点であった。それをルカが言いたいことだけは明らかなわけです。 ▼30歳  30歳というのは、聖書の時代においてはどういう年齢だと捉えられていたのでしょうか。  ヨーロッパなどでは人が年齢というものを強く意識し始めたのは19世紀以降のことで、それまでは自分が何歳なのか、いったい何年に生まれたのかも、はっきり知らない人が多かったと聞いたことがあります。特に貧しい人たちはそうだったようです。人が年齢を意識し始めたのは、役所が人の出生や死亡を記録し始めたからだというんですね。  しかし、ユダヤではそうではなかったでしょうね。ユダヤ人社会では大昔から「バル・ミツバ」といって12歳になったときには成人式を地域の皆んなでお祝いするという伝統がありますから、子どもが何年に生まれて何歳で、いつから成人したかということは、きっちり数えていたと思われます。  そのようなユダヤ人にとって、30歳というのは、どういう年齢なのか。  たとえば創世記41章46節には、こう書いてあります。  「ヨセフがエジプトの王ファラオの前に立ったのは、三十歳の時であった。」  これは、ヨセフがファラオの夢を解いて、7年間の大豊作と7年間の大飢饉を予言して、エジプトを治める大臣にしてもらった場面に出てくる言葉です。それまで牢獄に繋がれていたヨセフが、それまでの人生とは全く違って、国を治めるような実力者になる。その大きな変化、成熟した人間になる。それが30歳なんだと描かれているわけですね。 ▼大人としての年齢  ほかにも、サムエル記下5章4節には、こういう言葉があります。  「ダビデは三十歳で王位につき、四十年間統治した。」  これも、一介の羊飼いの若者であったダビデが、イスラエル民族の王になった瞬間です。ダビデは後々までイスラエル最高の王として語り伝えられて、やがてイエスの時代には、新しく生まれてくるイスラエルの王は、ダビデの家系から生まれるという伝説まで生まれるようになりました。これも、1人の人間の運命的な人生の転換。人生のある局面が完成したとき。そして新しい局面が始まるとき。そういう特別な年齢なんだと捉えられていることがわかります。  さらには、民数記4章には、何度も「30歳から50歳までの者」が「会見の幕屋で働く」と書かれています。  この時代、イスラエル民族の中で人口調査の対象になったのは、兵役につくことのできる男子20歳以上となっていたのですけれども、「会見の幕屋で働く」つまり、祭司の仕事をするということですね。  この民数記に書かれている時代には、まだ神殿というのは無くて、移動式の祭壇のようなもので神さまを礼拝していて、それを囲う、他の空間とは違う特別な場所を造るためのテントのようなもの。その囲われた場所のことを「会見の幕屋」、つまり、神と人が会見する、神と人が出会う場所としたんですね。  その「会見の幕屋」で働くということは、神と人間の仲介をする役割、つまり祭司ということなんですが、その祭司の仕事は20歳以上ではダメだと。兵隊になるのは20歳以上でいいんだけれど、祭司の仕事は若くても30歳以上でないとダメというんですね。  このことからも、30歳というのは、イスラエルにおいても、成熟した人間という捉え方をされていたのでしょうね。12歳でバル・ミツバを迎えて成人するけれども、それでも成熟した人間としては扱われず、30歳になったら一人前という感覚だったのではないでしょうか。 ▼イエスは高齢者  もっとも、イエスが生きていた時代の人間の平均寿命は、貧富の差に伴って随分違っていたようで、王様や宮廷に仕えたり、神殿に仕えたりするような豊かな人たちは、病気とかにならなければ、70歳~80歳と生きることもあったようですけれども、イエスが一緒に生きた貧しい人たちは、栄養失調の人もいたでしょうし、まともに医者にお世話になることもなかったでしょうし、一説によれば、貧しい人々にとっては、30歳を超えることができれば良し。30歳を超えたら十分高齢者という扱いだったとも言います。  ですから、イエスを取り囲む貧しい人々の間ではイエスは結構いい年で、彼の話を聴いた人たちも、彼の弟子たちも、みんなイエスより若かった可能性が高い。彼らにとってはイエスはじゅうぶんベテランで、話に耳を傾けるべきおじいさん。  でも、長生きをするのが当たり前の金持ちや権力者たちから見れば、まあまあ一人前になったばかりの青年。そんな風に、受け止められていたのではないでしょうか。  イスラエルの聖書の伝統から言えば、30歳というのは、いちばん脂の乗った頃。これまでの人生に見切りをつけ、新たに重要な役割を果たし始めるのにふさわしい年齢だと言えるでしょう。イエスもこのあたりの年齢から、新しい人生、いわゆる「公生涯」(公に人前に出た活動をする生涯)を始めたわけです。  というわけで、彼の周りの人たちから見ると、ある人達からは人生の大ベテラン、ある人達から見ればまだまだ若造。そんな風に、人によって違う見方をされていた、彼は微妙な年齢であったと言えるのではないかと思われます。 ▼イエスは若いか年寄りか  しかし、私は思うんですね。地上に生きていた時のイエス様って、そんなに精神年齢高いんだろうか、と。あまり落ち着いた感じがしないんですね、イエス様。  たとえばイエスの律法学者やファリサイ派の人たちに対してのものの言い方は、ちょっと大人げないと思いませんでしょうか?  マタイによる福音書の23章には、律法学者やファリサイ派の人たちに対する呪いの言葉が並んでいます。  「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と何度も繰り返して、人を攻撃します。そして「先祖の始めた悪事を仕上げたらどうだ」(マタイ23.32)とまで罵ります。イエスの口の悪さと言ったらないです。  有名なのは、いちじくの木を呪って枯らしてしまう話ですね。マルコによる福音書の10章に載っていますけれども、お腹が空いたイエスがいちじくの木に近寄ってみると、実がなってなかったと。そこで、イエスは「今から後、いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言って、枯らしてしまうんですね。  5000人を満腹させる力があるんだったら、自分の分のいちじく1個か2個くらいならせるようにしたらええやん、と思いませんか? こういうイエスの振る舞いを見ていると、大人げないところもあったのかなと思わされる時もあるわけです。  これに比べたら、使徒言行録に出てくる、たとえばガマリエルというファリサイ派の律法学者の方がよほど大人です。  使徒言行録5章38節でガマリエルは、まだ興ってきたばかりのキリスト教に対して、「こいつら滅ぼしてやらないと!」と血気盛んなユダヤ人の仲間たちに対して、「ほうっておくがよい」(使徒5.38)と言っています。  「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」(同38-39)と言います。要するに「冷静になれ」ということです。これが大人の態度というものではないでしょうか。  イエスは違います。ライバルに対しては遠慮なく「災いだ」と呪いの言葉を吐き、モラルに反していると思ったら、「体の一部がなくなっても、全身が投げ込まれない方がましだ」(マタイ5.29)と罵倒し、挙げ句の果てには、実のなる季節ではない木に向かって、「枯れてしまえ」です。 ▼永遠の青二才  ということは、イエスは青二才なのでしょうか……。  ……そうなんです。イエスは青二才なのです。キリスト教会は、この青二才の言葉を永遠の神の言葉だと受け取って、聖書に書き込んだのです。  つまり、神は青二才のように若い。永遠に若いのです。  青二才の若者は、世界のおかしなところ、間違っているところ、歪んでいるところ、矛盾しているところを見ていて、放っておくことができません。  若さの勢いで、遠慮なく批判し、おかしなところを指摘し、何とかして真っ当な姿に改革してゆく。そういうことは、若い力で無くてはできません。  大抵の人間は歳をとるごとにくたびれてきて、「寛容になる」と言えば聞こえはいいですが、要するになんでもどうでもよくなってきてしまったりすることはありませんか。「寛容」と言いながら、実は「妥協」している。「寛容」と「妥協」は隣り合わせではないでしょうか。歳をとると妥協に慣れてしまうのではないでしょうか。  しかし、それではダメなんだとイエスは言います。ダメなものはダメ、いいものはいい。そこはハッキリさせていこうじゃないか。そんなエネルギーに溢れているのがイエスであり、神なのです。  つまり、言うなれば、永遠の神は私たちより若いのです。神は永遠の若者です。神は永遠に青二才、永遠の30歳なのです。 ▼永遠の命に参加する  でも、「永遠の30歳」なんて、素晴らしい響きがあると思いませんか?  ちょっと30歳のころを思い出してみてください。もちろん若い頃に苦しい思い出しかないという方もいらっしゃるかも知れません。若い頃の自分は愚かだったと後悔している方もいらっしゃるかも知れません。しかし、生きるエネルギーという意味では、はるかに今より力強さに満ちていたのではないでしょうか。  30歳はまだ青二才だけど、それでも子どもというわけでもない。ある程度の分別もついてきて、判断力もある。いい具合に大人です。そして、希望と理想と潔癖さを持ち合わせることができる。まだそれらを失ってはいないのです。  私は神を信じて生きるということは、永遠の青二才であるイエスとつながって生きる、永遠に若いイエスと共に生きるということだと思います。永遠の若者イエスにつながることが、永遠の命に触れるということになるのではないかと思っています。  私たちは永久に生きることはできません。しかし、地上で生きているこの束の間、永遠の命の流れに参加することができます。  そして、この青年のような永遠の命に参加してゆくことで、私たちの魂は息を吹き返すのではないかと思っています。  イエスを信じて、イエスに触れて、イエスの永遠の命に参加することが本当にできた時、私たちも永遠の若さの中に生きるということができるのではないでしょうか。  イエスを信じるということは、イエスの若さを自らのうちに取り入れ、イエスの若さをイエスと共に生きるということなのだろうと思います。  祈りましょう。 ▼祈り  愛する神さま。  今日もあなたに与えられたこの体と命を生きることができますことを心から感謝します。  とはいえ神さま。私たちの肉体は歳を経るごとにすり減って、疲れてゆきます。それに従って、心も老いて、くたびれてゆきます。  しかし神さま。今一度、あなたの御子、イエス・キリストにつながらせてください。若いあなたの命に触れさせてください。そして、私たちの心を若返らせてください。元気を与えてください。  私たちを、あなたの永遠の命に触れさせてください。  イエス・キリストのお名前によって祈ります。  アーメン。
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【愛するという抵抗】ローマの信徒への手紙12章9−21節

https://youtu.be/gBlu1V5LDf4 2022年5月22日(日)徳島北教会主日礼拝説教 ローマの信徒への手紙12章9-21節(新約聖書・新共同訳p.292、聖書教会共同訳p.286-287) ▼生活の指針?  おはようございます。今日は、聖書の小見出しでは「キリスト教的生活の規範」となっている箇所ですね。今の最新の訳である「聖書協会共同訳」では「キリスト者の生活指針」という小見出しになっています。  この小見出しというのは、もともとの聖書のギリシア語原典には無いもので、あとからつけられたものなのですけれども、聖書を翻訳した人たちは、「これがクリスチャンの生き方のお手本なのだ」と受け止めて、こういう小見出しをつけたんでしょうし、実際ここに書かれているような生き方を実践しながら、クリスチャンとしての良い証を立てている方もおられます。  けれども、そもそもパウロがそういう、「クリスチャンの生き方のお手本というのは、こういうものなんですよ」というつもりでこの箇所を書いたのだろうか? それが今日の説き明かしのテーマです。 ▼偽りのない愛  まず、「愛には偽りがあってはなりません」(ローマ12.9)とあります。ここは直訳すると、「愛、偽りの無い」という短い文です。「偽りの無い愛!」「偽善でない愛!」「見せかけだけではない愛!」と言い切っています。パウロの激しい口調が感じられるようです。「嘘のない愛!」とまず力強く、短く言い切るところからパウロは後の文章に続けていっています。  そして「悪を憎み、善から離れず」とリズムのある文章が続きます。  「悪を憎め」と言っています。この「悪」というのは、「邪悪なこと」「やくざなこと」「腐ってる」というような意味があり、そのような腐ったような邪悪なことを憎みなさいと言っているのですね。悪に対して、寛容に赦してあげなさいというのではなくて、悪を嫌いなさい、憎みなさいと言っています。  そして「善から離れず」というのは、「離れず」というより、糊か何かでぴったり密着しているようなイメージ。善にぴったりくっついて、ということです。「悪を憎んで、善にくっついて」と、言葉にリズムをつけて言っている感じ。 ▼きょうだい愛  そして、これに続いて「兄弟愛」とあるのは、「フィラデルフィア」という言葉です。  「フィラデルフィア」というのは、アメリカにもそういう名前の街があって、英語みたいになっていますが、元はここに出てくる「フィラデルフィア」というギリシア語です。  「フィラ」は「フィリア」つまり「友愛」という言葉から来ています。そして後半の「アデルフィア」は「アデルフォイ」つまり「兄弟たち」という言葉から来ています。  この「アデルフォイ」は男性形の複数形で、この言葉は男たちに対してだけ語られたのだと思われそうなところですけれども、当時は女性も男性も混じっている教会の共同体全体を、こんな風に「兄弟たち」と呼びかけていたようなんですね。  これはたとえば、日本語でも子どもたちの間に女の子が混じっていても、「きょうだい」と呼ぶ場合がありますよね、「兄」と「妹」と書いて「きょうだい」と読ませる場合もあります。また、最近の印刷物では、ひらかなで「きょうだい」と表記する場合も増えてきました。  そういうわけで、とにかくここでの「きょうだい愛」は、ひらかなでの「きょうだい」どうしでの友愛。それによってお互いに愛し合いなさいと言っています。  そしてここでも「お互いに」ということばが2回繰り返されて、「お互いにきょうだい愛で愛し合い、お互いに尊敬で優れた者と思い……」という風に、やはりリズムをつけた言い方です。まるで、歌うようにパウロはこういった言葉でたたみかけているんですね。 ▼ホスピタリティを追求せよ  続いて、「怠らず励み」は、もうちょっとわかりやすく言い換えると、「めんどくさがることなく熱心に努力し」ということになりますでしょうか。めんどくさがりでものぐさの私には耳が痛い言葉です。  「霊に燃えて」というのは、霊がぐらぐらと沸騰している感じ。そして「主に仕えなさい」は「主の奴隷になりなさい」という感じ。  そして日本語の聖書ではここで一旦「。」がついて文章が切れていますけれども、パウロは実はここで文章を切っていません。同じような言葉のリズムで一気に長い文章を書いていきます。  ここのところは、聖書の文面を目で追いながら、聴いていただければありがたいんですけれども、こんな風に言っています。  「めんどくさがらないでしっかり努力し、霊をぐらぐら煮立たせて、主の奴隷になり、希望をもって心から喜んで、苦しみ悩みがあってもそこから逃げないで、祈りに専念し、聖なる者たち(ここではおそらく、宣教に専従している使徒たちのことを言っているのだと思いますけれども)そういう人たちの困窮を共有し、つまり、一緒に貧しさを味わい、見知らぬ人を接待するようなホスピタリティを必死になって追い求めなさい」……ここまでパウロは一気に言葉を続けています。彼の必死の勢いが感じられます。 ▼喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け  続いて、14節でもリズミカルに、「迫害する者を祝福せよ、呪うのではなく祝福せよ」。15節も「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」。  そして16節、「お互いに同じ考えを持って」あるいは「お互いに配慮して」。ここを英語の辞書では「ハーモニー」と説明しているものもあるので、「お互いにハーモニーを鳴らすように調和して」と訳してもいいかもしれません。  そして、「自分を高い者だと考えるのではなく、低い者と一緒になりなさい」。「自分を賢い者だと思うなんて、とんでもない!」。  17節、「誰に対しても悪で返すのではなく、すべての人の見ている前で、良いこと、美しいこと、あるいはためになることを心がけなさい」。 ▼できることなら復讐せず、平和に過ごせ  そして、これに続いて、「可能なら、せめてあなたがたは、全ての人と平和に過ごしなさい」(18節)。  「できれば」とここでは訳されていますけれども、この「できれば」「可能なら」というのは、「力」という言葉とつながる言葉で、「もしできるんだったら」というようなニュアンスでしょうか。ですから、実はこのローマの人にとっては、すべての人たちと平和にやっていくということが難しい状況だったのかもしれません。「平和にやってゆく」というのは、かなり「力」が要ることだったのかもしれない。ローマの教会の人たちの周りには、これまで出てきたような「迫害する者」がいて、教会は敵に取り囲まれていたのかもしれません。  そう考えると、次に続く言葉も不自然な流れではなくなります。  19節、「自分で仕返しをしてはいけない、愛する者たち」。そして、これは「神の怒りに任せなさい」と私たちの聖書ではなっていますけれども、私がギリシア語で見る限りでは、「神の怒りに任せよ」ではなくて、直訳すると「怒りの機会を手放しなさい」と書いてあるように読めます。「怒りの機会を手放しなさい」。 ▼復讐の神?  そして、「というのは、こう書いてあるからだ。『復讐は私のもの。私が仕返しをする、と主が言われる』」。これは旧約聖書の申命記32章35節に書いてある言葉の引用なんですね。申命記には、この新共同訳だと「わたしが報復し、報いをする」(申命記32.35)と確かに書いてあります。  これは、前にもKさんがおっしゃっていたように、文語訳では「復讐するは我にあり」という言葉で、この言葉が題名になった映画がありましたね、緒形拳さんが主役でしたでしょうか。  この「復讐の神」というのは、ちょっと私たち戸惑ってしまいますね。私たちが知っている愛と平和の神さまとはちょっと違う感性なのかもしれません。  パウロもイエスが、自分に振るわれた暴力に対して、復讐することなく、自分を殺そうとしている人たちが赦されるようにと願いながら亡くなっていったことを知っていたはずですから、どういうロジックでパウロがここに書いてあるように「復讐するは神にあり」ということを言い出したのか、よくわかりません。  ただ、こういうことを言い出すのは、それほどローマの教会の人々の間で、自分たちを迫害する敵に対して「復讐したい」という怒りが高まっていた。それをパウロが察知していたと考えられるのでないかと思います。  ローマの人たちは、もう我慢がならない。復讐したい。怒りのボルテージが高まっている。それに対して、「復讐など考えることもなりません」とまでは言えなかったのではないか。だから、パウロは「復讐は神に任せなさい」となだめるしかなかったのではないかな……と推測します。 ▼イエスを正しく継承するパウロ  そして更に読み進めましょう。  「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(ローマ12.20)。  「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」というのは、マタイによる福音書25章の後半に書かれている、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25.35)というイエスの言葉を踏まえていることは明らかですね。  これは、今日読んだパウロの言葉の中でも、13節の「旅人をもてなすよう努めなさい」と言っているところにもつながってきます。パウロは、イエスがマタイの25章で「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25.40)と言っている言葉をちゃんと踏まえた上で、今日の聖書の箇所を語っているんですね。  しかもパウロはそれを、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5.44)というイエスの言葉とも結びつけているんですね。先程も確かめたように、14節でパウロは、迫害する者を祝福しなさいと言っています。  ですから、パウロは今日の聖書の箇所で、イエスのメッセージをギュッと凝縮して伝えようとしているんですね。「自分たちを迫害する敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませてやりなさい」と言っているわけです。 ▼燃える炭火を頭に積む?  しかし、謎めいているのは、それに続く「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」という言葉です。これは何を意味しているのか、正直言ってわかりません。  いろんな人がいろんな解釈を披露しています。たとえば、これは「頭がカーっとなることを意味しているのだ」とか。自分たちを迫害するような奴らに、こちらから逆に愛してあげると、相手は恥ずかしさのあまり頭がカーっと熱くなると。そういう解釈をする人もいます。  あるいは、炭火というのは、熱によってものを清めたり、金属を溶かして不純物を取り除くために使われるので、相手の心の中の不順な思いが清められるように、という意味なのだとか。いろんな人がいろんなことを言うので、たぶん誰もわかっていないのでしょうね。  謎の言葉は謎のままにしておいてもいいのではないかな、とも思います。2000年前の人がどういう文化的背景でこういうことを言ったのか、完全にはわからないこともありますので、わからないことをわかったように言う必要はないのではないかなと思います……と言って、私が不勉強なのを正当化しているみたいですけどね。 ▼愛による抵抗  この「燃える炭火を頭に乗せる」ということの意味がわからなかったとしても、パウロが言わんとしているのは、「敵を愛しなさい。自分を迫害する者を祝福し、食べさせたり飲ませたりしてあげなさい」ということなんです。これは、相手の暴力に対する無抵抗ではなく、一種の抵抗の形なのかもしれません。  イエスは、「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5.39)と言いました。これは、自分に痛みや侮辱を与える者に対して、「もっとやってみろ」という、ある意味挑発的な、挑戦的な抵抗の態度とも受け取れるわけですが、パウロはこれも踏まえて、「自分たちを叩く者を、あえてもてなしてやれ」という、愛による抵抗を呼びかけているのではないでしょうか。  そしてパウロは、このひとまとまりの勧めを、21節の「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と言ってしめくくります。直訳すると、「悪に対して、悪で打ち負かすのではなく、善で打ち負かしなさい」という言い方をしています。「善で打ち負かしなさい」。これも、非常に挑戦的な物言いです。  ▼毅然として敵を愛す  というわけで、こうしてちょっと細かめに今日の聖書の箇所を読み込んでゆくと、パウロがものすごい勢いで、乗りに乗って語りかけている調子とかを読み取ることができますし、その背景には、ローマの教会の人たちが、自分たちを迫害する、あるいは自分たちに悪意のある仕打ちをしてくる人々に対して「なんとかして復讐してやりたい」と思っている、その思いを察知したパウロが、「そうではない。あなたがたは怒りに任せて自分で復讐するのではなく、むしろ敵を愛するのだ。愛するという抵抗をするのだ」と必死に励ましている様子が感じられるように思います。  一見、さらっと読むと、穏やかな愛の生活の勧めのように読める箇所ですが、実は、周囲の人々によって迫害され、悪意にさらされ、非常に苦しい思いをしているクリスチャン・コミュニティに対して、「むしろ愛と善意によって抵抗するんだ」と勧めている、力のこもった言葉なのだということがわかってきます。  パウロが訴えかけているのは、「愛による抵抗」「愛するという抵抗」です。  私たちが誰かに苦しみを与えられるということがあったとして、その苦しみを与える相手に対して、仕返しをするのでなく、そしてその悪をただ赦すのではなく、その敵を愛するという形で抵抗ができますでしょうか。  その場合、愛するというのは、ただ悪を見過ごして、いつもニコニコと笑っているだけの態度ではなさそうです。  愛することによって、自分は悪には負けない。復讐心には負けないのだ。そういうはっきりとした態度表明を示す。そういう愛し方をしなさいと、パウロは勧めているのではないかと思われます。  毅然として敵を愛す。そのような生き方が自分にできるだろうか。居住まいを正される思いです。  祈りましょう。 ▼祈り  神さま。  この敵意と憎しみ、不安と恐怖が満ちている世の中を救ってください。これらが私たちの罪であることは承知しています。私たちは私たち自身の力で、自分を救うことができていません。どうかあなたの救いが、あなたの希望を与えてくださいますように、お願いをいたします。  できれば、とパウロは言っています。できれば、私たちが全ての人と平和に暮らすことができれば、どんなに素晴らしいことでしょう。それを可能にするために、どうか私たちに恐怖と不安を乗り越えさせてください。  そして、あなたの愛と平和を信じ、この世を変えてゆく勇気を与えてください。  国と国の争い、民族と民族の争いだけでなく、私たちの身の回りにおいても、私たちが憎しみによって戦うのではなく、無抵抗に泣き寝入りするのでもなく、愛するという抵抗をなすことができますように、どうか力を与えてください。  すべてのことを愛でもってこれをなすということができますように、私たちがあなたのことをいつも思い出しながら、今週も私たちをこの世の生活に送り出してください。  私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン。  
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【疑いながらも信じている】出エジプト記19章1−6節

2022年5月15日(日)日本キリスト教団伊丹教会 主日礼拝 説教 出エジプト記19章1-6節(旧約聖書・新共同訳p.124-125、聖書協会共同訳p.115) ▼聖書の言葉(聖書協会共同訳)  イスラエルの人々はエジプトの地を出て、三度目の新月の日にシナイの荒れ野にやってきた。彼らはレフィディムをたってシナイの荒れ野に入り、その荒れ野で宿営した。さて、モーセは神のもとに登って行くと、主が山から呼びかけられた。  「ヤコブの家に言い、イスラエルの人々にこのように告げなさい。『わたしがエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れてきたことをあなたがたは見た。それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。そしてあなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」 ▼同窓生  おはようございます。同志社香里中学校・高等学校というところで、「聖書」という科目の教師をしています、富田正樹と申します。今日、こうして伊丹教会の皆さんと共に礼拝をお献げすることができます恵みを心から感謝しております。  私、今は同志社で働いてはいますけれども、中学、高校、そして1回目の大学は関西学院でした。  それから会社員をしばらくやっておりましたけれども、教会の牧師になる志を与えられて、同志社大学の神学部に編入しました。  伊丹教会にも関学時代の友達もおられまして、ちょっと緊張しているんですけれども、ときどき関学時代の友達に言われるのが、「おまえは関学出身なのに、なんで同志社に行ったんや」ということなんですね。  「関学にも神学部はあるのに、なんで関学の神学部に行かへんかったんや」と言われることがあります。  割と理由は単純で、高校時代から通っていた教会(阪急今津駅の近くにある西宮教会ですけれども)、そこが同志社系だったので、教会と言えば同志社と思っていたところがあるんですね。決して関学が嫌で行かなかったわけではありません。  学生時代から「学校は関学に通い、教会は同志社系に通う」という感覚だったので、いったん就職した会社を辞めて牧師になろうと思った時点で、神学部については同志社に入ろうと思ったのは、自分としては自然な成り行きだったわけです。  ですから、わたくし的には関学と同志社の両方の学校を卒業できてよかったな……という思いでいます。 ▼教会探検隊  それで、当初教会の牧師になろうとしていたんですが、これもまた不思議な導きによって中学校・高校の学校の聖書の先生になることになったのが25年前です。  ちょうど25年前に、同志社の学内校で「同志社香里中学校・高等学校」、略して「同志社香里」という学校の聖書科の教師に欠員ができたということで、誰か行かないかという話が神学部であったわけです。  それで私も悩んだんですけれども、「若い人たちにキリスト教を伝えたいな」「若い人たちと聖書の勉強ができたら楽しいやろな」そして「学校と教会とが一緒に生徒さんにキリスト教を伝える、その橋渡しができたらいいやろな」と思って、応募することに決めたんですね。  それで学校に就職してから早速始めたのが、「教会探検隊」という名前のレポートです。  まあ、学校から「教会に行きなさい」と言って、感想文を書かせるというのは、昔からあちこちのキリスト教学校でやっていると思うんですけれども、これに「探検隊」という名前をつけて、いくつもの異なる教会に「行ってごらん」と送り出して、レポートを書いてもらう課題を作ったんですね。  最近では、もうひとりの聖書の先生のアイデアで、「何か1つ教会の人に質問をしてみよう」という課題も付け加えて、レポートしてもらう形式に発展させています。  ただ、長らくやっておりましたこの「教会探検隊」ですけれども、残念なことに、コロナが流行ってしまって、この2年間ほどは実際に教会に足を運ぶということができなくなりました。  今、人数制限をしたり、色々工夫をしながら礼拝堂で礼拝を行う教会も増えてきましたけれども、正直、感染者の数が下げ止まりの大阪府にある学校の感覚としては、「積極的に教会に行きなさい」とは言いにくい状況です。「無理に行かなくてもいいよ」と言わざるを得ません。  その代わり、いろんな教会のホームページやYouTubeなどを使った、礼拝のライブ配信や説教の録画などを見て、それでレポートを書いてもいいよ、と言ったんですね。  そしたら、みんなまた積極的に「教会探検隊」のレポートを書いてくるようになりました。 ▼悩ましい授業  ところで、学校で聖書の授業をやっていて、時々ではありますけれども、困ることがあります。そんなに頻繁なことではないんですけれども、クリスチャンとしては非常に悩ましいところもあるので、そういうことが起こるたびに、当事者の生徒さんのことは強く印象に残ります。  それは、たとえば小学生まで無邪気に「世界は神さまが6日間で作ったんだよ」とか「ノアの方舟と洪水の出来事は本当に起こったことなんだよ」とか、そういうお子さんが、中学生になって、「それは科学的あるいは歴史的に証明された事実ではないんだよ。その代わり、深い意味を持った神話なんだよ」と授業で教わる時のショックです。  そもそもクリスチャンのお子さんが入学してくることが非常に珍しいので、そういうことはたまにしか起こらないんですけれども、たまに入学してこられるとそういうことが起こるときがあります。  それで一度、保護者の方からお叱りの電話をいただいたこともあります。「子どもの信仰を潰された。どうしてくれるんだ!」。それで管理職も困ってしまって、「富田くん、こういう時はどうするんや」と訊かれました。  私も、「サンタクロースが実際にいるかどうかを、何歳まで信じているかですよね」と答えたので、管理職の先生たちも余計に困ったような顔をしていたのが印象的でした。  あるいは、「キリスト教は世界で一番正しい宗教で、神さまに愛に満ちた素晴らしい方だ」と信じていた生徒さんが、高校生になって世界史の授業を受けて、キリスト教世界がどんなにひどい戦争を、他の宗教の民族に対しても、クリスチャン同志においても、しかけてきたかを、これでもかというほど思い知らされます。  私がやっている聖書の授業でも、高校生になると、自由にキリスト教についてネットや書籍、新聞、論文などを使って調べ学習をしてもらったりするので、キリスト教が必ずしもいつも平和的というわけではなかったし、他の宗教にもその宗教なりの真理があるということがわかっています。  そうすると、これまでキリスト教こそが唯一の真理だという純粋な信仰を持っていたお子さんは、他のお子さんが悩まないようなところで、困惑してしまうんですね。 ▼困惑の聖書  今日の聖書の箇所も、困惑するような言葉が並んでいます。少なくとも私にとってはそうです。  エジプトの地で奴隷状態にあったイスラエルの人々は、モーセのリーダーシップと神さまの力ある業によって、エジプトから解放され、カナンの約束の地へと旅に出ます。そして、シナイ山の麓までやってきたというのが、今日の聖書の箇所の場面です。モーセは神さまが住んでいるシナイ山に登ってゆきます。  すると、神さまが言います。今のところ、一番新しい翻訳である『聖書協会共同訳』によれば、こんな風に書いてあります。  「ヤコブの家に言い、イスラエルの人々にこのように告げなさい。『わたしがエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れてきたことをあなたがたは見た。それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。そしてあなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記19.1-6)  「私がエジプト人にしたことを、あなたがたは見た。私はあなたがたを鷲の翼の上に乗せて、このシナイ山の麓まで連れてきたのだ」と言っていますね。  こんな風に、神さまが鷲の翼の上に乗せて連れて行く、とモーセが言ったというのは、旧約聖書の中では、たとえば申命記の32章でも同じように書かれています。  「鷲がその巣を揺り動かし、雛の上を舞い、羽を広げて雛を取り、翼に乗せて運ぶように」(イザヤ32.11)と書いてあります。  神さまの力によってイスラエルはエジプトから助け出さたと。その旅の途中には色々なことがありました。  旅の途中で水が無くなってモーセに文句を言うと、岩から水が出てきたり、腹が減ったとモーセに文句を言うと、不思議な食べ物「マナ」が降ってきたり。そんな風に神さまは、特別のはからいをもってイスラエルを助け、荒れ野の旅を導いていきます。  その力強いわざこそが「鷲の翼に乗せて」連れてきたというたとえで、出エジプト記の記者たちも申命記の記者たちも、言い聞かせているんですね。 ▼復讐の神  けれども、この「私がエジプト人にしたこと」を、イスラエル側からだけではなく、エジプト側から見たらどうでしょうか。  エジプト人は確かにひどい奴隷労働でイスラエル人を苦しめました。それに、イスラエルの子どもたちを皆殺しにするという恐ろしい仕打ちもしました。  お話の中の話だけではなく、今の世の中で、例えばどこかの国が、別のどこかの国に対して、民族浄化作戦で子どもたちを皆殺しにするなんてことが起こったら、どんなに国際世論が非難するでしょうか。  けれども、そんなエジプトに対して神がやったことはそれに対する復讐です。エジプトがただ手を引けば、それで事は済むといったようなものではなく、ここでイスラエルの神が行ったのは、とことん叩きつぶすような復讐です。報復攻撃です。  ひょっとしたらこれは、「そこまで報復しないと、エジプトは手を引かないのだ、それが現実というものなのだ」という一種の現実的な感覚を表した物語なのかもしれません。  エジプトはナイル川の水が血になって飲めなくなり、カエルや虫や疫病が大発生し、そして最後にはエジプト中の初子、人間も家畜もみんなその初子、人間で言えば長男が皆殺しにされます。ここまでやらないとエジプトは手を引かない。そういう現実に立って神は振る舞っただけで、それが民と民の戦争というものなのだということを表しているのかもしれません。  しかしこれは、私たちが知っている平和の神とは別のものではないかという疑問も浮かんできます。  それとも、復讐するのが人間ではなく神だからいいのだという理屈が成立するのでしょうか。  ローマの信徒への手紙12章19節には、文語体で読むと「復讐するは我にあり、我これを報いん」という言葉も収められています。  「復讐するは我にあり」という映画が昔ありましたけれども、これは「自分で復讐するな。神がご自身で復讐すると言っておられるのだから」という意味になります。ということは、人間が復讐しなくても、神さまが復讐してくださるのだから、ということになります。  しかし、復讐は復讐、報復は報復です。  私たちの神さまは、愛と平和の神ではなかったのでしょうか。 ▼エクソダス  『エクソダス』という映画があります。皆様はご存知でしょうか。  映画ファンならリドリー・スコットという監督の名前はよくご存知かもしれません。懐かしいところでは『ブレード・ランナー』や『エイリアン』、日本を舞台にした、松田優作が出演していた『ブラック・レイン』、そして『グラディエーター』など、有名な作品がたくさんあります。  そのリドリー・スコットが監督した作品に『エクソダス』という映画があります。「エクソダス」とは「脱出」、つまり「出エジプト」のことです。モーセと神によるイスラエルのエジプト脱出物語で、モーセとエジプトの王(ファラオ)であるラメセスとの対立、そして特殊効果をふんだんに使った、十の災いの映像が見どころでもあります。  この映画の中でも、モーセに現れる神はモーセ以上に攻撃的で残酷です。最初はモーセにエジプトに対する反乱戦争をやらせようとするのですけれども、それが物足りない、手ぬるいと思うと、今度は自分が手をくだしてエジプトを叩こうとするのですね。  そして、先程も申し上げましたように、ナイル川が血の川になり、カエルやイナゴやブヨやアブが大発生し、疫病が大流行し、最後はエジプト中の初子の命が奪われるという惨劇を引き起こします。  そして、イスラエルはエジプトを脱出することになるわけですが、海を渡る奇跡によってエジプト軍から逃げ切って、対岸に到着したイスラエルの人々を眺めながら、リーダーであるはずのモーセが、「これからが大変だ」と漏らすシーンがあるのですね。  イスラエルがこれからカナンの地に入っていこうとすれば、先住民にとっては明らかに侵略となるだろう。これは大変なことになる。「なにしろ1つの国を作れるくらい大きいのだからな」とモーセは言うのですね。  1つの国を作れるくらいの大人数がカナンの地、すなわちパレスティナに侵攻するというセリフが、現在のイスラエルがパレスティナ人に対して行っている圧迫と暴力を批判していることは明らかです。  こんな風に、イスラエルの側から見れば「神が我らを救った。神が我らをここまで導いた」という論理も、そして今日の聖書の箇所にも書いてあるように、「我々は神の宝の民である。聖なる国民である」と言う喜びの言葉も、逆の立場から見れば、とんでもない暴力になりうるということから、目を背けるわけにはいかないんですね。 ▼聖書を疑う  これは、聖書に書いてあることを疑うという読み方です。そんな読み方をしてもいいのか、自分でも戸惑います。困惑します。果たして神はこんなに残虐な報復をし、また侵略をさせることまでして、イスラエルを守り、導き、特別な民とするのか。  それは、イスラエルにとって都合の良い神を想像して書かれた物語ではないのか。いや、そもそも聖書というのは、そうやってある集団の人間によって、自分たちに都合よく書いた物語の集大成に過ぎないのではないか。そういう疑問を持ってしまう人が出てきてもおかしくありません。  実際、私が担当している高校2年生のキリスト教に対する自由研究の中では、こういうことに似た疑問。つまり、ある一方の側から見て正しいと思われることも、もう一方から見ればとんでもない話ではないかということですね。そういう疑問が教師である私にぶつけられることも時にはありますし、それに対して、聖書が人間の願望の投影によって書かれた可能性を否定しきれない自分もここにいます。  少なくとも、今日読んだ聖書の箇所に関してはそうです。  私たちはこのような聖書の箇所にぶつかってしまった時に、どういう態度を取ればよいのでしょうか。 ▼敵を愛せ  私は思います。たとえ聖書であろうとも、物語を語り継いだ人たち、そしてそれを書き記した人たちの、神さまに対する「解釈」であるとしか言いようがないのではないか。  紀元前1200年前後の、エジプトから逃げることに成功したイスラエルの人たちにとっては、「神さまが私たちを救い出してくださった。私たちが受けた仕打ちに対して、神さまが復讐してくださった。そして、私たちは神さまの宝の民となったのだ」という、神さまに対する「解釈」が唯一の信じられる真実だったのでしょう。  そしておそらく、それが1200年間イスラエルの中で支配的な解釈だったのでしょう。  けれども、今からおよそ2000年ほど前に、この神解釈に真っ向から対決した人物が現れます。  その人物は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5.44)と人を教えました。また「もし人に右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出せ」(マタイ5.39)とも言いました。  当時のユダヤ人の間では、「隣人を愛せ」と言った場合、この時の「隣人」は「同胞」のこと、つまり同じユダヤ人のことを指します。我々は同胞なのだから、互いにしっかり愛し合おうということになります。しごく真っ当といいますか、非常にわかりやすい教えです。  特に、数多くの敵と戦いながら、自分たちのアイデンティティと土地を守ってきたイスラエル人にとっては、自分たちの生活を奪おうとするような敵は憎み、同胞を愛せ」というのは、とても大切な教えだったんだと簡単に推測できます。  そこにもってきて、「隣人を愛したところで、何になる。そんなことは誰でもしていることだ。むしろ敵を愛せ」などと教え始めたら、そりゃあ多くの人に憎まれるのは当然でしょう。そんな教えを同胞の間に広められたりしたら、同胞の民族的団結が壊れます。  ですから、こういう危険な教えを広めようとする人物は消さなくてはなりません。この人物は激しい論争を巻き起こしましたが、最終的には実際、自分の暴力に対する復讐を弟子たちに指示するでもなく、十字架につけられ、命を奪われてゆきました。 ▼大義のない暴力に対して  私は、この人物はイスラエルの中に、新しい神解釈を持ち込んだのだと思います。それは革命的な神解釈です。同胞がそれを聞いて怒りに燃えるような解釈です。けれども、それが無ければ永遠の平和が訪れることはないような、偉大な解釈です。  彼は「平和を造り出す人々は幸いである」(マタイ5.9)と語りました。また、「剣を取る者は剣で滅びる」(マタイ26.52)とも語りました。  ご自身が語るこういう言葉が、一時的には同胞に怒りを巻き起こすかもしれないけれども、この信念が無かったら、私たち人間は平和を造り出すことができないのだと、彼は私達に語りかけているのではないでしょうか。  現実の世の中を見ると、この言葉を実践するのは、大変難しいと思わざるを得ません。どう考えても大義の無い集団的な殺害が始まってしまった時、それに対して丸腰の非暴力で対応するのが、果たして正しいことなのか。そんなことは絶対に許されないと思う人がほとんどでしょう。  ごくたまに、責められた側であっても、無条件降伏をするべきだ、それが最も平和に近い解決方法だと主張する論を見かけることも無いではありません。しかし、多くの人が「それは本当に道徳的な解決方法なのか。それで先に戦いを始めた方が攻撃を止めなかったらどうするのか」と言うでしょう。  私達は、このような世界の危機に対して、どう聖書を読むべきなのでしょうか。そして、どういう発言と行動をするべきなのでしょうか。  これは2000年前のイスラエル人同胞だけではなく、現代の私達に対する挑戦でもあると思います。 ▼疑いながらも信じている  私は、この革命的な神解釈を唱え始めた人物、すなわちイエス・キリストを信じたいと思います。  たとえ人間が人間に対して一方的に暴力を奮っても、そしてその暴力に対して応戦せざるを得なくなっても、その結果どんなに絶望的な状況が繰り広げられようとも、神はどの人間も同じように、神の子どもとして愛しておられるのだということを、信じたいと思います。  世界の緊張はどんどんと高まっています。敵と味方がはっきりと分かれ、この戦いに乗っかっていこうとする国々も増えてきました。私たちの国も例外ではありません。  どこに住んでいる人間も、みな神に愛された、神の作品なのだということを誰も認識していないと、この世はこんなに悲惨な場所になってしまいます。  聖書の神解釈は、書かれた時代、書いた人たちによって変ってゆきます。出エジプト記を書いた人たちは、「自分たちだけが神さまに選ばれた民族なのだ、私たちを選んだのが神さまなのだ」という神解釈をしていました。しかし、イエスという人物は、「そうではない。神は愛なのだ。敵をも愛せというのが神のご意志なのだ」という神解釈を示しました。  神解釈は変ってゆきます。  ですから私たちは、聖書に書かれてあることを、それがどこに書いてあることでも、すべて字義通りに正しいと思い込むことはやめておいたほうが良いのではないかと思います。  むしろ、疑うべきところは疑ったほうが良い。そして、私たちを本当に幸福にするのは、そのような神解釈なのかということを、真剣に考えたほうがよいと思うのですがいかがでしょうか。  私は、時には聖書の記事を疑います。けれども、イエスが示してくれた神の分け隔てない愛は信じています。皆さんはどのように思われますでしょうか。  祈りましょう。 ▼祈り  愛する神さま。私たちひとりひとりにかけがえのない命を与え、この世に送り出してくださったあなたに、心から感謝いたします。  あなたが私たち人類全ての者を愛してくださっていることを信じます。この世の生きとし生けるものを愛して造ってくださったことを信じます。  しかし、私たちはそのようなあなたの愛を裏切り、互いに傷つけ合い、命を奪い合っています。大きな戦いも起こしたり、小さな命を踏みにじったりします。  神さま、どうかこのような私たちを赦してください。全ての命が、あなたに愛された大切なものであることを、今一度全ての人に気づかせてください。  絶望の中に希望を見いださせてください。  尊いイエス様のお名前によって、ここにおられるお一人お一人の願いと共に、この祈りをどうかお聴きください。アーメン。
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【私たちにしか通れない道を行こう】マタイによる福音書7章13−14節

https://youtu.be/6x7P_SahPhw 2022年5月1日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かしマタイによる福音書7章13−14節(狭い門から入りなさい) ▼美しい光景  皆さんおはようございます。YouTubeライブでご参加の皆さんもおはようございます。  今日は先日、4月17日の日曜日に行われた徳島北教会の総会で承認された、2022年度の教会指針、「私たちにしか通れない道を行こう」という言葉を巡ってのお話となります。そして、引用した聖書の箇所は、マタイによる福音書7章13節、「狭い門から入りなさい」から始まる言葉です。  この言葉が書かれているのは、いわゆる「山上の説教」と呼ばれている部分の終盤です。  イエス様は、いろんな所でいろんなお話をしたんでしょうね。ガリラヤ地方で。特にガリラヤ湖の湖畔の丘の上で話すことが多かったらしい。  ガリラヤ湖というのは、面積が琵琶湖の3分の1くらいで、湖の周りは平坦ではなく、湖を囲んだ盆地のようになっていて、岸辺からすぐに小高い丘に登ることができます。そういった丘の上でイエス様は人々を教えたんですね。ですから、「山上の説教」山の上の説教と言いますけれども、実際のところ、小高い丘、丘陵地帯のようなところで、イエス様はお話になっていたわけです。  それはとても美しい光景だったと思うんですね。ガリラヤの湖畔の丘では、赤や白、紫など、色とりどりの花を咲かれた木がたくさんあって、その花が咲き乱れて非常に美しいんですね。その美しい木々の間で、イエスを囲んで人々が腰を下ろしている。その人々に向かってイエス様が語りかける。非常に、ある意味「絵になる」、今風に言えば「ばえる」場面だと言えます。 ▼山上の説教  イエス様はそのようにして、ガリラヤ湖畔のあちこちの丘で教えられたのでしょうけど、マタイによる福音書では、その教えを5章から7章にまとめるように編集しています。それがいわゆる「山上の説教」(昔は「山上の垂訓」と呼ばれていましたけれども)まあ「山上の説教」と呼ばれる部分です。  ですから、一箇所でこんなにまとまった教えを一気に語られたのではなくて、マタイさんがイエス様の教えの代表的なものを集めてきて、ここでわかりやすくまとめたと考えられます。   それでここには、印象的なイエス様の言葉、よく知られた言葉ですね。たとえば「心の貧しい人々は、幸いである(マタイ5.3)とか、「平和を造る人々は、幸いである」(同5.9)とか、あるいは「敵を愛しなさい」(同5.14)とか、「人を裁くな」(同7.1)、そして非常に有名な「求めなさい。そうすれば。与えられる」(同7.7)。それに続いて、今日私たちが読んだ「狭い門から入りなさい」(同7.13)という言葉が続きます。  それからこの山上の説教のなかに、これは6章の9節以降ですけれども、私たちが毎週唱えている「主の祈り」も収められています。 ▼狭い門から入りなさい  それでこの「狭い門から入りなさい」という言葉ですが、これ、私が勤めている学校では「求めなさい」に続いて、よく引用される聖句です。教員が使いやすい言葉なんですね。  教員が好きな聖句というのは、他にもいくつかあって、たとえば「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す」(ローマ5.3-4)という言葉はよく使われます。それから、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3.13-14)といった言葉ですね。  「求めなさい」、「忍耐を生み出す」、「目標を目指してひたすら走れ」といった言葉が好まれるところに、学校の姿勢とか体質がよく表れていると感じられるのではないかと思います。聖書の言葉で生徒さんたちに気合を入れようというわけですね。  そして「狭い門から入りなさい」ですが、やはり「よりしんどい道を行きなさい」という意味に解釈されているわけですね。「安易に楽な道を通ってはいけない」という意味ですね。  けれども、全体を読んでみます。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7.13-14)と書いてあります。  「広々とした門があって、そこから入る者が多い」と書いてあるということは、広い道を通る者は多数派なんだということを言っているわけですね。そして「命に通じる門を見いだす者は少ない」ということは、命の門に通じる道を通る者たちは少数派なのだと言っているわけです。しんどい道を通りなさいという意味とは必ずしも限りません。  あるいは、それは単にこの道を見いだす者は、単に少数派であるというだけではなく、それは自分だけの道、自分たちだけの道なのだ、と読むことも出来ます。 ▼私たちにしか通れない道  このような読み方のヒントを与えてくれたのは、私の友人の牧師で、教会付属の幼稚園の園長をしている人が書いていた文章でした。  その人が言うには、「狭い門」というのは、競争率が高いとか難易度が高い中でやっと入れる関門とうことではなく、「ひとりひとりの姿のあるがままの姿に形整えられた、その人のサイズの門」であると。  自分の園はそんな門をくぐるひとりひとりの子どものあるがままの姿を大切にします、と園だよりの中に書いたというのですね。  様々な人間のいる多様性の中で、自分しか通ることのできない問がある。ひとりひとりのあるがままの姿を大切にすることで、おのずと人権の感覚も生まれてくる。ひとりひとりの子どもが自分だけの道を通って、キリストの門をくぐってゆくのだと言っているのですね。  そこで、私は「ああ、『狭い門』とはそういう読み方もあるのか」と感心しました。  そして、今度は学校の生徒さんたちに「この『狭い門』というのは、こういう2つの解釈の仕方がるけれど、みんなはどう思う?」とアンケートのようなレポートを書いてもらうと、7割から8割の子が「ああ、ほっとした」と言います。「立派な人間になるためには、しんどいことをしなければならないんだ」という考えに疲れてしまっている子が多いのだと気付かされます。  その一方で、2割から3割の子たちは「自分は苦労する道を常に選んできた。だから今の自分があるし、その方が自分の成長になるし、実際自分自身のためになった」と言います。  これはどちらが正しいということではなく、それぞれの生き方に対する感覚があって、これも多様な形があっていいのだと思います。困難さが人を育てるということは確かにあります。だから、そういう聖書の言葉の解釈もあっていいわけです。  けれども、「小さな自分だけにしか通れない道がある。他の人には通れないような、自分だけの個性的な道だ」という読み方もあるんだよと伝えた時、ホッとした子どもがいることを知って、私自身もホッとしました。 ▼狭い道を行く教会  ここで私たちの教会が進む道についても考えてみたいと思います。  私たちの教会もかなり個性的な教会です。牧師を始めとして多くの会員が県外や海外に住みながら、インターネットを経由した遠距離礼拝を当たり前のように行っている。そういうことに全く抵抗なく順応できたのはこの教会の特質でしょう。  また、牧師にすべてを任せるのではなく、信徒が自立した教会であること。信徒主体によって教会の運営がなされてゆくことも、この教会の特質だと思います。  また、あるいはこの教会の個性は、フリー聖餐(またの名をフルオープン聖餐)を行うところにあるとも言えます。この形の聖餐を行う教会は少数派であり、このために教会は地域の他の教会から疎外感を味わわされることになったし、この聖餐に賛同する牧師である私も、当初は随分な言われ方をした覚えがあります。  けれども、私がこの教会の持つ最も強烈な個性とは何かと思うのは、この教会に集う人が、教会員であるとか無いとかにかかわらず、強烈に個性的な人たちだということです。教会に集う人、つながっている人の個性が集まって、他には無い教会の個性を作っているということです。  そんなことはどこの教会も同じじゃないかと思われるかもしれません。それはそうかもしれません。しかしとにかく、この教会につながるひとりひとりの個性は、他には無いものであり、他にはない固有の強烈な教会の個性を形作っています。この教会は、このメンバーでしか作れない教会なのです。  狭い門、狭い道というのは、自分たちにしか通れない、自分たちの姿に形整えられた通り道だと、聖書を読むことができます。  そして、この自分たちにしか通れない道を通って、私たちは神さまから与えられた個性をより深堀りしてゆくということでよいのではないでしょうか。  自分たちにしかない個性を深堀りしてゆくことで、私たちらしい生き生きとした命に満ちた群れになっていこうという思いを、今日の「狭い門」の聖句から教えられ、この新しい2022年度も旅の道行きを共にしてゆきたいと思います。私にしか通れない道、私たちにしか通れない道を行きましょう。  祈ります。
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