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【偽りの愛国心ではなく】詩編78編1-8節

https://youtu.be/w4l21JlvVrs  2021年8月1日(日)徳島北教会平和聖日礼拝説き明かし 聖書の言葉……詩編78編1-8節(旧約聖書:新共同訳 p.913、聖書協会共同訳 p.896)   ▼家族の預金を父親が勝手に賭けに使う  おはようございます。  今日は、8月の第1日曜日、日本基督教団の暦では平和聖日にあたります。私たちも今日ひととき、平和について思いを巡らせ、分かち合う時を持ちたいと思います。  オリンピックの開催中です。猛烈な暑さの中で、アスリートの方々が頑張っている姿を見ると、苦しい鍛錬の成果をあますところなく発揮している様子に励まされ、応援したくもなります。  しかし、その一方で、そのアスリートが、例えば水しぶきが黄色くなっているような汚れた水の中を泳がされたり、熱中症の危険を冒すような天候のもとで競技をさせられたりする姿を垣間見ると、本当に気の毒だなとも思います。  この大きな運動会の開催に当たっては、あまりにも大きすぎるお金が動いたようですが、それがどこでどのように使われたのか不透明であると聞いておりますし、必要だったのかどうかがわからないような税金が投入され、差別やいじめに関与したことが公になった人物が開会式の企画に加わっていたのが直前になって外されたり、どうして生活困窮者のために使わないのかと思うような数の弁当が廃棄されたり。  そして何よりも、オリンピックが直接的な原因なのか、オリンピックが開催されるならいいんじゃないのかと思った人びとがもう自粛などしなくなったせいなのか、東京の感染状況はこれまでにないほど増えていますし、この影響は既に全国に波及し始めていますよね。  そして、こうしてマスコミがオリンピック報道一色になっている間にも、沖縄では米軍基地の建設が粛々と進められ、基地の建設費用も当初の予算からどんどん膨れ上がり、工事の期間もどんどん延びていると聞きます。おまけにあろうことか、沖縄戦で亡くなった方々の遺骨が埋まっている土まで埋め立てに使おうとしています。これに投入されているのも税金です。  ある作家が新聞のネット版に寄稿した記事の言葉に私は共感を覚えました。そこにはこんな言葉がありました。  「家族の預金を勝手に全て賭けた父親がその賭けに勝ったとして、父さん凄い! と褒めるのは愚行。国民の命は賭けるものではない。」 (中村文則「【寄稿】五輪利権のため国民の命賭けた政府」『東京新聞ウェブ版』2021年7月28日、https://www.tokyo-np.co.jp/article/119747)  オリンピックでも沖縄の基地でもそうですが、投入されているのは私たちが政府に預けた税金です。それを勝手に賭け事に使っているような、本当に国民一人ひとりが報われるような使い方をしてくれていないのではないか。大きな疑問が私の心の中にはありますが、皆さんはいかがでしょうか。 ▼日本基督教団の軍用機献納献金運動  しかし今日は、私たちが国に預けたお金を、国が勝手に自分たちの利権や戦争のために使うという話にとどまらないというお話をします。今日は日本基督教団の平和聖日ですが、この日本基督教団が積極的に献金を募って、旧日本軍に戦闘機を納めたことについての話です。  第二次世界大戦末期の1944年ですから、だいぶ日本にとっては形勢が不利になってきた頃です。  当時の日本基督教団は、こういう言葉で全国の教会や伝道所に献金を要請しました。  「苛烈なる中南太平洋空の決戦場に一刻も早く一機でも多く飛行機を送りて第一線の要請に応えんするは我等一億国民の決意に御座候」(『日本基督教団史資料集第2巻』p.250)。  この全国献金によって日本基督教団は4機の軍用機(少なくともその1つ「九九式艦上爆撃機」という機体の写真も残っていますが)を軍に献納して、それが実際に戦場を飛んでいたんですね。  その献金の報告書にも、「この度の比島沖の大戦果を思ふにつけ我等教団の捧げし日本基督教団機もその中に参加して猛威をふるってくれてゐることであろうと信じます」という文章や、信徒の方が投稿したであろう短歌には、「みをすてて 御国をまもる ますらおに など飛行機を ことかかすべき」というものもあったそうです(守田早生里「終戦から75年 キリスト教と戦争 日本基督教団 軍用機献納献金運動」『クリスチャン・プレス』2020年8月15日、https://christianpress.jp/after-75-2/ 参照)。  戦時中は、キリスト教は敵性宗教だとして監視されていましたし、ある牧師によれば、「礼拝出席者も激減した」と。「ただでさえ食料不足で栄養失調などで人が亡くなっていった時代に、これだけの献金をどのように集めたのか」と、そのようなインタビュー記事も読みました(同サイト参照)。 ▼葛藤に追い込まれた時には  当時の教会にも、相当の苦しい葛藤があっただろうと思います。簡単に「そんなことをやった過去の教団はけしからん」と批判するのは簡単ですが、いざそのような状況に立たされたら、私たちだってどのように対応するか非常に悩み苦しむと思います。  当時のキリスト教会は、戦争に反対し、平和を主張する牧師や教会員がいるところは監視され、おおっぴらにそのような主張がなされていたわかったときは、憲兵なり警察に連れて行かれて暴行を受けていたという証言を直接聞いたこともあります。  ただでさえ「スパイではないか」という疑惑をかけられそうになることも多く、キリスト教会も存続してゆくためには、かえって他の国民よりも積極的に国家の政策に賛成して協力しているような態度を取る以外になかったということもあったと思います。  私が高校生の時に通っていた教会で、戦前から戦中、戦後とその教会を導いてきた年老いた牧師に、教会の戦争責任について高校生らしい率直な、しかし未熟な正義感で尋ねたところ、「あの頃はしかたなかったんです!」と大声で怒鳴られたこともあります。  ですから、いざ時代がそのような状況を迎えたら、私たちだって「教会をつぶすまい」、「命を奪われまい」と思ったら、国家に協力する可能性はあるでしょう。他の人よりも積極的に協力するかもしれません。  ですから、そのようなことにならないように、まだ戦争に直接関与することになる前から、しっかりと政府を監視し、主張すべきことは署名でも何でも主張し、投票できる者は投票行動でしっかりと私たちの意志を伝えなくてはいけません。 ▼偽りの歴史を伝えるのではなく  今日、日本基督教団の過去のあやまちについて紹介したのは、実はかつて徳島のキリスト教伝道に大きな足跡を残した、チャールズ・A・ローガン宣教師の言葉を見つけたからです。  実は11月に日本キリスト教婦人矯風会徳島の100周年の記念講演をするようにご指名を受けまして、そのための下調べをしている中で、現在の日本キリスト教会徳島教会の前身を築き、35年間も徳島で奉仕されたローガン宣教師という方がおられることを知りました。  そして、徳島キリスト教センター創立20周年記念に出された『ローガン先生の人と信仰』という冊子の中で、ローガン先生が記したこんな言葉が紹介されています。  「人間の作る歴史は勝手なものであります。英国人の著者の書く英国の歴史には、その欠点として敵に負けたこと、罪に堕落したこと、他国民を残酷に取り扱うことなどは書いてありません。嘘だらけの歴史を国立の学校で教えます。これは英国のみならずどこの国でも同じで、これは例であります。フランスに生まれたフランス人は決してフランスの歴史を知りません。ドイツで生まれドイツで育てられた純粋のドイツ人はドイツの歴史を知りません。私ども人間は罪の深いもので嘘が好きで、我が国の本当のことを知る勇気がありません』(「詩篇の霊歌」下巻五〇ページ)(岡博『徳島キリスト教センター創立二十周年記念 ローガン先生の人と信仰』徳島キリスト教センター、1980、pp.19-20)。  まあ、ここでアメリカ出身のローガン先生が、「アメリカ人の書く歴史も嘘だらけだ」とまでは言わない所に、先生なりの配慮があったのかもしれませんが、とにかく自分の国がどんなに他の国民や民族をどんなに残酷に取り扱ったかということは、どこの国でも教えようとはしないというのは真実ですよね。  そしてローガン先生は、今日お読みした詩編78編を引用して、これはイスラエル民族が自分たちの悔い改めるべき歴史をまっすぐに見つめようとした歌であると注解しているそうです。  特に8節、「先祖のように頑なな反抗の世代とならないように。心が確かに定まらない世代。神に不忠実な霊の世代とならないように」という反省の言葉が記されています。  詩編というのは、イスラエル民族がいかに敵に苦しめられているかを嘆き、神に「敵を滅ぼして下さい」という願いを捧げる言葉が多く見られます。けれども、この78編はそうではなく、「自分たちの先祖は神に反抗していた。心が確かに定まっていなかった。神に不忠実な霊の世代であった」と告白しています。  その歴史を、「子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう」(詩78.4)とも記しています。自分たちがどんな過ちを犯したかを、後からでもいいから、次の世代に伝えてゆかなくてはいけないと言っています。 ▼偽りの愛国心ではなく  「自分は愛国者である」と主張する人たちが、過去の戦争で日本が行った残虐な行いを「そんなことは無かった」、「あんなことは無かった」と否定して回ります。そんなことをしても、痛めつけられた国の人は全く納得が行かないでしょうし、そんなことがお互いに理解し合ったり、平和を作り出したりすることにつながるとは到底思えません。  私たちは、自分の先祖たちが何をしてきたのか、あるいは国によってさせられてきたのかを、きちんと見つめ直さないといけないでしょう。  そして、いざという時に私たちもその過ちに加担しかねないことを、しっかりと胸に刻んでおかないといけないでしょう。そのような事にならないように、今からしっかりとしておかないといけません。  かつて軍用機を献納するために献金した人たちの中には、きっとやむを得ずだった人ばかりではなく、本気で喜んで参加した人もいたでしょう。それほどに当時の新聞などのメディアの力は大きかったと思います。  いまのオリンピックの報道のされ方は、ひょっとしたらそれに似てはいないでしょうか。アスリートたちの頑張りは尊いかもしれません。しかし、その華々しさを伝える映像の裏で、どんなどす黒い利権がらみの陰謀が隠されているか。どんなに生活困窮者が見捨てられているか。どんなにコロナの感染防止の対応がなされていないか。  そういう隠された事実があるはずだということを心に留めておかないと、私たちはあっという間に足元をすくわれて、騙されて、政府のエゴに協力させられてしまうことになるでしょう。オリンピックの報道は、そうやって国民がどれくらいマインドコントロールできるかを試す、いいテストになっていることでしょう。  私たちは、悪魔的なものに協力させられることのないように、心が確かに定まらず、神に不忠実だった世代の過ちもしっかりと見つめ、自戒を込めて伝えなければならないのではないでしょうか。  あとになって「あの時はしかたなかったです」と言わずに済むような世の中を守ってゆかねばならないのではないでしょうか。そのためには「偽りの愛国心」は捨てて、本当に国を愛するとはどういうことなのかを考えないといけません。  本日の説き明かしは以上といたします。  
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『クイア・レッスン 教会(私たち)がLGBTQから学べること』コディー・サンダース著、原口建訳、上野玲奈監修(エメル出版、2021、¥1,800-税別)

教会はいかにLGBTQを受け入れるのかを問う時代は終わり、クイアな人びとから何を学べるかを問う時代が来た。   原題は「Queer Lessons for Churches on the Straight and Narrow-What All Christians Can Learn from LGBTQ Lives」(ストレートで狭い道を行く教会〔異性愛者中心的な教会〕のためのクイア・レッスンー全てのクリスチャンがLGBTQの生き様から学べること:私訳)。 これまでの「LGBTQはキリスト教的に正しいのか」、「聖書はLGBTQについて何を語るのか」、「教会はLGBTQを受け入れられるか」といった問いの時代は終わり、今やLGBTQからストレートのクリスチャンが何を学べるのかということを問う時を迎えたことを感じさせます。 既存のキリスト教会は、人間関係を規定したり表現する上で、あまりにも異性愛者間の各家族的な婚姻関係を前提にし過ぎていました。しかし、クイアな人びとの生き方は、全ての人がもっと公平で対等な関係を土台にしたパートナーシップを結んでゆくことができる学びを提供してくれます。 また、クイアな人びとが歩んできた歴史は、初期キリスト教会の歩んだ道についての洞察も深めてくれるでしょう。そして、クイアな人びとが築いてきた助け合いの共同体のあり方は、今日の教会のあり方が本来どのような共同体であるべきなのかを教えてくれるでしょう。 キリスト教会がこれまでクイアな人びとにいかに暴力を振るってきたか。それも、意図的な暴力だけでなく、特に全く無意識的で日常的な「わずかな攻撃性」による言葉や態度のら暴力によってクイアな人びとを痛めつけてきたかに気づくことは、各々のクリスチャン自身が変わるために不可欠なことです。 この本には、キリスト教会が誰にとっても幸福な関係に根差す公正な共同体となるために、クイアからクリスチャンが学べることが順序立てて紹介され、解説されています。 著者は、アメリカの地位の安定した多数派の、その現状に安住するキリスト教会を主にターゲットにしてはいますが、日本ではクリスチャンは圧倒的に少数派であり、絶滅危惧種となっているにもかかわらず、それでも日本社会の多数派側に安住する姿勢を崩していないので、この本は日本のキリスト教会に対しても大いに当てはまる問題提起になっています。 クリスチャンひとりひとりの生き方と教会のあり方の両面から、根本的に問い直しを迫る本です。
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【心の貧しい者は幸いか】マタイによる福音書5章3節

https://youtu.be/KOtS1priZhI 2021年7月25日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし聖書の言葉……マタイによる福音書5章3節(新約聖書:新共同訳 p.6、聖書協会共同訳 p.6)   ▼霊において貧しい人々  おはようございます。  今日は有名なマタイによる福音書における山上の説教の、これまた有名な幸いについての教えの冒頭の言葉を取り上げてみたいと思います。「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5.3)という言葉です。  この「心の貧しい者」という言葉は、日本語ではあまり良いイメージではないと思います。「心が豊かである」という言葉が良いイメージなので、その反対で「心が貧しい」となると、なんだか貧困な精神と言いますか、人に気持ちがわからないとか、想像力や共感に乏しい人間、優しくない、ガツガツしている……といった印象をつい抱いてしまいます。  もちろん、実際のギリシア語の意味としては、そうじゃないんだろうなぁと皆さん予想はついておられると思うんですね。実際には、この「心の」と訳されているのは、直訳すると「霊において」となります。「霊にて貧しい者」です。  まあ、「心の貧しい者」でも「霊にて貧しい者」でも、やっぱり日本語のイメージとしてはあまり良くないですけれども、これは元々イエスの言ったとおりではないというのが通説です。つまり、元々イエスが言ったのは「貧しい者、幸いなり」、これはルカによる福音書の6章21節にある言葉ですが、つまり「経済的に困窮している人こそ幸いなのだ」と言ったのであると。そちらのほうが元の形で、「霊において」というのはマタイが付け加えたのだろうというのがほぼ定説になっています。そうやって「霊において」という言葉を加えることで、マタイは経済的に困窮しているわけではない信徒にも配慮したのだろうと考えられるわけです。  そして、もともと「心の貧しい」というのは、「ひたすら神に依り頼む、へりくだった者、敬虔な者」という意味に解釈されるわけです(『新共同訳 新約聖書注解Ⅰ』日本基督教団出版局、1991、p.53)。  でもね、それはあまりに平凡すぎるかなぁと私などは思ってしまうわけです。「ひたすら神に依り頼む、へりくだった、敬虔な人」が神さまに幸いを与えられるなんていうのは、当たり前すぎると思いませんか。  そうではなくて、日本語で私たちが受け止めるような意味での、「心が貧しい」、「精神的に貧困である」、そんな人間こそが、神に愛され、幸いとなる。天の国はそういう人たちのものだ」と。その方がよほどキリスト教的ではないかと思うのですがいかがでしょうか。  例えば、人の気持ちがわからない者、人間理解が浅い者、共感力が乏しい者、そういう者たち。すなわち「心の貧しい者」こそが幸いなのであると、言ってはいけないでしょうか。 ▼心の貧しい者こそが幸いである  たとえばある人が、人の気持ちがわからなくて、人間理解が浅くて、共感力に乏しい人間に育ってしまったのは何故なんだろうと考えてみてはどうでしょうか。その人は何らかの心の病を抱えている場合があるかもしれない。あるいは、育ってくる過程で深刻な心の傷を受けた、あるいは本当の意味で愛されることなく育った人である場合はどうでしょうか。  そういったその人固有の事情があって、心の栄養が満ち足りていない結果、愛するということを知らない。極端な場合、自分が人を痛めつけたり、人を殺したりすることが何故いけないのかもわからない人間になることはあるのではないでしょうか。そして、その人がそうなったには、何らかの事情があったからではないでしょうか。  よくステレオタイプ的に、「暮らしは貧しいけれども、心は豊かだ」という人はいますよね。「貧しい発展途上国の子どもたちの目はキラキラ輝いていました」とか言う人、時々います。もちろんそういう事はあるでしょうし、暮らしが貧しい中で、必死に心豊かに子どもを育てる大人がいて、本当に心豊かな人が育ってくるということはあるでしょう。  けれども、貧しければ自動的に心が豊かになるわけではありません。育った環境が経済的に貧しいか豊かかということとは関係なく、その人がその人であるだけで愛される、守られる、お世話をされるということがなければ、人は決して心豊かな人に育つことはできないと思うんですね。  そして、そうだとすれば、その人の心が貧しいのは、もちろんいい大人になっておれば、その人自身の責任もあるだろうけれども、大元をたどれば、特に子ども自体の生育歴のことを考えれば、必ずしもその人だけがが悪かったのだとは言えないのではないかと思います。  育った環境のせいであれ、本人の生き方の責任であれ、その貧困な精神は、別の人の豊かな精神によって愛され、育ち直す、育てられ直すということが必要なのではないでしょうか。  言うなれば、「心の貧しい者こそが幸いにならなくて、何が本当の幸いと言えるだろうか」ということなのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。 ▼エッセンシャル・ワーク  けれども、それは誰がどのようにすればよいのでしょうか。たとえば、30年~40年かかってそのような貧困な精神に育ってしまった人の育ち直しには、やはり30~40年かかるのでしょうか。それとも、リカバリーに30年かかって、育ち直しには更に30年かかるのでしょうか。あるいはもっと早く人生を取り戻す場合もあるのでしょうか。  そのままでは生きている限り癒やされることなく終わる人もいるでしょう。その人は見捨てられたままで仕方がないということになるのでしょうか。本来なら、その破壊された心は誰かに受け止められて、せめて生きている間に丁重に扱われる権利があるのではないでしょうか。  心の貧しい人こそが幸いにならなければならない。心の貧しい人こそが愛されなくてはならない。もし人が変わるとすれば、愛されることと本人の努力の両方が必要になってくるのではないかと思います。そして、そういう心の貧しい人をも幸いにすることが、世の中の幸いにすることにつながるでしょう。  けれども、それは誰が担うのでしょうか。  それは一筋縄ではいかないし、時間も手間もかかります。何度も裏切られることも傷つけられることもあるでしょうし、一人の人でできることでもありません。  それを直接的に担っているのは、福祉や教育や保育、そして相談員やボランティアなどを含む一部の分野の人に偏っているというのが、この国の現状ではないかとも思われます。  それは、エッセンシャル・ワーク、つまり世の中に必要不可欠の仕事の一つなんですけれども、資本主義的には何の利益も生み出さないからです。  エッセンシャル・ワークというと、飲み物・食べ物を売る人、社会のインフラ設備を維持する人、医療従事者などの方々を指しますけれども、人を育て直したり、人生を取り戻すための援助をする人も、間違いなくエッセンシャル・ワーカーでしょう。  けれども、そういう仕事は大きな利潤を産む仕事ではありません。むしろ、人的にも物的にも資源を使うばかりの仕事という風に、資本主義的には捉えられてしまうでしょう。だから、政治家たちもそのような分野には予算を配分しません。だから、人が荒れ、世の中が荒れ、国が滅びるということになるんでしょうね。 ▼心の貧しい国  それを考えると、人の心がどんなに貧しくなろうが、枯れ果ててしまおうが、荒れ果ててしまおうが、知ったこっちゃないという様子で、利潤の追求に励んでいる国家全体が、「心の貧しい国」になってしまっているのかもしれませんね。  「心の貧しい国」だから、「心の貧しい人」がたくさん生まれてきても当たり前かもしれません。しかし、そのままではいけないのではないかと思うなら、私たち一人ひとりが価値観を変えないといけないのでしょう。  利潤の追求のために、どんなに人の心が荒れ果ててもいいとするのか。それとも、人のお世話をする人を支えるための資源が潤沢に投入されて、世の中が生きやすくなることによって、愛されなかった人が愛されるようになることを考えるか。  本来は、私たち一人ひとりが「心の貧しい者」を愛する心、「心の貧しい者」こそがケアされなくてはいけないという考え方を持ち、それを広めてゆかなくてはいけないのではないでしょうか。  それは極めてキリスト教的な価値観ではないかと思います。けれども、それはひょっとしたら、単に信仰を広めるということよりも喫緊の課題と言えるかもしれません。信仰よりも優先して愛というものを行き渡らせるようにすることが、かえって優れてキリスト教的なのかもしれません。  「心の貧しい者」自身も、心の貧しいままでいたいと思っている人がどれだけいるでしょうか。心の奥底で救われたいと願っている人は少なからずいるのではないでしょうか。  「暮らしの貧しい者」も「心の貧しい者」も「幸いである」と、キリスト教会は宣言するべきではないかと私は思います。いかがでしょうか。  本日の説き明かしを終わります。
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『劣等感がなくなる方法 人生が変わる心理学』加藤諦三(大和書房、2016、Kindle版 ¥1,320-)

劣等感とは自分をありのままに認められて育って来なかった人の病。しかし、人はそれを克服し、自分らしく生きることができる。 劣等感に悩まされがちな自分のために読んだ本。 まず基本的に、劣等感というものは事実ではなく、事実に対する歪んだ自分の捉え方のことである。自分が他人より劣っているという事実がある。しかし、そんな自分は受け入れられないという解釈は自分の心の中にある。劣等である自分でも、そんな自分が自分のままで受け入れられ、認められ、肯定されている場がしっかりとあれば、その人は劣等感により自分を破壊しなくても済む。 劣等感に覆われる人間の多くは、子ども時代の親との関係に原因がある。他人やきょうだいと比較されたり、ありのままの自分を愛されず、条件付きで可愛がられるような体験を積み重ねてきている。そのような基本的な帰属感の欠如、共同体に受け入れられているという経験のなさが、自分という人間が受け入れられていないという感覚につながり、自分が受け入れられるために必死に愛される条件を満たそうと虚しい努力を続けてしまう。しかし、それが成功したときの喜びはいっときのものだし、その優越感も永続的なものではない。 劣等感が即座に消えるような手軽なコツのようなものはない。そんな手軽な方法を求める人がカルトのようなものに走ってしまう。しかし、まずは自分の生育歴に何が欠けていたのかを認識し、自分が劣等感に振り回されて生きてきたことを認識する。そこからが始まりである。 自分がそうなった責任は親にあるが、大人になってそのような生き方を続けるには自分自身の責任もある。自分らしく生きるためには、自分の状態をよく見つめ、不安と困惑に向き合い、自分のやるべきことをただ懸命にやることしか方法はない。 ……劣等感を即座に無くす方法などないというのが、いかにも長い人生経験を経た人物の甘くない見解であった。 しかし、「どうせ『自分は愛情のない親に育てられたからダメな人間だ』というのではなく、『あの親でよくここまで生きてきたよ』と自分を肯定することである。『あのひどい親なら、自分は自殺しているか、人を殺して刑務所にいてもおかしくない、その自分が今こうして立派に生きている、自分にはすごい力があるんだ』と気づくことである。(Kindle の位置No.1296-1299). 」という言葉は救いであった。 同じようなことを、あるカウンセラーにも言われたことがある。「よくそんな環境で、立派にお育ちになったことですね」と褒められた。「よくあんなところで生き延びたのだから、自分は大丈夫」と思えるのとは自分の心の財産になる。 また、自分が考えるほど人は自分のことを気にしていないという助言も有益であった。劣等感の底にあるのは、愛されたいという甘えである。劣等感を刺激されて「嫌われているのではないか」、「見下げられているのではないか」と感じるのは、全て自分の心の中で起こっていることであり、相手はそこまで考えてはいない。相手はそこまで考えてものを言っていないし、そこまで自分のことを見ていないと思うことは、自分を自由にしてくれると思った。 人が何を感じるかはどうせわからないし、どうすることもできない。ただ、イエスと言うべき時はイエスと言い、ノーと言うべき時はノーと言って、自分らしく自分のやるべきことに誠実に取り組んでゆく以外に道はないのだと教えられた。
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【神に必要とされた私たち】創世記1章27節

https://youtu.be/XXM6x6qz8Gk 2021年7月18日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし▼聖書の言葉……創世記1章27節(旧約聖書:新共同訳 p.2、聖書協会共同訳 p.2)  この説き明かしは、原題「神々にしている人間たち」のタイトルを替えたものです。 天地創造は神話  今日は有名は天地創造の場面からほんの1コマだけを抜き取って、「人間は神にかたどって造られたのだ」ということに焦点を当ててお話をしてみたいと思います。  もちろんこれは科学的にどうこう言う話ではありません。私自身、地球上の生命は何億年か昔にドロッとした原初の海に生まれた1個の原始的な細胞から全ての生物に進化したという説を信じています。  もちろん進化論も完全に確定したわけではなくて、今でも進化論自体が進化しているような研究の状況らしいですが、それでも私は「7日間で神様が世界を造った」という聖書の物語は神話だと思っています。  7日間というのが、そもそも古代のイスラエルが7日に1日安息日を作るために作り出したお話なんですけれども、それはそれで画期的な発明です。休日というものが無かった世界に、7日に1日休んで疲れを回復させたほうが、実は効率がいいんだというのは、古代のイスラエルの偉大な発見、発明だと思います。そして、それを天下の人々に知らせて命じるために、「神がこうされたのだから、我々もそうするのだ」、「神様が休まれたんだから、我々も休もう」という物語が造られたのですね。  ですから、この天地創造の物語というのは、こういうことが事実としてあったのだという読み方よりも、この物語を通して何を言いたいのだろう? どういう意味があるんだろう? ということを考えるほうが良いのだと思います。 人、みな神の子  今日は「神はご自分にかたどって人を創造された」と書いてあるところを読みましたけれども、その前の節で、神さまが「『我々』にかたどり、『我々』に似せて、人を造ろう」(創世記1章26節)言っていますよね。  ここで「我々」という複数形になっているのは、この物語が書かれたよりもっとずっと昔に口伝えで言い伝えられていた時代の、多神教だった時の名残が残って、こういう言い方になってるんですね。  で、ここで神が「我々にかたどって、我々に似せて人を造ろう」というのは、直訳すると「我々の姿・形に似せて像・コピーを造ろう」という言葉になるんです。じゃあ、やっぱり神は人間みたいな頭と胴体と手足のある体を持ってるんかと思いたくなるんですが、そういう意味ではなくて、この「神の像」というのは、古代の王様のことを言っているらしいんです。  この創世記が書かれた時代も、それより500~600年近くあとのイエス様の時代のローマ帝国の皇帝も、中世の王国もみんなそうですけど、王とか皇帝というのは、「自分は神の子だ」とか「神の似姿だ」とか、あるいは神そのものだと言うものなんですよね。日本だってつい80年ほど前まで天皇は神だって崇めてましたよね。王とか皇帝というのは、みんなそういう自己主張の仕方をするんですね。  でも、聖書というのは、これもイエス様のことを書いてる新約聖書も、今日のこの旧約聖書でも同じなんですけど、そういう地上の王様を神の子だとか神の似姿だという考えに抵抗しているんですね。  地上ではあちこちの王国の王たちが「俺は神の化身だ」と言ってるけれども、違うんですよと。「あの王様だけではなく、あなたがた自身が既にみな神の化身なのですよ」と。「あなたがた一人ひとりが皆、神のイメージどおりの存在なんです!」と。「人は皆、神のような存在なんだ」と言っているんです。 人が神に似ているとは  さて、それでは「神は人を自分のかたちに創造された」というのはどういう意味なのでしょうか? 他の動物とは違う高度な知能を持つ者として造られたという意味なのでしょうか? 人間は精神とか理性を持っている特別な存在だということを言っているのでしょうか?  実はこういう問いは信仰的にはよくないと言われています。というのは、結局こういう疑問に答えようとすると、いま私が言ったように、「それは知能のことだろう」とか「それは理性のことではないか」といった風に、人間の特徴を逆に神の性質に当てはめてしまうということをやってしまいがちだからなんですね。それは、「人間は神に似ている」という認識ではなくて、「神は人間に似ている」という考え方に論理を逆転させてしまうことになるからなんですね。  神という方は、人間には把握しきれない、まあはっきり言えば人間にはわからない存在です。だから、私達は「神はこういう方だ」ということは、はっきりとは言うことはできないし、言ってはならないんですね。ただ私達は、聖書に書いてあることから、その神についてのごく一部について、先人が学び得たことを受け取って、「人間とはどういう存在なのか」ということを知ることができるだけ、というわけです。 関係性の中で生きる存在  そこで聖書を改めて読んでみると、「男と女に創造された」(27節)と書いてあります。  ここで誤解されがちなのですが、「神が男と女に造ったと書いてあるのだから、世の中には男と女しかいないんだ」という解釈をする人が今でも結構いるということです。  確かにここには「男と女に創造された」と書いてあります。けれども、これは例えば最初に「神は7日間で世界を造られた」という事と同じです。古代人はそうだと信じていたけれども、現代人はそうではないことを知っている。じゃあ、私達はここをどう解釈するのか。解釈というものは時代によって変わってくるし、ひとつの聖句から何を学ぶのかということも時代によって変わってきます。  神が6日間で世界を造られて1日休んだということは、事実そうであったということではなく、人間にとって1週間に1日は必ず休むということが大切なんだということを言いたいのだと解釈するのと同じように、神が男と女に人間を造られたということは、事実そうではないことは、もう今の世の中ではわかっています。  人間は男と女だけではなく、トランス・ジェンダーの人もたくさんおられるし、ノンバイナリーといって、男とも女ともはっきり区分しない人もおられるし、男と女だけが愛し合うのではなく、男と男、女と女が愛し合うという人も思いの外たくさんおられます。  しかもそれは最近増えてきたのではなく、もともと人類には一定の割合で存在していて、差別によってずっとクローゼットに押し込められていたのが、最近になってやっとカミングアウトする人たちが少しずつ現れてきただけなんだということもわかってきたわけです。  そうすると、聖書の解釈も変わってきます。神は男と女だけに人間を造ったという自体が事実ではないので、この聖書の言葉を字義通りに受け取ることはあまり大事なことではありません。もっと大事なことは、「人は最初から孤独な存在として造られたわけではない」ということです。人は他者との関係の中で生きる存在だということです。  先程、もともと神は「我々」と自分のことを言う複数形の存在だったとも言いました。その言い方が一神教になってからも残されているということの意義を再認識したいと思います。「我々と同じように、人間を複数で生きるものとして造ろう」と神がおっしゃったということです。 パートナーとして生きる  この事は創世記第2章の天地創造の物語でも、別の形で表現されています。もともと、創世記の1章の物語と、2章の物語は全然別の資料からできているというのが定説で、だいぶこの2つは世界観が違うんですけれども、それでも現代的な解釈では、同じようなテーマも潜んでいることが明らかになってきています。  2章の18節ではこう書いてあります。  「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」(創世記2.18)  この「助ける者」という言葉は、例えば英語ではかつては「helper」と訳されていました。そこで、「女は男を助ける存在だ」という解釈が生まれて、男性優位の社会を作るためにその解釈が利用されました。  しかし、近年の英語訳では、この単語が「partner」と訳されるようになってきています。そして、実際大元のヘブライ語でも、もともと「お互いに向き合って助け合うパートナー」という意味なんだそうです。  そう解釈すれば、1章の天地創造物語の「人は男と女に造られた」という言葉も、2章の天地創造物語での「人はお互いにパートナーとなるように造られた」というのも、人間というのは互いに他者と助け合って生きる存在として造られているんだと言っている、という意味では相通じる意味を持っていると言えます。  人間が神に似た存在として造られているということの意味は、実は人間は独りで生きるものではなく、パートナーシップを結んで生きるように造られているのだということ。もし、独りぼっちになってしまっている人がいたら、誰かがパートナーになる(必ずしも結婚しろという意味ではなく、友情であれ何であれ)、誰かが助ける者になるということが大事なんだよということ。それがこの聖書の言葉のメッセージではないかと思われるわけです。 神に必要とされる者  人間は、他者との関係の中で初めて自分というものを確認しながら生きてゆくことができます。他者に承認されることによって自分という存在の価値を確認し、改めて自分でも自分自身を承認することができて生きてゆけます。それこそが、神がご自分のように我々人間を造ったということの意味なんだと聖書は言っているわけです。  そして、さらに考えを進めるならば、神さまが人間を無駄に造ったとは考えられませんので、神さまにも他者が必要だったから人間を造ったんじゃないかということにも思いが及ぶわけです。  そう思うと、神という言葉がもともとは複数形、つまり「われわれに似たものとして、人間を造ろう」と言っていたことにも、実は深い意味があったのではないかという気もしてきます。神は自分たちが複数の存在として存在しておられたからこそ、人間も複数の存在として造られたのではないかと、そんなことを考えてしまいます。  そんな風に、神は神のパートナーとして私達人間を造ってくださったんじゃないか。それほどまでに私達は神から必要とされているんじゃないか。だから神様は人間を大切な大切な存在としてくださっているんじゃないか。そんなことを思います。  だから、私達はそれを信じることで、自分の存在価値を再認識できるし、神と一緒に人生を歩むことで、人生の深みを更に知ることができると思うんです。  そして、自分独りではなく、自分以外の人も誰もが神に必要とされている大事な存在としてそこにいるんだということも、改めて覚えることができると思うのです。  いかがでしょうか。今日の説き明かしはここまでと致します。
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『ノマドランド』(Nomadland)を観ました。

『ノマドランド(Nomadland)』を観ました。夫と死別し、経済的に破綻した街で教師の仕事も失い、ワンボックスカー1台で旅を始めたノマドの女性の話。季節労働で食い繋ぎながら、車の中で寝泊まりして旅を続ける日々。 その旅先で自分と同じようなノマドたちと出会い、仲間を見つけつつ生きてゆく、困窮したり悲しみに暮れたり絶望したりしながらも、時を経るにつれて主人公はその生活に順応してゆきます。そして、やがてノマドこそが自分の生き方となってゆく姿を、映画は赤裸々に綴ってゆきます。 「先生はホームレスになったの?」と尋ねるかつての教え子に、「ホームレスじゃない、ハウスレスだよ」と告げるシーンが印象的でした。また、行く先々で主人公を迎える美しい景色に、人が生きる世界の広さを感じました。人は「ハウス」という場所を失っても、自分が生きて、出会う人との繋がりを見つけて生きる限り、地球という広い空間と固定的ではない豊かな人間関係を「ホーム」にしてゆけるのだというメッセージが込められているようでした。 多くの生活困窮者を生み出してしまった現代社会の問題を背景にしながらも、それでもなお淡々と生きるノマドたちの姿を見ていて、自分だったらこんな風にミニマムな生き方はできるのだろうか、いつかはこのように家も財産も失う日が来るのだろうか、年老いても働いたり旅を続けることができるのだろうか……などと考えさせられました。 誰もが貧困に陥る可能性がある現代、ノマドは現実的なひとつの生き方としてとてもリアルなものに思えました。とても印象的な映画です。
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