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【新しいエピファニーを待ち望もう】マタイによる福音書2章1−12節

https://youtu.be/XHXGVQOOp4U 2022年1月9日(日)徳島北教会新年礼拝説き明かし マタイによる福音書2章1-12節(新約聖書:新共同訳p.2、聖書協会共同訳 p.2) ▼聖書の言葉(新共同訳)  イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」  これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。  彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。  『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。 お前から指導者が現れ、 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」  そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。  彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。  家に入ってみると、幼子は母マリアを共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。  ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 ▼あけましておめでとうございます。  みなさん、あけましておめでとうございます。  年越しはいかがでしたか? 良い気分で年を越せましたでしょうか。みんながみんなお休みが取れたというわけでもないようで、のんびりした人もいれば、せわしい年越しだった方もいらっしゃると思います。また、私達の間には被災しながら生活しておられる方もいらっしゃいます。  けれども、なんとか生きて2022年を迎えることもできたなということは良かったなと思いますし、この新しい1年も心を新たにして生き延びてゆきたいと思うのです。 ▼エピファニー  今日は1月も1週間以上経ったところで、お正月気分も冷めてきたところではありますね。  キリスト教、特にプロテスタントやカトリックが含まれる西方教会の暦では、1月6日はエピファニーと言います。日本語では「公現日」と言いまして、今日は公現日の後の第1主日ということになります。 「公現日」というのは公に現れた日、赤ん坊のイエス様が人の前に初めて姿を現したことを祝う日のことです。  もうちょっと具体的に言うと、東の方からやってきた3人の博士たちが、イエス様のところやってきた。ここで初めてイエス様がマリア様、ヨセフ様とは別の第三者と出会うことになった。それが「公に現れた」ということで公現日なのですね。  ちなみに西側のプロテスタントやカトリックでは12月25日からクリスマスが始まって1月6日で終わりますけれども、「お東さん」と言われております、正教会(東方正教会)では1月6日がクリスマスです。これは私たちがグレゴリオ暦という新しい暦を使っているのに対して、正教会はユリウス暦という暦を使っている違いだそうです。  我々西方教会系は1月6日がエピファニーであり、ここから公現節という教会暦が始まります。ですから今日の日曜日は「降誕節第3主日」と同時に「公現節第1主日」とも言います。  このエピファニーというのは、単にキリストが世の人の前に姿を現した、人間が神の子と出会ったということだけを指すのではなく、そこから転じて、何か人生を変えるような、人生を転換させる決定的な出会いのこともエピファニーと言うんですね。  ですから、私たちの人生は年に1回のエピファニーを祝うという単に年中行事としてだけではなく、自分の生涯の中で出会える、何か自分を変えてくれるような出会い、それは人との出会いや出来事との出会い、色々あるでしょうけれども、それを待ち望みながら生きる人生とも言えるわけです。 ▼新しい王はどこに  さて、エピファニーの物語の中で、東の国からやってきた学者たちは、「新しい王はどこにおられますか」と言いますよね。  これは、年末の礼拝でも園ちゃんが言ってたように、かなり間抜けな話ですよね。こんなことをわざわざヘロデ大王に言いに行くから、たくさんの幼児がヘロデに殺されるような結果を招いてしまう。この学者たちがヘロデみたいな人に「新しい王が生まれるんです」なんてことを言わなかったら、惨劇は起こらなかった。ですから、この学者たちのやったことは、ほんまにアホなことです。  しかし、この物語はマタイが作った物語で、要するにイエス様というのは、エジプトから出てきたモーセのような役割をするユダヤの救い主ですよと。そういうことを言いたいがために、エジプトに行ったとか、2歳以下の子どもは殺されたけれども、イエス様はモーセのように生き残ったんだというようなことを、マタイさんは伝えたかったからこう書いたんだろうと推測されるわけなんですね。  だから、実際にユダヤ地方で2歳以下の幼児が大量虐殺されたとか、そんな記録は同じ時代の他の資料には残っていません。そんなことが実際にあったという歴史的記録はないんですね。  マタイが本当に言いたかったのは、「ヘロデやローマ皇帝は、我々の本当の王じゃない」「そういう王とは違う、新しい王が私たちのために生まれたんだ」と。そして、その新しい王との出会いが私たちの人生を変えるんだということなんですね。  これは、現状そこで王をやっているヘロデに対する皮肉であると同時に、さらにその背後にいるローマ皇帝に対する挑戦です。ヘロデやローマ皇帝とは全く違う意味での新しい王が生まれたんだという主張。これが、やがて皇帝を神の子として崇拝することをやめたり、他の神々を拝むのをやめたりといった、後々のクリスチャンの態度に反映されてゆきます。  この皇帝や他の神々を拝まないという態度が、周りの人には非常に強い違和感をもって受け止められたんですね。そして、それが初期のクリスチャンたちが迫害されるひとつの原因にもなりました。  クリスチャンは人が当たり前のように拝んでいるものを拝まない。そのために、クリスチャンというのは誠に信心の薄い、無節操な連中であるという風に見なされたわけです。  ▼重要なことはひとつ  これは現代のクリスチャンにおいても同じことで、クリスチャンというのは信仰的に浮気をしません。もちろん聖書に「偶像礼拝はしてはいけない」、「他のものを神にしてはならない」と書いているということが原則としてありますが、ひとりの神さまへの信仰でじゅうぶん事足りているので、他の神々を拝む必要がないわけです。  だから初詣などに自分からは行かない。友達や家族が行くからそれについていっても、自分は拝まずに露店の焼きそばとかフランクフルトとかイカ焼きとか、そんなものを食べて遊んでばかりいる。そんな自分を、友達や家族は「変わった人間だな」というような目線で見ているわけです。  私事になりますけれども、家族、親族で集まったりしますと、まるで自分が信心の薄い無神論者、無宗教者になったような気分になる時があります。  普段は毎週教会の礼拝に参加してるよと言うと、なんと宗教くさい、変わった人間だという目でみられますし、親族は皆んな自分のことは無宗教だと言います。  けれども集まって一旦お墓の話などになったりすると、もうお墓の話から始まって、戒名の話、位牌の話、仏壇の話などを口を酸っぱくして延々と論じあっています。そんな中で、私はそれをひとり静かに観察しております。  私は周りの親族たちがいかに宗教熱心かということをひしひしと感じます。それに対して私は、そういうことに何十万円もお金をかけて打ち込む気にはとてもなれない。そういうものを信じていないわけです。だから話に乗れない。置いてけぼりになっていくわけです。あまりに周りの人達が宗教熱心なので、置いてけぼりを食らっている自分が無宗教者、無神論者になってしまったような感覚に襲われます。  彼らにしてみれば、なんと亡くなった方の霊を大事にしない、無節操な人間だというふうに思われているのかもしれません。この違和感は、初期のクリスチャンたちが皇帝崇拝や神々への礼拝を関わらないことについて、周囲から疎まれたということとも相通じるものがあると思います。 ▼生き方の研究所、生かし合う研究所  もちろん私たちは亡くなった方々の霊について無関心であるわけではなく、その方々が神様のもとで憩っておられることをいつも覚えているわけです。ただ、位牌だ戒名だと騒いでいるのは、この世の人の気持ちの問題ですから、気の済むようにやっておられればいいと思いますけれども、そういうことにクリスチャンは本気にはなれない。むしろ私たちにとっては、生きている今が大切なわけです。  マタイ福音書の8章、ルカ福音書の9章にもありますが、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(マタイ8.22、ルカ9.60)という言葉があります。イエス様の言い方はやや過激で、「葬式なんかやる意味はないんだ」とまで言っているように聞こえます。私たちはそうは言っても、イエス様の言うように、全く葬式をやらないというのもどうか。そこはケースバイケースで、という判断で良いと思うのですけれども、イエス様の言いたいことを汲めば、「死者のことよりも、生きている今をどう生きるかということが大事なんだ」と受け止めることができると思います。  キリスト教会がこの世で存在し続ける意義があるとすれば、それはまさに、いま生きている人間がどう生きるか、またどう生かし合うかということを研究してゆくことだと思うんですね。 ▼クロノスとカイロス  そして、その生き方研究のひとつのキーワードとして、この新しい歳の初めに心に留めておきたいと私が思うのが「エピファニー」なんですね。これが私たちのヒントになります、  最初に申し上げましたように、エピファニーというのは、私たち人間が初めてキリストと出会った、そのことによって私たちの人生が変わったということ。そこから転じて、私たちの人生を変えるような決定的で大きな人との出会い、あるいは出来事との出会いのことを指すと言いました。  クリスチャンとして生きるということの一つには、自分の人生の中で、このような決定的な出会いを与えてくださる神様の「時」というものを待つ、タイミングを待つということになるのではないかと思います。  よく知られている話かもしれませんが、ギリシア語には「時」を示す言葉に「クロノス」という言葉と「カイロス」という言葉があります。  「クロノス」は私たちの普段暮らしている時間の流れのことを指します。「クロック」すなわち時計で計ることのできる時間です。  これに対して「カイロス」というのは、この「クロノス」の中に神が介入してくる決定的な「時」。神の方から思いがけず私たちの暮らしの中に、切り込んでくる特別な「時」のことを指します。  エピファニーというのは、この神による「カイロス」の時と私たちが出会うことでもあるのですね。 ▼エピファニーを待ちながら  私たちは時に、「神も仏もあるものか」という気持ちに陥ってしまって、この世の人生に落胆し、失望しきってしまう、神の介入など無いのではないかと疑いながら生きてしまうということもあるでしょう。  しかしそれでも、生きている限り、心のどこかで神が与えてくれる「時:カイロス」というものを待ち望んでいるのがクリスチャンという種類の人間ではないかと思うのです。また、何か自分を変える出来事と出会った時、それを神の導きなのかもしれないな、と感じる感性を持っているのがクリスチャンと言えるのではないでしょうか……。  そして、自分がそのようなエピファニーの出来事など無いんだと決めつけてしまえば、そのようなエピファニーとの出会いはやってこないのではないかと思います。  ……新しい歳を迎えました。問題だらけの世の中が良くなるのに期待できそうにないような気がする時もありますし、人間の力だけでは如何ともし難いように思われることもあるでしょう。しかし、私たちは一人ひとりの人生に起こるエピファニーを待ち望みたいと思うんですね。  それは私一人の人生に起こるエピファニーではなく、自分以外の人にも、自分とは敵対する人に対しても、それが起こることを願う気持ちです。  そうやってあらゆる人に起こる小さなエピファニーが、その一人ひとりの人生が良い方向に変えることによって、世の中が良い方向に変わってゆくことを諦めたくない。そんな一人ひとりの小さなエピファニーが増し加わって、やがて大人数の大きなエピファニーが世の中に次第に起こってゆくことを願いたいと思うのですが、いかがでしょうか。  皆さんにも私にも、何か素敵なエピファニーが起こる1年であることを祈りたいと思います。  祈りましょう。 ▼祈り  愛と恵みに満ちた主なる神様。 明るい話題が聞こえる予感も無い人の世ではあります。人のやることは何と愚かで醜いものでしょうか。 しかし、私たちはあなたが与えてくださる、何か素敵なものを期待したいと思います。 あなたの導きを信じて、この新しい1年をあなたと共に歩みたいです。 どうか、私たちにあなたのエピファニーをお与えください。 そして、この1年もこの世で生きてゆこうとする私たちの背中を押し、いつも私たちのそばにいて、共に歩んでください。 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。  
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『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(上間陽子、太田出版、2017)

救いようのない少女たちを救うしたたかな優しさについて 沖縄の10代から20代の、キャバクラで働く女性たちにインタビューしたものが基礎になっている生活史。 貧困とDVにさらされ、予期せぬ妊娠や完全な孤立状態に立たされ、これでもかというほどに悲惨な状況に置かれる彼女たちの生き様が赤裸々に語られる。 彼女たちは例外なく男たちのDVを受けている。読み進むごとに自分が男であることが心苦しくなるくらい、男たちの暴力は執拗で無慈悲である。このDVという行為を、男はどうすることもできないのか。止めようがないのか。 女性の自死率は男性のそれよりはるかに高い。そのことはコロナ禍で一層ひどくなり、女性がいかに困窮に追い詰められているかが可視化されたと言えるだろう。 また世の中の犯罪発生数はどちらかといえば現象傾向にあるのに対して、DVの報告件数はうなぎのぼりである。DVに関して言えば、これまで潜在的に起こっていたものが顕になってきたということであり、それが日本の常態なのであろう。 加えて本書では内地よりも悲惨な状況に留め置かれている基地の島、沖縄の現実もそれとなく指摘している。内地で起こっている暴力的な状況が、沖縄ではより濃縮された形で顕在化しているのである。 この本に登場する女性たちは死なずに生きてきた。「死にたい」という言葉はこの本には出てこない。報告されているのは、残酷極まる若い時代を生き抜いてきた、あるいは生き抜いていこうとしている女性たちの生命の記録である。この背後には、実は何倍もの自ら命を絶った少女たちがいるのかもしれない。 しかし、救いようのない現実に直面したときに、「したたかな優しさ」を携えた人との出会いに彼女たちが救われたことも事実である。人を死の手前で救うのは、このようなしたたかな優しさ、強い優しさなのかもしれない。 私はこの本をクリスマス・イヴの夜に読み終えた。世間の浮かれた華やかさとは裏腹に、たった独りで妊娠したお腹を抱えた少女マリアのことを思わずにはおれなかった。周囲の人は、彼女が父親が誰かもわからない子どもを身ごもったとしか考えないだろう。そして、そんなマリアは自分で生活してゆく術もない。どうしようもない状況なのである。 しかし、奇跡的にヨセフという男が、自分の子でもない赤ん坊をはらんだこの少女をかばい、一緒に生きてゆく決断をし、出産に立ち会った。このしたたかな優しさがマリアを救った。これがクリスマスの奇跡だったといえるのではないだろうか。 そんな人を自暴自棄や死の一歩手前でつなぎとめる強い優しさと、実際に目の前の人を救ううスキルを、私たちは持ち合わせているだろうか。
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【神様が人間になってしまった日】フィリピの信徒への手紙2章6−8節

https://youtu.be/4K9GRRBrbX8 2021年12月19日(日)徳島北教会クリスマス礼拝説き明かし フィリピの信徒への手紙2章6-11節(新約聖書:新共同訳p.363、聖書協会共同訳 p.355) ▼聖書の言葉(新共同訳)  キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。  人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。  このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天井のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。 ▼人であり、神である  クリスチャンというのは、不思議なことを信じている人間です。  イエス・キリストというのは神であり、人でもあるというんですね。イエスという人は紛れもなく人間だった。これは事実です。けれどもこの人間が実は神であったというのは、よくわからない。  そもそも日本という国は、人間を神として拝んで戦争をやって、とんでもないことをやらかした歴史がありますから、人間を神として拝むのはちょっと危険な気もします。  でも、このイエス様は神様であった、というのは政治権力を持っていた人たちがなんらかの政治的意図をもってそう決めたというわけではなくて、イエスを信じ、イエスと共に歩もうと心に決めた人たちの中から自然に出てきた感情が基になっているんですね。  今日お読みした聖書の箇所はパウロという方が書いた手紙の一部ですけれども、ここではまだ「キリスト(救い主)であるイエス様が神なんだ」とまでは言い切っていなくて、「神と等しい者」と言われています。ちょっと曖昧なんですね。神そのものではないけど、神と同じような存在。  そして、キリストが生まれてから十字架で死ぬまで、神に従順であられたために、神はキリストを高く上げたと言っています。だから、キリストと神は、ここでは別の存在なんですね。こんな風に神とキリストは別のものだと言ってくれている方がわかりやすいですね。「神であり、人でもある」と言うのよりわかりやすいです。  けれども、キリスト教はその歴史の中でだんだんと発展するに従って、「いや、実はキリストは神そのものだったんだ」という解釈をするようになっていきます。わかりやすいところから、だんだんと謎めいた方向に走っていってるんですね。だんだん理屈に合わない方向に行ってます。そして、いつの間にか「三位一体」とか言って、「神とキリストと聖なる霊は、実はみんな神である。その神は1人である」といった風にどんどんわかりにくくなります。 ▼不合理だけど信じた方が幸せ  けれども、理屈では説明できないけれども、感情的には、あるいは物語的にはその方がすんなり入ってくるということもあるかも知れません。  ぼくもちょっと前までは理屈でものを考えてて、神であり人であるというのは、どうしても理解できないと考えていたんです。  ところが最近では、理屈で考えてもわからないことは理屈で考えるのをやめる。そのかわり感性とか、感情や直感などで感じることを優先してもいいんじゃないかと思うようになってきたんですね。  そして、イエスという人は実は神だったんだ……というのが、イエスという人の生き様や死に様を見聞きしてきた人たちにとっては、実感に近かったんではないでしょうかね。  よく「不合理ゆえに我信ず!」とか堂々と言う人が昔いたりなんかして、そういうところまではちょっとなんかついていけないという気はするんですが、「不合理だけど、そう考えた方が幸せ」ということはあると思うんです。 ▼神様の寂しさ  クリスマスは神が人となって生まれたことをお祝いする日です。  このことは理屈では説明できません。けれども、絵本のようなと言いますか、物語的に考える方が私にとっては幸せなんだということは言えると思います。  なぜ、神が人間になってこの世に生まれたのか。それは神があまりにも人を愛していたからではないかというのが私の結論なんですね。神様はあまりに人間のことが愛おしいから、ついに人間になっちゃった。それがクリスマスです。  神様というのは、この世の存在ではありませんよね? まあ言ってみればあの世の存在です。  よく私たち人間は、死んだらあの世に行くよと言いますよね。そして、神様のもとで永遠の命を生きながら憩いを味わうわけです。そこに神様がいるわけですから、神様はあの世の存在です。けれども、あくまであの世の存在ですから、この世とは断絶しているわけです。  だから、この世の我々人間は、神様のことは、この世に生きている間はわからない。断絶されてますから。そもそも神というものが存在しているかどうかも、誰も証明できない。ひょっとしたら、そんなものおらんかもしれん。実際、おらんと思って生きている人がだんだんと世界的にも増えてきているわけです。 ▼人間の殺伐とした現実  けれども、もし神がおられるとしたら、それは寂しいことだと思うんですね。自分のことを知ってくれてない。自分のことなんかおらんと思う人が増えている。これは神様にとっては辛いことでしょう。  それに、神様などおらんと考えることが人間にとって幸せなことかというとそういうわけでもないと思うんですね。神様なんかおらんと言う時、人間はどこか投げやりというか。「神も仏もあるものか」と言う時、それは人間自身にとっても、どこか寂しい、拠り所になるものなんかないんだ、生きている意味なんかないんだ、ただ遺伝子の法則に従って生まれてきて死んでいく、それだけなんだという、どこか殺伐とした感情があるのではないでしょうか。  そして、そのような感情に支配されているために、お互い自分の利益になることばかりを追求して、それが正しいんだと割り切って、互いに利用し合ったり、奪い合ったり、自分を守るための攻撃に時間やエネルギーを使ったり、挙句の果てには殺し合ったりしている。  もし、神がいると思えたなら、そして人は誰もが神に愛された神の作品なのだと思えたら、そんな殺伐とした感情から自由になれるのに、それがなかなかできない。それが多くの人の現実です。  でも、もし神がいて、そんな人間を神が見ていたら、どんなにか悲しいことかと思うんですね。自分が造った大切な作品である人間たちが、自分も他人もどんなに大切な存在であるかを忘れて痛めつけ合っている。神様がこんな状況はもうやめさせたい、と思っても不思議ではありません。 ▼会いに行こう  そこで神様は考えたんですね。  「私が人間たちのところに行こう」と。  「人間たちのところに私から会いに行こう」。  会いに行く。これはとても大切なことであると、この2年間私たちは身にしみて思い知らされたことではないでしょうか。自由に「会いに行く」というということが当たり前でなくなってしまい、人間と人間が断絶させられる苦しさを、私たちは味わってきました。「会いに行く」というのは、もはや私たちにとっては当たり前のことではありません。  神は、神と人間という断絶された両者の壁を超えるために、この当たり前ではない「会いに行く」ということを実行されたわけです。  仏教には「如来」という言葉もありまして、この「如来」というのは仏陀の別名でもありますよね。違いましたか? 違ってたらすみません。「釈迦如来」「阿弥陀如来」と言いますよね。悟りを開いた覚者のことを「如来」と言いますよね。  この「如来」というのは「如く来る」と書きます。「人の如く来る」。この「如来」という方々は、今日の聖書の箇所の言葉をもじって言うならば、「神と等しい者であることを良しとせず」というところを「仏」に読み替えて、「仏と等しい者であることを良しとせず、人間のところにやって来られた」ということになります。人間の救いのために人間界に来られたと。  ですから、神や仏が人間に会いに来るというのは、別にキリスト教に限った発想ではございません。  ただ、キリスト教の物語の場合、ちょっと違うのは、神が本当に赤ん坊から人間の人生を歩むことにしたという点ですね。ここが独特です。 ▼誰も独りぼっちにしない  人間のところに来るというなら、やはり人間にならないといけない。そして、人間になるのなら、やっぱり最初からやらないといけない。つまり赤ちゃんからやらないといけない。そして、それなら人間の母親から生まれなければならない。そう神様は考えるわけですね。そこで、実際人間の女性、マリアという女の人から生まれました。生まれた赤ん坊は「イエス」と名付けられました。そして、そこから神様の人間界巡りが始まりました。今から2025年前前後のことです。  そこからあとは皆さんもよくご存知の通り、イエス様は成長して、人を癒し、人を教え、人を憐れみ、人と一緒に飯を食い、笑い、泣く愛の人になりました。  そして、あまりに人を愛するあまり、その時代の権力者たちに邪魔者扱いされて、仲の良かった人たちにも裏切られて、完全な孤独の中で、肉体的にも精神的にも、これ以上ないという苦しみを受けて殺されるという死に方をしました。  人を愛するということを貫いた末に殺されるという死に方でした。これが本当の神様というものだと、イエスを見ていた人は思いました。イエスは人だけれども、神がいるとすればこの人こそが神というものだろう、と人々は思いました。  神は、人間を愛するあまり、人間と一緒に喜び、人間と一緒に泣き、一緒に生きて、そして普通の人以上に苦しみを受けて死ぬという道を選びました。  それは、この世の誰ひとりも独りぼっちで生きて、独りぼっちで死ぬということがないようにするためでした。  私たちが嬉しくて大笑いする時も、苦しくて大泣きする時も、絶対に独りにしない。一緒にいる、共にいてくださる。そういう愛を示すために、神はイエスという姿をとって人間界に来られた。このことを心に覚えてお祝いをするのがクリスマスです。 ▼物語を共に歩もう  イエスが生まれたのは今から2025年ほど前のパレスチナ地方です。荒れ果てた世の中でした。イエスが生まれて、何か大きく変わったでしょうか。神がイエスの姿をとって来てくれたおかげで、世の中が劇的によくなったでしょうか。  そんなに大きく変わっていないようにも見えます。しかし、変わったこともたくさんあります。  たとえば、人ひとりが大切なんだという「愛」というものの種が蒔かれました。敵をも愛するという平和の理念が与えられました。病気の人を手当てしたり、見舞ったり、飢えている人に食事を与えたり、渇いている人に水を飲ませたりといった行いのきっかけが与えられました。そして、それが平和や人権や医療や福祉という形で、2000年以上かけて世界に広がってきたことは事実です。  その最初の種を蒔いたのはイエスです。  そして、その種を育てて少しずつ実らせていったのは人類です。宗教という枠を離れても、その価値観は生き続けています。  そして、まだこの世に神の愛を完全に実現するゴールは、はるか遠い未来かも知れないけれども、その歩みの中にイエスは今もおられると思うのです。そういう意味では、神様と私たちの物語は現在進行形です。  このクリスマスに、改めて私たちはイエスと共に歩む物語を一緒に生きてゆく、そんな仲間であることを喜びたいと思います。 祈りましょう。 ▼祈り  神さま感謝します。  あなたの御子、イエス・キリストがこの世にお生まれになったことを、心から喜んでいます。  あなたがイエス様を通して証してくださった愛の種を、私たちは大切に育ててゆきます。  地上が分断された状態から、次第に愛に満ちたあなたの国へと完成に向かうために、私たちにできることをなさせてください。  今日、私たちのもとに新しい仲間が加わることに心から感謝いたします。どうか神様、この方の生涯にあなたの確かな導きと守りをお与えください。  また、私たちすべての者が、あなたの愛に応えて、共に手を携えあって、あなたの物語を歩んでゆくことができますように。  皆の者の胸にある願いと併せて、イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン。
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『同性愛と新約聖書』(小林昭博、風塵社、2021、¥4,980)

キリスト教に関わる人で同性愛について言及しようとする人には必読の書です。   副題に「古代地中海世界の性文化と性の権力構造」とありますが、本書は聖書にかかわる古代の性のあり方が、現代人である私たちの性愛の捉え方とは全く違っていたということを、まずこの本はその前半部分で徹底的にわからせてくれます。 古代人の性は、現代人のセクシュアリティ(たとえば異性愛、同性愛、両性愛などといった区別があるとか、人間には性的指向があるとか)によって理解されるようなものとは全く違います。 古代の地中海世界における性とは、成人男性による圧倒的な権力と支配・またそれによる従属、征服と屈服の力関係を形にするものに他ならなかったのです。「挿し手」と「受け手」という力関係が基本であり、ギリシャ・ローマ社会の成人男性にとって性の対象は相手が女性であろうが男性であろうが、支配し屈服させるということが「男らしさ」であったというわけです。 また古代ユダヤ社会においても、男性らしさとはの「挿し手」であり、支配者であるのに対して、女性らしさとは「受け手」であり、従属する者であることでした。 このように、現代の我々の性理解とは全く異なる「性の権力構造」の理解をベースに、これまでな聖書の読みを再検証してくれているのが本書です。 コリントの信徒への手紙(一)6章9節およびテモテへの手紙(一)1章10節など、いわゆる「悪徳表」を中心として、同性愛を断罪するために非常に頻繁に使われてきた、いくつかの単語を徹底的に再検証するなど、他にもそのような聖書の翻訳の問題点(はっきり言えば誤読)を指摘しています。また、新約聖書だけではなく、旧約聖書のソドムについての記述にも、しっかりとした検証がなされています。 聖書は、性的少数者を攻撃するために長年悪用されてきており、クリスチャンによる根深いホモフォビアの歴史は相当に積み重なっています。まさにそのために、本書では徹底的にそのような聖書の読み方の誤りを正すことに渾身の力が注がれています。 そのため、できるだけ多くの人が正しく理解できるように、くどいほどわかりやすく説明を尽くしています。この種の本が「先述のように」と言った言い回しで何度もページを遡って捲らなくてはならないものが多いのに対し、本書はその必要を最小限にとどめるよう、読者に非常に配慮した記述になっています。 また膨大な量の文献に圧倒されますが、同時に脚注に大量に書かれた説明注も読みごたえがあり、とても興味深いものです。 このような構成になっているため、結果的に分厚くなっていますが、にもかかわらず、大変読みやすい本となっています。 「聖書に書いてあるから同性愛者は罪人なんだ」と思い込んでいる人には是非読んで勉強していただきたいですし、「そうではないのではないか、しかしどうしてそうじゃないのか上手く言えない」と思う人にも読んでいただきたい、必読の書です。
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【不快語のクリスマス】ルカによる福音書1章46−55節

https://youtu.be/CIyKyQRctmA 2021年12月5日(日)徳島北教会アドヴェント第2主日礼拝説き明かしルカによる福音書1章46-55節(新約聖書:新共同訳p.101、聖書協会共同訳 p.100)  ▼聖書の言葉(新共同訳)  そこで、マリアは言った。 「私の霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。 今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう。 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。 その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、 主を畏れる者に及びます。 主はその腕で力を振るい、 思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。 その僕イスラエルを受け入れて、 憐れみをお忘れになりません、 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」 ▼アドヴェント  おはようございます。今日はアドヴェントの第2回目の主日礼拝です。このクリスマスを待ち望む季節に、こうして実に1年あまりの隔たりの時を経て、私自身久しぶりに礼拝堂で礼拝をお捧げすることができることを心から感謝いたします。全く礼拝堂に集まれなかった日のことも考えますと、よくちゃんと礼拝が続けられてきたなと思います。このことについては、まずは神様に感謝すると共に、自分たちを褒めたいと思います。  また嬉しいのは、直に顔を合わせて他愛もないお話ができることです。この他愛もない雑談が人間にとっては大事なことなんだなと、改めて思わされますし、いまこの時も離れたところで礼拝を共にしている皆さんとも、いつか一緒に集まることができる時が来ることを心から願わずにはおれません。また顔を合わせることができますことを楽しみにしています。  さて、アドヴェントです。日本語では「待降節」、つまり「神の子イエスの降誕を待つ」、「降誕を待つ」ということで「待降節」と言います。元の言葉のアドヴェント(Advent)というのは、「到来」あるいは「来る」という意味がありまして、「アドベンチャー(adventure)」の語源です。「来る」という意味ですので、「アドベンチャー」というのは「次々冒険や危機がやってくる」という意味で「アドベンチャー」なんですね。ですから、「アドヴェント」というのは「来る」時です。主イエス・キリストがやってくる、近づいてくるという時であります。  昔、「今いくよ、くるよ」という漫才のコンビがいらっしゃって、今はどうしておられるか知らないんですけれども、アドヴェントというのは、神様の方から見れば「今いくよ」ということでありましょうし、我々人間の方から見れば「来るよ」ということになります。アドヴェントからクリスマスというのは、イエス・キリストという神が、まさに「今いくよ、くるよ」という時を楽しみに待ちながら過ごす季節なのであります。  このアドヴェントはクリスマスの前の4回の日曜日がそれに当てられていて、クリスマス礼拝の日曜日が4回目の主日になるようになっています。この4回の日曜日に、1本ずつロウソクに灯をともして、そしてクリスマス・イブに5本目のロウソクに灯が灯り、クリスマスを迎えるということになります。今日は、待降節第2主日の礼拝ですので、2本目のロウソクに火が灯った日曜日なわけですね。  そして今日は、イエス・キリストの誕生を前にした時期ですので、イエス・キリストの誕生を待ち望んでいたマリアの賛歌の部分の聖書を読んでいただきました。 ▼貧しい者が上げられ、富める者が引き下ろされる  この「マリアの賛歌」という歌は、実はもともとマリアという一人の女性が歌ったものではない、というのが現代の聖書学の見解です。そして、これはもともと初代のキリスト教会の女性たちが歌い習わしていたものを、福音書記者ルカが受け継いでマリアの歌としてここに入れたものだという説もあれば、最初にイエスの誕生を語り伝えた洗礼者ヨハネの教団が歌い継いでいたものが、ここでマリアの歌として入れられることになったのだという説もあり、いろいろなことが言われています。  しかし、いずれにせよ、ここには身分の低い者や貧しい者が神様に引き立てていただき、富める者、権力ある者が引きずり降ろされるのだという思いがよく表れているということは言えます。それはこのルカによる福音書で言えば、6章の20節以降で……  「貧しい人々は、幸いである。  今飢えている人々は、幸いである。  あなたがたは満たされる。  今泣いている人々は、幸いである。  あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6.20-21)と書かれていて、更には……  「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。  あなたがたはもう慰めを受けている。  今満腹している人々、あなたがたは、不幸である。  あなたがたは飢えるようになる。  今笑っている人々は、不幸である。  あなたがたは悲しみ泣くようになる。」(ルカ6.24-25)  ……という風に書いているこのメンタリティと同じものが流れているということですよね。ルカという人はこういう考えを基本に置いていると読むこともできます。  その一方で、同じルカの書いた使徒言行録という本では、お金持ちの人たち、特にお金持ちの女性たちが初代教会のスポンサーになって支えていたという記事もいくつか見られるので、ルカという人は、お金持ちが貧しい人を助けるような教会のシステムを理想として自分の作品を書いていたのかもしれません。 ▼不快語のクリスマス  さきほど、これはマリアという女性個人の歌ではないと、最近の聖書学で言われていると言いましたが、それにしても、この「貧しい者が上げられ、富める者が下ろされる」という歌を歌う主人公として、ふさわしいというのも変かも知れませんが、まさにマリアという少女は貧しい暮らしをしていた被差別者であると、日本の伝統では伝えられてきたようです。  今日は「不快語のクリスマス」という題でお話をさせていただいていますが、今日私がご紹介したいなと思うのは、讃美歌の中の不快語、つまり差別用語です。  今、私達は『讃美歌21』を使っていますけれども、それ以前に1954年版の『讃美歌』あるいは『讃美歌第二編』という歌集を使っていたのではないかと思います。  その讃美歌集は1954年に発行されたのですけれども、1988年つまり発行されてから34年後に、不快語がたくさんあるからということで、日本基督教団讃美歌委員会から、『讃美歌における不快語の読み替えについて』という紙を挟んで発行するようになりました。それに従って、言葉を読み替えて歌ってくださいということなんですね。  で、それを見てみましたら、全部で16箇所ある読み替え部分の、6箇所がクリスマスあるいは、イエスの母マリアや父ヨセフに関する言葉だったんですね。まあ16箇所あるうちの6箇所を多いと感じるか少ないと感じるかは人によって違うと思いますが、色々なテーマの讃美歌がある中で、改訂箇所の4割近くがイエスの両親に関する讃美歌であるというのは、私は多いのではないかと個人的には感じます。  その改訂部分は例えばこんな感じです。  「いやしき賤(しず)の 処女(おとめ)にやどり♪」が「御霊によりて 処女にやどり♪」になっていたり、「賤の女(め)をば 母として♪」が「おとめマリア 母として♪」になっていたり、「まずしく低き 木工(たくみ)として♪」が「人の住まいを ととのえつつ♪」に変えられたりしています。  「賤の処女」とか「賤の女」と言われていますけれども、「賤」というのは「いやしい」とも読みますよね。「賤しい」というのは、身分や社会的地位が低いとか、貧しくてみすぼらしいとか取るに足りないという意味もありますし、品位にかけているとか下品だとかいう意味もあります。  「こういう呼び方は差別用語だからやめよう」というのは当然そういう流れになるのでしょうけれど、こういう言葉がオリジナルであったということは、マリアとヨセフという、当初このイエスの両親が賤しいと言われていた貧しい被差別者として見られていたということも逆に明らかであったということであろうと思います。  讃美歌の歌詞を作った人の中にも差別的な心理があったかもしれませんが、それにしても他でもないイエス様の両親ですから、やはり、「その両親は私達が普段差別している人たちだったのだ」とあえて表現したところに、この歌詞の作者の悔い改めの意図も読み取ることができるのではないかと思います。 ▼格差への怒り  聖書の方の本文を読んでみても、「身分の低い、この主のはしため」というのは、もう少し直訳調に訳せば、「身分の低い」は「賤しい」「屈辱的な」とも読めますし、「はしため」というのは「奴隷」というニュアンスもあります(ルカ1.48)。  この賛歌の歌い手は、「それでも自分は神様に目を留めていただいた。今から後々までも、私は『幸いな者』と呼ばれるのだ。力ある方が私に大いなることをしてくださったから」と歌います(1.48-49)。「幸いな者」というのは、先程紹介したルカの「貧しい人々は幸いである」という言葉とつながってきます。  そして、49節から50節で神様への賛美を歌ったあとに、この賛歌を歌う人はすぐにこういう言葉を続けます。  「主はその腕で力を振るい、  思い上がる者を打ち散らし、  権力ある者をその座から引き降ろし、  身分の低い者を高く上げ、  飢えた人を良い者で満たし、  富める者を空腹のまま追い返されます。  その僕イスラエルを受け入れて、  憐れみをお忘れになりません。」(51-53)  「身分の低い者」というのは、要するに一般大衆のこと、私たちのような人間のことです。借金に追われていたり、慎ましい生活でなんとか毎日をやりすごしているような人間です。また飢えた者というのは、更にもっと貧しい、路上で生きていて、この寒い空のもと凍死しそうになっている人たちのことです。そのような者たちが高く上げられるのだとこの賛歌は歌っています。  まあ私などは、別に高く上げられなくても、なんとか死ぬまで安心して暮らしていければいいかなと思う程度ですけれども、それにしても世の中は、あまりにお金を持ちすぎている者と日々を生きるのが精一杯の人間との格差が開きすぎています。そういうことに対する怒りがこの歌には込められています。 ▼ルカと「貧しい人」  ルカはなぜこのような歌をこの聖書の箇所に入れたのでしょうか。イエスの誕生がこのような生活の劇的な改善を起こす社会の改革につながると考えたのでしょうか。  ここからは私の推測になりますが、ルカは福音書から使徒言行録へと繋がる自分の物語のなかで、お金持ちの人間が貧しい人間を支えて、教会が営まれてゆくことを理想として描いていると思われる。そういうことを先程私は言いました。  もうそうであるならば、ルカは革命などによって劇的に社会変革をするのではないけれども、教会が貧しい者を養う働きをすることを志していたのではないかと考えられます。  たとえばルカの福音書の14章には、「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」というような言葉が2回繰り返されています(ルカ14.13、21)。  16章には「金持ちとラザロ」という小見出しがついたたとえ話があって、金持ちは死後の世界で炎に焼かれるけれども、金持ちの家の前で横たわっていたラザロというできものだらけの貧しい人は、死後の世界で宴会にあずかっているという話があります(16.19-31)。これはルカだけが書いている物語です。  また、徴税人で金持ちのザアカイがイエスに出会って悔い改めて、財産の半分を貧しい人に施します」と約束した話もルカだけが書いています(19.1-10)。  そしてルカは使徒言行録で、初代教会の人々が個々人の財産を持ち寄って共有し合って、この世の終わりを待っている姿を描いています。  こういうルカの描く世界は、私たち自分の持っているものにしがみついてなんとか自分の生活をやりくりしている人間にとっては、共感するところもあり、耳が痛いところもあり、といったところではないかと思います。  私たちは中抜きの派遣会社で大儲けしているような大金持ちではないし、かといって路上で飢えているわけでもありません。個人差はあれど、中間的な立場にいるのではないかと思います。そのような中間的な立場にいる者に対しては、ルカは何を伝えようとしているのでしょうか。ルカの言葉から私たちが学べることは何なのでしょうか。 ▼ルカの問いかけ  実は、ルカの書いた第1作である福音書には、こうやって「貧しい人」に関する話がたくさん出てきますが、第2作である使徒言行録には、ほとんど出てきません。むしろ、使徒言行録の4章34節には、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている者が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」と書いてあります(使徒4.34-35)。  これはあくまで推測ですが、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(34節)の言葉に、ルカが相手にしていたのが財産のある人たちが多かった教会だったのではないでしょうか。ですから、そのような人たちに対して、自分の持っているものを差し出すことが理想のように述べたのではないかと思われます。  実際に、初代教会の人たちがそのような原始共産制のような生活をしていたかどうかはわかりません。あるいはしていたとしても、エルサレムの人たちだけだった可能性があります。というのも、パウロが手紙を書きながら旅をしたのは、イエス様が無くなってから20年後ほどの紀元50年代ですが、その手紙の中には初代教会がみんなで財産を完全に共有していたという話は一つも出てこないからです。  むしろ、聖餐に関する記事で、裕福で暇のある人達が先にエクレシアの集会にやってきて、長時間労働をして遅れてやってくる貧しい階級の人達のぶんまで飲み食いしてしまうなんてことが書いてあるくらいですから、信者たちの間で貧富の差が完全に無くなっていたというようなことはなかったのでしょう。  しかし、そのような社会の現実を見て、ルカはなんらかの形で異議を申し立てたかったのではないでしょうか。そして、おそらくイエス自身が本当に言ったのであろうと考えられる「飢えている者が満腹になり、満腹している者が何も持たされずに追い返される」という言葉を、どうしても伝えたかったのではないかと思います。たとえそのとおりに人々が実践できなかったとしても、ルカは彼なりの理想を目指して、人々に問題提起をしたかった、特に豊かな人に対して問いかけたかったのではないでしょうか。 ▼私たちの応え  私たちは路上で冬を過ごす人間ではありません。しかし、マリアの賛歌に出てくる「身分の低い者」としての一般庶民であることは間違いありません。ルカが言ったとおりのような大胆なことはできませんし、私たちもそんなに余裕のある暮らしをしているわけではありません。このクリスマスにおいても、さほど贅沢なことをするわけでもなく、自分たちの持てるものを持ち寄って、ささやかな楽しみを共有しようとしています。  しかし、ルカの伝えるイエス様の問いかけに応えて、このイエス様が「今来るよ」と言って来られるこの季節に、イエス様がまずはどこに来られたのか。貧しい、低い、「賤しい」とされたマリアとヨセフの所にまずは来たのではないか。  そんな物語を書いたルカの問いかけに応えて、少しでも自分よりも貧しい人、飢えている人を覚え、その方ひとりひとりのために何かできるとしたら、それは一体何なのでしょうか。ルカの問いかけに応えることのできる私たちでありたいと思うのですが、いかがでしょうか。  私はこの時期になると、ある年の年末のことを思い出すんです。大阪の西成の釜ヶ崎でその年の最後の夜回りのボランティアに参加していた時に、お弁当を配って「良いお歳を」って言って回っていたんですが、その歳初めて路上に出ることになってしまった人なのかもしれない。一人の40代くらいの男の人が呆然と立っているのに出くわしました。  お弁当を渡して「良いお歳を」と声をかけました。弁当を受け取ってくれたのですが、弁当に目を落とすわけでもなく、私を見るわけでもなく、ただ自分の置かれた状況に呆然と立ち尽くしているだけという様子でした。  これから彼は、寒空の下、どのように夜を過ごすのか。そもそも「良いお歳」を迎えることができるのか。私もどうしようもない。そんな中で、ただ「良いお歳を」としか言えなくて、その人を置いて帰るしかなかった情けなさを憶えています。  あの人は新しい歳を生きて迎えることができたのだろうか。今も生きているのだろうかと、何度も思い出します。そんな記憶が蘇るたびに、このルカの問いかけが痛く感じられます。  私は、今年もそんなことを思い起こしながら、クリスマスと年末を迎えようとしています。この「マリアの賛歌」を書いたルカの問いかけに私たちはどのように応えたらいいのでしょうか。 ▼祈り  祈りましょう。  まもなく今年もイエス様の姿で私たちのもとに来てくださる神様。今年もあなたの到来をお待ちする季節がやってまいりました。  昨年に引き続き、今年もウイルスのために、大いに苦労をさせられた私たちですけれども、将来に不安を残しながらも、こうしてあなたへの礼拝を捧げることが許されておりますことを、心から感謝いたします。  北半球のクリスマスは寒いです。この冬の寒さの中で命を危険にさらしながら歳を越さなくてはならない人のことを覚えます。私たちに何ができるのでしょうか。私たちにできることにどうか気づかせてください。そしてそれをなす力を与えてください。  また地上には、寒いクリスマスを送る人たちもいれば、温かいクリスマス、暑いクリスマスを迎える人たちもいます。それぞれの場所で、それぞれの形で、私たちはあなたの到来を待ち望んでいます。もうすぐやってくる、あなたの御子イエス・キリストからの問いかけに、私たちなりに応えることができますように、どうかお導きください。  そして今日も、明日も生きてゆく私たちに、勇気と希望と力を与えてください。私たちに使命を与えて、この世へと送り出してください。  イエス様の御名によって祈ります。  アーメン。
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【読み方が 示すあなたの お人柄】テモテへの手紙一1章8−11節

https://youtu.be/MuU1P9w_jGQ 2021年11月21日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かしテモテへの手紙(一)1章8-11節(新約聖書:新共同訳p.384、聖書協会共同訳 p.375)   聖書の言葉(新共同訳)  しかし、わたしたちは、律法を正しく用いるならば良いものであることを知っています。すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者は俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。 偏見の根拠  おはようございます。  今日の説き明かしは、「読み方が、示すあなたの、お人柄」という題名にしましたが、これは「運転が、示すあなたの、お人柄」という川柳をもじったものです。車の運転の仕方にあなたのお人柄が表れていますという川柳ですが、聖書の読み方にもやっぱりお人柄がでますよね、というお話です。聖書の読み方、あるいは翻訳者の翻訳の仕方、そして聖書の文書そのものにまでも、その人の思い込みや偏見が出てしまいますなあというお話です。  今日取り上げましたテモテへの手紙(一)は、いつかお話したこともある、女性に対する偏見、差別が激しい記事が書かれている文書です。「女性は派手な化粧はするな」とか「静かに従順でいなさい」とか「女性が教会の中で教えたり、男性よりも上に立ってはいけません」とか、挙げ句の果てには「子どもを産めば救われます」という言葉まで書いたテモテへの手紙(一)ですから、どうせろくなことは言わないだろうと思って読んでいたら、やっぱりひどいことを書いています。  今日引用した1章の8節から11節も、同性愛者への差別の理由付けとしてよく使われる箇所です。聖書の中には、同性愛に対する偏見や差別意識が表れていると言われている箇所がいくつかあります。実はどれもそういう意味で書かれているわけではないことが今ではわかっているんですが、それでも結構多くの保守的なクリスチャンが、聖書を使って「同性愛は神のご意志に反している」とか「同性愛は罪であり、同性愛者は神の罰を受けて死ななくてはならない」と言っていたりします。  そのようないくつかの聖書の箇所の中で、このテモテへの手紙(一)の記事は、比較的わかりやすくその誤解を解くことができる箇所であることと、性にまつわるある社会現象を問題にしているという意味でもわかりやすい箇所です。 悪徳表  ここでテモテへの手紙を書いた人は、「自分はパウロである」と手紙の初めで書いていますけれども、実際はそうではないとされています。この人はパウロと違って律法を正しく用いる方法を説明しようとしています。  パウロだったら、ユダヤの律法とは違う生き方をする人、つまりユダヤ人以外の人たち、つまり異邦人を裁かないで、律法から解放された生き方をしようという風に勧めるのではないかと想像できるんですけれども、このテモテへの手紙を書いた人は、8節で「律法を正しく用いるならば良いものだ」と言っているので、また律法主義に逆戻りしています。そして、次のリストに載っている者たちを裁くために用いれば良いものなのだと言うんですね(1テモテ1.9)。  こういった、裁かれるべき人間を列挙しているリストのことを「悪徳表」と言います。どうもこの時期の手紙には、こういう悪徳表が使われるのが習慣だったようで、これはパウロもこういう物の言い方を使っています。  この悪徳表に挙げられているのは、「不法な者、不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者」という、まあ色々とこれだけ挙げることができましたねというくらいの立派なリストです。  この1章の前半は、3節以下のところにこの聖書の小見出しで「異なる教えについての警告」にあるように、この手紙の宛先のテモテのいるエフェソという町はギリシャ・ローマの神々やローマ皇帝を崇拝する神殿がたくさんあるところで、この手紙の作者はそういう宗教を偶像崇拝だと言って攻撃するつもりで、こういう悪徳表を使っているんですね。「あいつらは偶像礼拝をするから、こういう悪徳をくりかえしているんだ。だから、こういう奴らは律法で裁かないといけない」と言っているわけです。  ▼男娼とその買い手  この悪徳表の中で、同性愛が罪だという根拠にされているのが、10節の「男色をする者」という言葉です。  ところが、ここで性にまつわる言葉は、この「男色をする者」だけではなく、その前に「みだらな行いをする者」。それから、「男色をする者」のあとに置かれている「誘拐する者」も実は性に関する言葉なんですね。これはどういうことかと言いますと、この3つがこのエフェソで行われていた性産業ビジネスの3点セットだったからです。  ここで「みだらな行いをする者」と、まるでみだらな行為をする人全般を指すように訳されているのは、実は性を売り物にさせられている男性、あるいは少年、つまり男娼のことを指しています。  それから「男色をする者」と訳されているのは、いわゆる我々の時代で言う「同性愛」のことではなくて、男娼を買う男のことを指しています。  いま「我々の時代の同性愛」と言いましたが、古代には同性愛という、男の人を好きになる男の人、女の人を好きになる女の人、そしてそういう人どうしによる対等な関係としての性愛はなかったんですね。  古代人の性の文化というのは、まず男が女の上に立って、女を支配し、屈服させる。あるいは女のような男を支配し、屈服させる。これしかなかったらしいんですね。ですから、古代ギリシア・ローマの性は男が相手が女性であろうが男性であろうが支配し、屈服させる。それが男らしい男ということになっていて、それが基本形なわけです。  現代の同性同士が対等に愛し合うどころか、異性においても対等に愛し合うということはなかったんですね。異性であっても、男が女を支配する。男が「女々しい男」も支配する。ですから、古代人は私たちのこの時代における「同性愛」というものを知りません。  ですから、ここで「男色をする者」という訳し方は間違っています。これは先程出てきた「男娼」を買う、その買い手。当時は「男らしい」とされていた男のことです。  男色ではないものを「男色」と訳すのは、つまりこの翻訳をした人は、古代の性のあり方とは関係なしに、男色つまり同性愛がここで責められているのだという風に思い込んで、そういう訳語を当てているわけです。つまり、訳し方に同性愛者差別の気持ちが反映しているから、そうなってしまうんですね。 奴隷商人とセックス産業  そして3つ目の「誘拐する者」ですが、これも単なる人さらいではなく、先程から触れているような男娼にするために少年を誘拐してくる者のことを指しています。誘拐したり、戦争の捕虜になった少年を連れてきて、売春宿に売りつける。もちろん少女もさらってきて、売春宿に売りつける。そういう人身売買をやっていた奴隷商人のことなんですね。  ですから、ここの聖書の箇所は、正確に訳すと、「性奴隷にされていた少年たち」「その性奴隷の少年たちを買う男たち」そして「少年を誘拐してきて売春宿に売りつける奴隷商人たち」という、セックス産業の3点セットに関わっている人たちが、ここで言われているように、人殺しなどと並ぶような罪人だと言われているわけです。  このような背景を知っているはずなのに、翻訳する人はここをまるで「現代で言う同性愛が律法によって裁かれているのだ」という風に読めるように翻訳してしまうわけです。そして、それを読んで「だから同性愛は罪なんだ」と読んでしまうクリスチャンが多いわけです。  もちろん、翻訳者以前にこのテモテへの手紙を書いた人自身にも問題はあります。最初の方で申しましたように、問題発言の多いこの作者のことですから、何を言い出すのかわからないところがありますけれども、「誘拐されて性奴隷にされてしまった少年」も罪人だと言ってしまっていますよね。  エフェソの性産業全体を「罪だ」と責めているわけですが、少年を買う男たちや奴隷商人を責めているだけではなく、自分を売らされている少年たちまで一緒にして「それは罪だ」と言っています。奴隷にされた少年たちへに寄り添おうとする気持ちは少しもありません。  そうやって聖書を批判的に読んでゆくと、聖書の中の文書を書いた人の偏見、翻訳した人の偏見、そしてそれを読んで解釈する人の偏見など、様々なレベルでの偏見が少しずつあぶり出されてきます。  そして、自分はどの立場で聖書を読むのか、誰の立場に寄り添って聖書を読むのかということが問い直されてくるのですね。本当に愛されなくてはならないのは誰なのか、本当に守られたり、助けられたりしなければならないのは誰なのかといったことを考えて上で、聖書を読まないといけないのではないかと思うわけです。  まあもちろん、私も不十分で、そのことに少しずつ気付かされてゆく途上にある者ですけれどもね。今日のこの聖書の箇所の話はひとつのサンプルですが、聖書というのは、同じ現実を見ていても、書いた人、翻訳した人、そして読む人のものの考え方や感じ方が投影されてしまう。つまり、「読み方が、示すあなたの、お人柄」ということになるわけです。 聖書に書いてあるから?  クリスチャンの多くが聖書を引用して「同性愛は罪だ」と言います。しかし、それを言うなら、他にも現代のクリスチャンはいっぱい罪を犯しています。  たとえば、このテモテへの手紙を読むと、先程も言いましたように、「女性は教会では教えるな。静かに従順で学んでいなさい」と言います(1テモテ2.11-12)。けれども、現代ではそんなことを言う人はいません。女性の牧師もいる時代です。でもこれはテモテへの手紙に反しています。聖書の言葉に反しています。  「大酒飲みは教会で奉仕するな」とも書かれています(1テモテ3.8)。けれども、大酒飲みの奉仕者や牧師もいっぱいいます。これは聖書の言葉に反しています。  他にも、聖書には「反抗的で父親や母親の言うことを聞かない息子はいたら死ななければならない」とか(申命記21.18-21)、「豚は食べてはならない」とか(レビ記11.7)いろいろな規定がありますけれども、私たちは守っていません。トンカツやカツ丼、生姜焼きは喜んで食べます。好き嫌いはありますけれどもね。  では、なぜ同性愛だけは(もっとも、聖書に書かれているのは、今の私たちが言っている同性愛とは違うと言いましたけれども)、なぜ「それだけは罪だ」「罪人だから神の国を受け継ぐことはできないんだ」と言ってしまえるのか。それは、「女性は黙っていなさい」と言うと今なら女性の人権を侵害しているということで叩かれてしまうし、「豚を食うな」と言うと、実際我々が自然に食べている食生活の週間が崩れてしまうからですよね。  特に女性の人権という点から見れば、これまでの歴史の中で、女性の人権を獲得するまでに長い闘いがあったから、ここまで来れたということは言えると思います。だから、「女性は黙っていなさい」と聖書に書いてあるのに、それを破っていても誰も何も言わなくなった。  それに対して、「同性愛だけは裁かれるべきだ」と言っているのは、まだ同性愛者の人権がちゃんと獲得されていないからということが言えると思うんです。他にも守らなくなった聖書の規定がたくさんあるのに、なぜ同性愛だけが「聖書に書いてあるから」ダメだと言えるのか。  それは本当は、そう言っている人自身が「女性を差別するような聖書の読み方をすると今どき何を言われるかわからんけれど、同性愛者だったら何を言っても誰にも批判されないだろう」という思い上がりを、自分でも気づかないうちに持ってしまっているんですね。そのような、自分でも自覚していないような差別意識が残っていて、その差別意識を聖書を使って正当化しているだけなんですね。つまり自分が差別をするために聖書を都合よく利用しているわけです。  ここにも、「読み方が、示すあなたの、お人柄」ということが表れています。本当は本人のお人柄の問題なのに、それを聖書で正当化している。聖書の読み方ひとつで、人間のありのままの姿をバッサリと切り捨て、「それが神のご意志です」と言ってしまえる自覚のない差別がここにあります。 寄り添う  ちなみに、先程「男娼」についてのお話をしましたが、イエス様はそのような奴隷商人に売り飛ばされて性奴隷にされている少年や少女に対しては優しい方です。イエス様は「徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る」(マタイ21.31)と地位のある豊かな人たちに言い切った人です。  これは、今日取り上げた第1テモテとは真逆の態度です。「娼婦の方が先に神の国に入る」ということは当然「男娼も先に神の国に入る」に違いありません。誰がいちばんこの世の中でひどい目に遭い、搾取されているのかをイエス様はわかっておられたんですね。そういう人たちにイエス様はいちばん寄り添ってくださる方だったわけです。  体を売って生きている人に対して、昔の人も、今の人も蔑む気持ちは強いです。イエス様の後をついて行こうと言っているクリスチャンでさえもそうです。けれども、そういう人たちにこそイエス様は心を向けて、愛されていたということを読み取るのも、聖書を読むひとつの姿勢。「読み方が、示すあなたの、お人柄」ということではないかと思うのですが、いかがでしょうか。 祈り  祈りましょう。  私たちに毎週の礼拝において御言葉を与え、それを味わう時を与えてくださっていることを感謝いたします。  本日は、あなたの御言葉と言われながらも、それを書こうとした人間の限界、それを読む側の限界について思いを巡らせる時を持ちました。  このように聖書の言葉を批判的に読むのは勇気の要ることです。けれども、あなたの無限の愛を完全に言い表すことは、有限なる人間には大変難しいことであるのかも知れません。  神様、少しでもあなたの無限の愛を私たちに知らしめてください。そして、少しでもその愛に私たちがついてゆくことができますように、私たちを引っ張ってください。  あなたのお導きによって、この週も勇気をもって歩んで行けますように、この世へと送り出してください!  主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。 この説き明かしは、小林昭博著『同性愛と新約聖書』に大幅に依拠しています。
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