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【ありのままのあなた、これからのあなた】ルカによる福音書10章25−37節

https://youtu.be/gALyB4Tg3rg  2021年10月17日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし ルカによる福音書10章25-37節(新約聖書:新共同訳 p.126-127、聖書協会共同訳 p.125) 聖書の言葉(新共同訳)  すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」  イエスが、「律法のは何と書いてあるか。あなたがそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」  イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」  しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。  イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。  ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。  ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。  『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」  律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 模範解答  今日取り上げましたのは、よく知られた「善いサマリア人」のたとえ話です。ある律法の専門家、つまり法律家が、「イエスを試そうとして」「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」と質問します(ルカ10.25)。  ここでこの律法の専門家は、どうしたら永遠の命を「得られますか」ではなくて、「受け継ぐことができますか」と質問しているところが目を引きます。この「受け継ぐ」というのは「相続する」という風に言い換えることもできます。人間の命がもともと永遠ということはありませんから、この場合の「永遠の命」は神の命と言ってもいいかもしれません。  けれども、古代のユダヤの律法学者たちは、そのような永遠の神の命を、自分たちがそうすれば受け継ぐことができるだろうか、というようなことを毎日論議していたんでしょう。  そして、そのような自分たちが論議しているようなことを、イエス様がどこまで把握しているのか、イエスならどう答えるだろうという、やや意地の悪い質問をぶつけたというところでしょう。  これに対してイエスは、逆に質問し返します。「律法には何と書いてある? あなたはそれをどう読んでいる?」。  するとこの律法の専門家は、こんな風に答えています。「あなたの神である主を愛せ。あなたの心(ハートですね)の全てによって、あなたの魂(プシュケーです)の全てによって、あなたの力(パワーというより力強さというような意味ですね)の全てによって、あなたの思い(これはマインドです)の全てによって。そしてあなたの隣人もあなた自身のように」(10.27)  この戒めの前半の「神である主を愛せ」というのは、旧約聖書の申命記6章5節に「あなたの心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、主なる神である主を愛せ」と書いてあるのに、ルカさんが「思いを尽くして」という言葉をひとつ付け加えたものです。それから、後半の「隣人を愛せ」というのは、レビ記19章18節にある「隣人を自分のように愛しなさい」と書いてあるものの引用です。  この律法の専門家は、ある意味で模範解答をここでイエス様に答えたわけですね。他の福音書ではイエス様自身が、この「主を愛せ、隣人を愛せ」ということが律法の中で一番大切だと言っているところもありますから、本当にイエス様自身がそういうことを言ったかどうかは別として、一応そういう2つの掟が律法全体をまとめるものだという考え方は広く行き渡っていたんでしょうね。ですから、ここでこの律法の専門家が答えたのは、「律法とはこういうものである」ということを一言で答えた一種の模範解答でした。「そんなことくらいわかっていますよ」という態度ですね。 知識か生き方か  すると、イエス様は答えました。「正しく答えたね。その通り実行したら命が得られるよ。」  この言葉はイエス様が最初に、律法に書いてあることを「あなたはそれをどう読んでいるか?」と問われたことと合わせて考えないといけなちと思うんですね。律法を知っているという知識だけではなくて、あなたはそれをどう自分の問題にしているのか? ということなんですね。  この問いに対してこの律法の専門家は、自分の知識で答えただけです。自分はどうこの律法を具体的に実行しているのかということを問われているのに、それには答えてないんですね。  そこで、イエス様は「じゃあそれを実行しなさい」と言って話を終わりにします。この「主を愛すること、隣人を愛すること」という戒めは実行しないと意味がない。そしてこれらを具体的にどう行動や生き方に表すかは自分で考えなさいというわけです。ちょっと突き放した態度です。  ちょっと突き放した、あまり優しくない態度のようにも見えますが、一方で教育的にはこの方法が正しいような気もします。自分で考えないと人は成長しませんしね。  それに、ちゃんとイエス様はここで、「あなたの答えは正しいよ」と言ってくれているわけですから、ちゃんとこの生徒の答えを認めているわけです。認めた上で、この先は自分で考えなさいと言っているわけですから、私はなかなかいい先生ではないかと思うんですね。 ゼノフォビア  ところがこの律法の専門家は自分で考えることを放棄しているんでしょうか。具体的にどうすれば隣人を愛するという行動になるのか考えられない自分を正当化したかったんでしょうか。「では、私の隣人とは誰ですか?」と聞くんですね。自分で考えないで、すぐに「答えを教えてください」と質問を繰り返す。これはまあはっきり言ってあんまりよろしくない姿勢の生徒です。  しかもこの質問も、底意地が悪い質問です。というのは、当時のユダヤ人にとって「隣人とは誰か」というのは誰か割にはっきりわかっているわけです。それは同じユダヤ人のことです。  まあ、もっと厳密に言うと、同じユダヤ人でも律法をちゃんと守れないような人間とか、あるいは異邦人つまりユダヤ人以外の民族と日常的に接触して生活しているような人間、たとえばイエスの出身地であるガリラヤ地方の人たちは、他の民族の人達と商売していたりして日頃から接触していましたから、そういうのは隣人とは言えないんだという態度の人もいました。  つまりここには、ユダヤ人による異民族嫌悪(ゼノフォビアと言いますけれども)。それがはっきり出ていて、「隣人とは誰か」という質問は、「おまえは生粋の一切汚れの無いユダヤ人から、律法を守れないユダヤ人や異民族と接触しているようなユダヤ人。一体どのへんまでを『隣人』と言っているんだ」という、イエス様がどれくらいきっちりしているのか、それともいい加減なやつなのかをあぶり出してやろうという魂胆の質問なんですね。  こういう質問を浴びせられて、イエス様もちょっと本気になったんでしょうか。この、自分の問いかけを正面から受け止めて考えようとしないくせに、こういう底意地の悪い質問をとっさに思いつく程度には頭がいい、この面白くない男を相手に、ちょっと腹を立てたのかも知れません。そこで、このよく知られている「善いサマリア人」のたとえ話をすることになります。 真面目な同胞  このイエス様のたとえ話も、底意地の悪い男に答えるのにじゅうぶんなくらい皮肉の効いた話です。  ある人がエルサレムからエリコに下ってゆく途中、それは大変急な下り坂が続く厳しい道ですけれども、エルサレムからヨルダン川沿いにまで下っていって、そこから北上してガリラヤ地方やシリア地方まで登ってゆく幹線道路ではあるので、そんなに全く人が通らないほどさびれた道ではなかったようです。けれども、通る人が少なくなった瞬間には追いはぎが出ます。このユダヤ人の男の人は、運悪く追いはぎに出会ってしまったんですね。  そして、さびれた道ではないですから、人が通る。まず祭司がやってきて「道の向こう側を通って」行く。次にレビ人もやってきて「道の向こう側を通って」行く。  この祭司というのは、代々神殿で聖なる儀式を執り行う仕事をしています。またレビ人も祭司を補助する役割をする部族の出身者で、これも代々続いています。彼らは聖なる家系の人間です。聖なる位の高い人間ですから、1人で旅をするんじゃなくて、お供の者が何人かついて移動したりしていた可能性がありますから、こういう人たちは追いはぎに襲われることはまず無かったでしょうね。  この人たちも律法の戒めを守って、真面目にこの死んでいる可能性もある強盗の被害者に近づかないようにしていました。レビ記21章1節以下に、「自分の親戚が亡くなった時以外は、人の死体に触れる汚れる」と書いてありますので、この聖職者たちは「汚れたらあかん」と真面目に考えて、近づかないようにしていました。 善良な異民族  そして、ここに旅をしていたサマリア人がやってきたと。  サマリア人がこの幹線道路をやってくるというのは、実際にはありえないんじゃないかなと思われます。ちょっとありえないような設定をイエス様はわざと話したわけです。そもそもエルサレムからエリコに下る街道というのは、サマリア地方を通らないように大回りするための路線なんですね。それほどユダヤ人とサマリア人というのは仲が悪い。戦争をするほどではないけれども、お互いに非常に嫌い合っています。特にユダヤ人のサマリア人に対するゼノフォビアはひどいわけです。同じ部屋で同じ空気を吸いたくもない。そんなことをしたら自分が汚れていまうと思っているくらいです。  ところがイエス様は、このサマリア人がユダヤ人を助けたんだよというお話をします。これはユダヤ人にとっては鳥肌が立つほど嫌な話です。日本社会の文脈で言ったら、ある被差別部落があって、「あの道は通るな。何をされるかわからんぞ」と言われていた道を通っていた人が、たまたま通り魔に襲われたけれども、部落の人に助けてもらった、とでもいうような設定です。  ところが、このサマリア人はこの裸で血まみれになって倒れているユダヤ人を見て、「深く憐れんだ」と書かれています。この「深く憐れんだ」というのは、今までの礼拝でもよく触れることが多かった「スクランニゾマイ」、つまり「腸がちぎれるような思い」「断腸の思い」のことですね。  そして、このサマリア人はこのユダヤ人を介抱し、宿屋に連れて行って費用を払って行く。そして最後にイエス様は言う。「この3人の中で誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」  すごい皮肉ですよね。「私の隣人とは誰ですか?」「ユダヤ人の中でもどのレベルまでを『隣人』と呼んだらいいんですかね?」というような質問に対して、イエス様は全然違う方向から、「ユダヤ人が云々ではないよ。あんたらが嫌で嫌でたまらないあのサマリア人が隣人になってくれたのさ」と言い返したんですね。  この律法の専門家は、もうそれ以上言い返すことができなくて、しかし「そのサマリア人です」という「サマリア人」という言葉を口にするのも嫌だったのか、「その人に憐れみを示した人です」と言う。するとイエス様は、最初に言っていた通り、「実行しなさい」と答えます。 教師イエス  私は、この律法の専門家とイエス様のやり取りの中で、イエス様はなかなか教師としてはよい対応をされたんではないかと言いました。この質問者に対して、質問で返すというのはイエス様がよくやる方法ですが、この最初のやり取りからして、質問者に自分で考えるように促しています。  そして、この質問者が自分なりに考えた答えを言うと、「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言って、更に彼の答えを自分で深めるように勧めています。イエス様としては、これでこのやり取りは終わりだなと思っておられたでしょう。  この時点で私が印象深く感じるのは、イエス様は決して目の前の質問者を頭ごなしに否定はしなかったということです。ある意味、ありのままのその人を活かして、自分で考えることを促しただけです。  ところがこの質問者は、自分で考えることを拒否して、開き直ろうとします。するとイエス様も一歩踏み出して、その人の足りないところを気づかせるような話をします。それでもたとえ話を話したあとも、最後もやはり自分で考えるように促す質問で終わります。  イエス様は決して最初から最後まで無理矢理に相手を捻じ曲げて教育しようとはしていません。イエス様は結構他の箇所では、口汚く罵ったり、憤りを丸出しにして物を言ったりすることもありますが、ここでは決して感情的になった様子は描かれていません。むしろ、質問者が自分で気づくように誘導しています。 このままのわたし、これからのわたし  最初にイエス様は、この律法の専門家を一応肯定していました。いろいろ問題は抱えながらも、それを無理に変えようとまではしておられませんでした。  私達の人生に置き換えてみると、私達自身の人生も実際には問題だらけかもしれないけれども、決してイエス様はそれを否定して無理には捻じ曲げて修正しようとはされません。基本的には「それでいいんじゃないか。そのままで行きなさい」と言われます。それを私達は「ありのままの自分を肯定された」と受け取ります。  けれども、人間の中には、更に問いを続け、探求しようとする人もいるでしょう。今日の聖書のお話の中では、ちょっとイエス様に対して意地の悪い質問をした人が出てきましたが、別に意地の悪い問いでなくても、更に答えを求めて問いかける人がきてもおかしくありません。  その時イエス様は、「それならこういう話はどうだ?」とヒントを与えてくれる。そして、そのヒントを基に更に自分で考えさせてくださる。そういう方ではないかと思うのですがいかがでしょうか。  私の今の状態を決してイエス様は裁かない。けれども、次に進もうとするのなら、イエス様はそんな私の意志も促してくださる。  「これでいいんでしょうか?」と問うと「それでいい」と答えてくださる。そして「私は変わりたいのです」と言うと「変わりなさい」と背中を押してくださる。  イエス様はそういう方ではないかと、私は今日の聖書の箇所を通して思わされるのですが、皆さんはどのようにお感じになりますでしょうか。 祈り  祈りましょう。  神様、いつも私達のあるがままの姿を受け入れてくださり、ありがとうございます。あなたの愛によって私達は自らを裁かず、人をも裁かずに生きてゆくことができます。  しかし神様、私達が今の自分のままでいたくないと思った時には、どうか私達の背中を押してください。どうか私達を成長させてくださいますようお願いいたします。  今週もあなたに守られて、歩んで行けますように。安心して行きなさいと私達を押し出してください。  イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。  
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【裏切り者の食卓】ルカによる福音書22章31−34節

https://youtu.be/SHrHYCDYZCM 2021年10月3日(日)徳島北教会世界聖餐日礼拝説き明かしルカによる福音書22章31−34節(新約聖書:新共同訳 p.154-155、聖書協会共同訳 p.152)  聖書の言葉(新共同訳)  「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」  するとシモンは、「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。  イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」 裏切りの予告  聖餐は裏切り者の食卓です。  主の晩餐は裏切り者どもがイエスのパンと杯を受け取る食事でした。  今日の聖書の箇所はイエス様が「最後の晩餐」(いわゆる「主の晩餐」)の、その食事の場で、パンと杯をご自分の体と血になぞらえた、聖餐のもとになった出来事に続いて起こった会話で、イエス様が弟子たちの裏切りを予告する場面です。  と言っても、この場面は4つの福音書全部に載っているとはいうものの、少しずつ描き方、書かれ方が違っています。  この最初の「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(ルカ22.31)という言葉はルカだけに書かれています。  この、弟子たちを試練に遭わせることを、サタンが神に願うというのを読むと、旧約聖書のヨブ記を思い出します。ヨブ記という本の始めのほうに、主人公のヨブの信仰がどれほど強いものかを試すために、ヨブに試練を与えることをサタンは神様に願い出て、聞き入れられます(ヨブ1.8-12)。そういう場面を連想するんですね。  もし、ルカさんがそういう連想を念頭に置いていたとすれば、ヨブ記というのは、ヨブが苦しみを与えられて、誘惑に落ちてしまいそうになりながらも、最終的には神の圧倒的な存在にひれ伏し、もう一度祝福にあずかることになることをルカさんは知っているはずですから、ルカさん自身、弟子たちが最終的には再び戻って来るということをわかった上で、この裏切りの予告を描いているということになります。  だから、更に続きを読んでいくと、ルカさんはシモン・ペトロがやがて戻って来ることも含み置いた上で、この裏切りの予告の場面を描いているんでしょうね。 立ち返りの予告  読み進みますと、イエス様はこんな風に言っています。「しかし、あなたのために、あなたの信仰が無くならないように、私は祈った。だから、あなたは戻ってきたら、兄弟たちを力づけてやりなさい(サポートしてやりなさい)。」(22.32)  その後シモン・ペトロは「私は牢であろうと、死であろうと、準備はできています」と言うんですけれども、イエス様に「ペトロ、あなたは今日、鶏が鳴くまでに3度私のことを知らないと言うだろう」と言われてしまいます(22.33-34)。  先程のイエス様の、「あなたのために、あなたの信仰が無くならないように、私は祈った。だから、あなたは戻ってきたら、兄弟たちを力づけてやりなさい(サポートしてやりなさい)」というペトロにかけた言葉も、ルカによる福音書にしか書かれていません。他の福音書には、このようなペトロがやがて戻って来ることまで予告している記事はありません。ここにはルカさん独特の裏切り者ペトロに対する優しい眼差しがあるように私には思えます。  ペトロは実際この後、イエス様を裏切ることになります。「牢であろうと死であろうと、私は準備ができています」と言っていましたが、実際にイエス様が逮捕されしまうと、自分も捕まってしまうことが怖くなって、イエス様のことを3度も「そんな人は知らない」と言って逃げてしまいます(ルカ22.54-62ほか)。  イエス様を裏切った直後ペトロは、「あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」という言葉を思い出して、「外に出て、激しく泣いた」と、その裏切りの場面には書いてあります(ルカ22.62)。  ペトロはどんなに自分のことが情けなかっただろうかと思います。そして、そんなペトロが再びイエス様亡き後の教会を率いてゆくことになる様子を見ていると、見ている側の人間としては、「どの面下げて戻ってきてんねん!」と、その図々しさを批判したくもなる気持ちが起こっても仕方がないと思うのですけれども、ルカさんはそんなペトロを励ますイエス様の言葉をここに書き込んでいます。  ペトロは、イエス様が「兄弟たちを力づけて、サポートしなさい」と言ってくださったから、それを実行しているのだ。ペトロが戻ってきたのはふてぶてしいように見えて、それはイエス様が望んだことなのだ、とルカさんは言っているんですね。ここにルカさんの優しさがあります。  思えば、ルカという人は他にも、1枚の銀貨を無くした女性が見つけるまで念入りに捜し回る話とか、いなくなった息子がすってんてんになって戻ってきても、大喜びして宴会を開く話。主人の財産を無駄遣いしたあげくに、更に貸し金の証文を書き換えるような不正を行った使用人が逆に神に受け入れられる話など、過ちを犯したり、道を外れてしまった人でも、神様は愛して受け入れてくださるんだよということを何度も説いて聞かせるように書いてくれています。  ルカさんは、こんな風に、ダメ人間をリサイクルするような、そんな神様の愛を証しする福音書を書いてくれたんですね。私たちは、神様の御心通りには生きられない。あるいは裏切ってしまうかも知れない。けれども、「神様はそんなあなたが立ち返ることを信じてくださっている。立ち返ったあともあなたの役割を用意して待ってくださる」というのが、ルカさんの大事なメッセージのように思われます。 裏切り者の食卓  主の晩餐/最後の晩餐は12人の男性の弟子たち(つまり「使徒」と呼ばれる人たち)だけがイエス様と一緒にとった食事だから、「だから聖餐は選ばれた者だけの食事だ」という主張をする人が多いです。  けれども、ルカによる福音書だけはちょっと違っていて、こんな書き方をしています。今日の聖書の箇所の前のページ、ルカの12章14節ですけれども、こう書いてあります。  「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった」(ルカ22.14)。「使徒たちも一緒だった」と書いてあるので、つまりルカさんにおいては、主の晩餐の食事は12弟子だけが招かれた食事ではなかったということですね。  しかも、12人の使徒たちは、早い話が全員裏切り者です。イエス様を直接当局に売り渡したユダはもちろん裏切り者ですけれども、ペトロだって「死んでも着いていきます」と言ったはずなのに、公衆の面前で「私はイエスなんていう人は知らん!」と言ったわけですから、裏切り者の筆頭株です。  そして、他の弟子たちも全員逃げています。ですから、裏切らなかった他の多くの弟子たちよりも責任は重いわけです。  そんな裏切り者こそがイエスの食事に招かれていたのですから、なおさらのこと、そうでない人が招かれていないなんてことがあるだろうか。イエスの食卓に招かれない人なんているだろうか……というのが、誰にでも開かれた聖餐式の根底にある考え方です。  そこを更に進めてルカさんは、「そのような裏切り者こそが、イエス様に、そして神様にリサイクルされる。立ち直ったら仲間を励ましてやりなさい」という優しいメッセージを込めてくれていると考えられるんですね。 敵を愛する神  ここで私が連想するのは、ローマの信徒への手紙の5章に書かれているパウロの手紙の言葉です。ローマの信徒への手紙の5章にはこんな言葉が書かれています。  「キリストは、私達がまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」(ローマ5.6)、「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。しかし、私達がまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(5.7-8)。あるいは、「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」とも書いています(10節)。  弱く、敬虔でもなく、罪にまみれていて、敵でさえある。そんな人間のためにキリストであるイエスが命を捨てて下さった。神に背を向けて、神を裏切って生きているような人間に、神の方から和解を申し出て下さった。神様自らが御自分の敵を愛して下さった。そういうことをパウロは書いていますが、これはペトロが体験することになった救いと同じことを言っているのではないかと思います。  ペトロがなぜ立ち戻っていったのか。それは弱く、敬虔でもなく、罪人でもある自分のために、イエスが命を捨ててまで愛を示して下さったということを悟ったからではないでしょうか。「そのような愛があるなら、その愛を信じたい!」と思う、その信じる気持ちによってペトロは救われたのではないかと思います。 変えられる期待  イエス様は、そして神様は、私たちが強い人間であり、信仰深い人間になるから救ってくださるわけではありません。私たちが弱く、不敬虔で罪深いままで、そんな私たちを愛してくださるんですね。  しかもイエス様は、私たちが立ち戻るということを信じてくださっているわけですから、私たちはいつでも自分が立ち戻りたいと思いさえすれば立ち戻ることができますし、立ち戻ったからと言って、責められたりはしないんですね。  そしてそういう愛が、私をひょっとしたら、少しずつ変えていってくれるかもしれない。私は欠けも弱さも罪も多い自分が、神様によって何らかの善い方向に少しずつでも変えてもらえたらいいのになと、ちょっと期待する気持ちも無いではありません。  私が神様を愛する前に、神様の方が先に私を愛してくださっている。迷っていても探してくださっている。そういう愛があるんだよとルカさんは知らせてくれているわけですから、それを希望の光として信じてゆきたいと思うんです。 派遣され、トライする  聖餐は、裏切り者でさえも招く神様、イエス様の愛に応えて、それを証しするような食事でありたい。  イエス様の食卓が多くの人に開かれているというのは、教会の中だけに閉じられた聖餐ではなく、私たちに与えられているパンや杯を、教会の外の人にも開かれたものとすることではないでしょうか。  それは、単に聖餐式をオープンにするだけのことではなく、聖餐式で共有された神様の愛を、教会の外にも持ち出してゆくということではないかと私は思っています。  今はコロナ禍のために礼拝堂での礼拝ができていませんが、徳島北教会の礼拝堂の正面右側には「愛される喜びを伝えたい」というモットーが刻まれたプレートがあります。「伝えたい」というのは、教会から教会の外へと発信したいということではないでしょうか。  聖餐は裏切り者の食卓です。実態としてどんなに自分の人生が神を裏切っているものであったとしても、イエス様はご自身の食卓に私たちを招いてくださるということを心に覚えたいと思います。  そして、裏切り者でさえも招かれているのだから、誰でもが招かれている。この食卓に自分以外の人も招かれている。誰でもが神様に愛されているということを伝えたいと思うのですが、いかがでしょうか。  聖餐をオープンにしているということは、どなたでもこの聖餐をお受けになることができますよ、ということに加えて、私たち自身がこの世に対して開かれた心を持って生き、神様に愛された、その愛を教会の外のこの世へと持ち出すということにも繋がっていると私は思っています。  その目標を持ってトライするために、私達は礼拝の終わりに派遣されてゆくのではないでしょうか。  神の愛は人から人への愛によって証しされ、伝えられてゆきます。ですから、私達はその神の愛の器として、欠けた茶碗、穴の空いた桶ではありますが、ほんの一滴でもその愛のしずくを携えて、この世に派遣されてゆきたい。それが、聖餐によって与えられた恵みを本当に意味でオープンにすることではないかと思います。  皆様はいかがお考えになりますでしょうか。 祈り  お祈りを致しましょう。  神様。今日は世界聖餐日を覚えて礼拝をしています。  世界中の多くのクリスチャンが、共に主イエスの晩餐をいただく日です。この聖餐によって私達は、かつては敵対していたキリスト教の諸々の群れが、元々はひとつであったということを思い起こすことができます。そして平和を作り出す思いを新たにしようとしています。  そして神様、あなたは私達があなたを裏切ったままの状態にあったときから、私達があなたを愛する前に愛してくださいました。この恵みを私達の隣人に伝えることができたらどんなに嬉しいことでしょうか。  どうか、そのようにあなたの愛をこの世の人と分かち合うことができるように、私達をこの世へと送り出してください。  この1週間を勇気を持って歩むべく、あなたの御心をもってこの世に私たちを送り出してくださいませ。  神さまは言われます。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げよ」。  イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。
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【心を一新して自分を変えていただく】ローマの信徒への手紙12章1−2節

https://youtu.be/Kjvw2CLuj_M 2021年9月19日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かしローマの信徒への手紙12章1-2節(新約聖書:新共同訳 p.291、聖書協会共同訳 p.286) 聖書の言葉(新共同訳)  こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。  あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 月曜から土曜まで  おはようございます。今日もこうしてそれぞれの場所に散らばってではありますけれども、礼拝ができることを感謝しています。こうして御顔を見ることができるのはありがたいことです。  今日はパウロによるローマの信徒への手紙から聖書をお読みしました。ここでパウロは私達に、私達が月曜日から土曜日の1週間の間、どのような生き方をするべきなのかを勧めてくれています。  ある意味それは、この世に流されない、きっぱりとした生き方と言えます。流されないということは難しいことかも知れません。けれども、それは私達が自分の心を守り、自分以外の人を守るために大切な態度でもあると思います。 生ける供え物  今日お読みした聖書の箇所を、もう一度読み直してみましょう。  「こういうわけで、兄弟たち」(ローマ12.1)とありますが、この「きょうだい」というのは、同じ教会の仲間への呼びかけなので、「兄弟姉妹」と読み替えてもいいかもしれません。新しい聖書協会共同訳ではここがひらかなの「きょうだい」になっています。なので、ここは「教会の仲間たちよ」「兄弟姉妹よ」という意味に読めばいいでしょう。  続いて、こう書いてあります。「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」  ここで「いけにえ」というのは、元々はユダヤ教の神殿で献げられる動物のことなのですが、それは当然祭壇に上げられるときには、殺されて死体として献げられているわけですよね。ところが、そうではなく、ここでは「生けるいけにえ」と言われています。  「自分の体を生けるいけにえとして献げなさい」というのは、もちろん自分が神殿の祭壇の上にのぼれと言っているのではなく、あくまでたとえですよね。  少し前の口語訳聖書(新共同訳より前、私の生まれる10年ほど前に出た日本語訳ですけれども)では、ここは「生きた、聖なる供え物」という言葉になっています。こっちの方が私達には馴染みやすいかもしれませんね。「生きた供え物」。  実はこの言葉は、私達の教会の聖餐式の式文の中でも使われておりまして、みんなでパンとぶどうジュースをいただいたあと、最後の第3の祈りの中に出てきます。  ちょっとそのあたりを一部抜粋して読んでみますね……。 「恵み深い神さま。豊かないつくしみをもって、イエスの食卓にわたしたちを招き、聖霊の助けによって聖餐にあずからせ、イエスの命を与えて下さいましたことを心から感謝いたします。  これに応えて私たちは、欠けも弱さも多い者ではありますが、あなたがそれを赦してくださると信じ、あなたが喜んでくださることを信じて、自らを生きた供え物として、み前に献げたいと望みます。」  ……というわけで、「私達は色々と欠点も弱点もありますが、そんな私達も自分を生きた供え物として、神様に献げます」という祈りを献げているんですね。  これは、礼拝の最後に行われる「派遣」とも関連があって、「欠点や弱点も色々あるけれど、こんな私でもこの世に派遣してください。私はあなたに私自身を供え物にします」ということになります。 理に適った礼拝  そして、これに続いて、「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と書いてありますが、この「なすべき礼拝」というのはよく意味がわからない翻訳になっていまして、ここは本来は「理に適った礼拝」となります。「これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です」という訳し方になります。  何が理に適った礼拝なのかというと、それは先程も言いました神殿での動物の血にまみれた儀式ですね。ああいうおどろおどろしい血と脂とそれを焼く匂いにまみれたドロドロの儀式ではなくて、もっと理性的な礼拝ですよということなんですね。  そして、先程から申し上げていることとつないで読むと、「あなた自身を生きた供え物として献げること。それが理に適った/理性的な礼拝です」ということになります。  つまり、私たちの普段の生活がそのまま礼拝なんだと言っているんですね。日々を生きること、すなわち人生のすべてが礼拝になるのだということです。 世に倣ってはいけません  続いてパウロはこのように述べています。「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。」直訳だと、「自分自身をこの世に合わせて形作ってはいけません」となります。  そして、こう続きます。「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき」。  この「自分を変えていただき」というのは、ここでは受身形で「変えていただく」になっていますけれども、ここが受身形かどうかというのは実は説が分かれていまして、「自分を変える」という風に能動態で訳す説もあるようです。自分を神様に変えていただく、あるいは自分で自分を変える。どちらにも受け取れる言葉だということです。  そして、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と続きます。 証を立てる?  ……さてと、ここまで聖書の言葉を読んで、私はなんだかこのままでは疲れてしまうな、と思いました。  字面通りに読むと、心を入れ替えて、この世の月曜から土曜までの生活の中で、まるで世の中の人たちと違う、神様に喜ばれるような立派で完全な生活をしなさいと言われているような気がします。  私が高校生のころに通っていた教会では、こういう気合の入った「おすすめ」のようなものが、声高に教えられていました。たとえば「この世に対して証を立てなさい」というように言われていました。  この世の人々に対して、自分がキリスト者であることで、こんなに人とは違う生き方をしているのだと誇れるような、立派な生き方をしなさい。それが「証を立てる」ということだというように教えられました。  また、他の教会のクリスチャンたちとの交流の中で、若いクリスチャンたちが、やたらと「この世的」という言葉を使うのを聞いてもいました。「そういう考え方はこの世的だよ」とか「この世的なものに流されてはいけないよ」とか。  私は、そういう教えや言葉に2つの相反する感情を持っていました。  1つは、「よし、自分もこの世で立派な証を立てられるように頑張ろう」、「世の中の人に『ああ、やっぱりクリスチャンというのは、ひと味違う人だな』と尊敬されるようにならないとな」と気負う気持ち。  もう1つは、どこかでそういう「この世で証を立てる」ということに嘘くさいものを感じる気持ちです。いや、というより、そのような生き方をしようとする自分自身に嘘くささを感じると言ったほうが当たっているように思います。  私はそんなに立派な人間でもないし、いつもいつも「私はクリスチャンですから、いつも喜んでいます! ハレルヤ! アーメン!」と言っていられる人間ではありません。 アーメン、ハレルヤ  もちろん、そのようにいつも「アーメン、ハレルヤ」と喜んで生きていられる人のことを頭ごなしに否定するわけではありません。そういう心持ちで毎日を生きられる人はむしろ羨ましいです。  けれども、そのように喜んで生きている人、「この世的なもの」を拒否して生きる人が、本当にこの世に対して良い証を立てていることになっているのだろうかと疑問に思うこともあります。  ある意味、信念を持って立派に生きているようであっても、自分の周りの人に共感的ではなかったり、どこか上から目線で見下していたり、あるいは信仰的には熱心でも、人のことを傷つけたり、人の尊厳を踏みにじっていても、人権を侵害していても平気で、そういう自分に全く気づかない。  あるいは、あろうことか、自分の至らなさを聖書で理由づけしたり、あるいは神が赦しているから問題ないのだと開き直ったりする人もいます。  そして逆に、信仰がなく、洗礼も受けていない人でも、寛容で、愛に満ち溢れていて、気遣いが細やかで、人格的に素晴らしいと思わずにはおれない人もたくさんいます。そして、多くの人は問題の多いクリスチャンよりも、立派なノンクリスチャンの方により魅力を感じて寄り集まってゆきます。  そうすると、クリスチャンであるということは何の意味があるのか。クリスチャンになってどんないいことがあるのか、と疑問を抱かざるを得ないような気分になることもあります。  私達は何のためにクリスチャンになるのでしょうか? この世に倣わなくていい  そんな疑問を持つなかで私は、「クリスチャンになり、この世に倣わない生き方をするというのは、この世に対して自分が立派な人間になるように見せつけるとか、ちょっと人とはひと味違う人間として評価されるという意味ではないのではないか」と思うようになりました。  むしろ、今日の聖書の箇所の「世に倣ってはなりません」という言葉は、この世のあり方についてゆけない人が、この世に合わせて自分を装ったり、飾ったりして、自分ではないような自分を作り上げるようなことはしなくもいいんだよ、という風に読んでいいのではないかと思うんです。  この世のあり方というのは、基本的には弱肉強食です。皆んなが自分は弱くない、自分は有能だ、向上心がある、成功を目指している人間の一人なのだと、自分の強さを誇ろうとする人に満ちている、そんな有様です。  そして、弱さ、悩み、嘆き、苦しみ、劣等感、失敗、敗北など。自分の人生のマイナスの部分を人前で認めることができない。そのような自分を開示することは、この世においては認めてはならないことで、恐ろしいことだという思いにとらわれてしまう。それが「この世的」ということではないでしょうか。  でも、「世に倣わない」ということは、「あなたはそんなこの世に合わせた自分を取り繕わなくて良いんだよ。ここでは、あなたがこの世に合わせて作った、自分に似合わない服、あるいはそれは鎧かもしれない。そんなものを着ている必要はないんだよ。もうこの世に倣う必要はない。自由になりなさい」と、呼びかけられているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。 本来の姿に作り変えられる  一体、何が善いことで、何が神に喜ばれることでしょうか。  これは聖書の人間観の基本中の基本ですが、聖書の一番始め、旧約聖書の創世記の天地創造の物語に、こう書いてあります。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1.31)。  神は地上のあらゆる存在を造った最後に人間を造りました。「それは極めて良かった」と神は言いました。人間は、最初から神の目から見て「極めて良い」者として造られている。もともと人間というのは良い存在なんです。  だから、自分は良い存在なのだということを信じて生きることが、神のいちばん喜ばれることに違いない。それは当たり前のことではないでしょうか……。  だから、自分はこの世に倣う必要はない。もし、この世に倣って必死に自分を作り込んでいたとしたら、そんな自分を一新して、本来の姿に作り直していただきなさい。そういうことだと思います。 心を一新して自分を作り直していただこう  更に今日の聖書の箇所には「何が完全であるかをわきまえるようにしなさい」とあります。  「完全である」とはなんでしょうか。  聖書において「完全」というのは、「全体的な」とか「満たされた」という意味があります。余分なものや欠点と思われる部分を削ぎ落として、理想的な美しい姿を作り上げるという「完璧さ」とは違います。あれこれ色々な要素全てを含んだ大きな自分であることが、神に喜ばれる「完全さ」なんですね。  「この世的」な価値観で判断すれば、自分の中でこれは要らないのではないかと思われるもの。これは自分の欠点でないかと思われるもの。たくさんあると思います。  あるいは、この世の中で生きるために、私達は自分の本来やりたくないことをやらずにおくわけにはいかず、不本意な生き方をしているのかもしれない。  そうやって、私たちはこの世に合わせる生き方をしています。  けれども、私達はこの世のあり方に異を唱えないといけないこともあるのではないでしょうか。クリスチャンとして生きることは、この世の多くの人たちよりも立派で、道徳的で、能力的にも優れた人間でなければならないという意味ではないのです。  むしろ、この世の価値観ではこぼれ落ちてゆくような、弱さ、小ささ、欠け、そして罪を抱えている人間をそのままに受け止め、疲れている人の重荷を下ろせるような教会でありたい。「疲れている者は来なさい。休ませてあげよう」と言うイエス様と一緒に生きよう、ということではないでしょうか。  「心を一新して本来のあなたに作り直してもらいなさい。」あるいは「自分で自分を作り直しなさい。そうすれば、神様はその本来のあなたを喜んでくださるはずですよと」と、そのように私は受け止めたいです。  私達はこの世に異を唱えます。それは、私達に本来のあり方を許さないこの世のあり方、価値観に対する抵抗です。  それは大切な抵抗です。私達は私達自身を守らないといけないからです。また、この世でその人の本来の姿や生き方を守られていない人に重荷を下ろしてもらえるような教会でありたいと思いませんか。  そういう意味で、「この世に倣わない生き方」を私達はするべきなのてはないでしょうか。 祈り  祈りましょう。  神様。私たちひとりひとりを御心のままにお造りくださったことを、心から感謝いたします。この世は私たちに強さ、速さを求め、成功するための力を持つことを迫って来ます。  しかし、私たちの間には色々な個性、考え方、生き方をする者がおり、またさまざまな状況に置かれた者がおります。あなたがそのように、私たちを多様な者として造ってくださいました。  あなたが造られた人間に、何ひとつ無駄なものはありません。あなたがありのままの私たちを愛し、守ってくださいますように、お願いをいたします。  この1週間を勇気を持って歩むべく、あなたの御心をもってこの世に私たちを送り出してください。  神さまは言われます。「平和のうちにこの世へと出てゆきなさい。わたしはあなたがたを世に遣わす。」アーメン。
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【わたしにも心というものがあるのだ】マルコによる福音書1章40−45節

https://youtu.be/OtcxUN1ckiA 2021年9月5日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし聖書の言葉……マルコによる福音書1章40-45節(新約聖書:新共同訳 p.63、聖書協会共同訳 p.62)   重い皮膚病/規定の病  おはようございます。今日は「わたしにも心というものがあるのだ」という題名でお話をしようとしています。「わたしにも心というものがあるのだ」と心の中で叫んでいた人の物語です。  今日読んだ聖書の箇所で、「重い皮膚病」という言葉が出てきました。この「重い皮膚病」というのが、今で言う何の病気なのかはわかっていません。  この部分は、いつか昔にもお話したことがあるかもしれませんけれども、非常に何度も翻訳がやり直しになったところで、この新共同訳聖書では「重い皮膚病」になっていますけれども、これは改訂されてから「重い皮膚病」になったんで、初版では「らい病」になっていたんですね。  「らい病」というのは、日本ではハンセン病の蔑称(差別的な呼び方)ですけれども、ここを「らい病」と訳していたのは、これは明治時代からそうで、これはハンセン病であるとは特定できないのに、ハンセン病のことだ(らいのことだ)と誤解されて、誤解されたまま今からおよそ30年前、1988年の新共同訳まで来ていたんですね  けれども、その後、1996年に「らい予防法」という法律が廃止されたとき、その時からもう日本では「らい」とか「らい病」という不快語はやめようと。「ハンセン病」という呼び名に統一しようということになりまして、その年に出た新共同訳の第2版から、この聖書の箇所は「重い皮膚病」になったわけです。  でも、ハンセン病というのは日本では長いこと「強制隔離しなければならん」という偏見から、山奥や橋のかかっていない島に作られた療養所に強制的に収容されて、殺されたりはしませんでしたが、強制的に断種手術(子どもができないようにする手術)を施されたり、死ぬまで出られないという絶滅収容所のような扱いをされてきたわけですね。  特効薬が発見されて、「隔離しなくても通院で治せますよ」ということに国際社会がなっていったのに、その後も50年以上「らい予防法」で強制収容し続けるという政策を取り続けたんですね。  それで、「これは重大な人権侵害じゃないか」、「憲法違反じゃないのか」ということで、「らい予防法」が廃止された2年後から国家賠償を求める訴訟が起こされまして、その3年後に国は負けています。 ツァラアト  そういう出来事の起こっている中で、聖書が長いこと、ここを「らい病」と訳してきたこと。ハンセン病ではない病気を「らい」と呼んで誤解を招いてきたことの罪は重いだろうと。そして、それを「重い皮膚病」と変えたところで、その罪をちゃんと悔い改めたことになるのかという問題提起がなされてきました。  そもそもこの単語は「ツァラアト」というヘブライ語なんですけれども、「ツァラアト」というのは、別に皮膚の変化だけではなく、壁のシミや革製品の表面の変化にも使われる言葉です。それを、古代のユダヤ人は「汚(けが)れている」、つまり神から離れた証拠だという風に考えたんですね。そして、「汚れているからこれは『らい病』だ」と差別的な考え方のまま訳してきたという問題があるわけです。  でも、ハンセン病は汚れた病気でもないし、皮膚病でもないし、「重い皮膚病」ではその誤解が解けるとも思えないので、「ツァラアト」という言葉をカタカナで書けばいいじゃないかということで、よく福音派の方では使われている新改訳聖書の2017年版では「ツァラアト」になっています。  ちなみに、3年前に出た最新の聖書教会共同訳では、ここは「規定の病」という言葉になっています。これは、ヘブライ語聖書(旧約聖書)の方に汚れたものとして「規定されている病気」という意味で、そう書くことにしたというだけのことなので、これも問題の解決になっているとは言えないんですね。  それで、聖書学者の間では、これはこれまでの差別の歴史をあえて隠さずに痛みとして覚えるという意味で、そして実際、イエス様の時代にはそうやって汚れた者として虐待を受けていたという事実も踏まえて、あえて「汚れ病」という訳し方をしてもいいんじゃないかという考えを唱えられている方もいらっしゃいます。  要するに、ここの聖書の箇所で、ひとつ私達が認識しておかないといけないことは何かというと、特定の病気を患った人を、「汚れている」と言って差別する風習が、古代のユダヤにはあったということ。それがここの物語では書かれているんだということ。  そしてそれは、古代の人々の風習というふうに片付けるわけにはいかない。特定の病の人を、まるでその人が汚いものみたいにとか、罪を犯したみたいにいじめたり、差別したりする。それは今でも私達の社会の中で、コロナ禍の中で続いている。現在の問題でもあるでしょ、ということです。そういう前提でこの物語を読まないといけないんだよということ、前提として申し上げたいと思います。 ツァラアトの男、イエスと出会う  さて、このツァラアトという、よくわからない病気を患った人は、汚れてしまった人間だと見なされていました。汚れた人間に近づくと、その汚れが移るとされて、非常に恐れられて、忌み嫌われて、町や村から追放されました。そして、町外れの寂しいところで野宿をするとか、あるいはどこかに洞穴があったら、そこで雨露をしのぐとか、そういう境遇に追いやられていたんですね。  しかし、そのままでは死んでしまうので、何らかの形で食べ物を手に入れないといけません。そこで、町や村に戻って物乞いをしないといけなくなります。「哀れなツァラアトの者でございます」と言って、何か食べ物をもらえないかとお願いして回らないといけません。  そして、不用意に人に近づくと恐れられて逃げられたり、石を投げつけられたりする可能性がありますので、自分から「私は汚れた者です! 私は汚れた者です! どうか近づかないでください! けれども何か食べ物を恵んでください!」と叫びながら歩いてゆかなくてはならないという有様だったんですね。  ところがそこにイエス様一行が通りかかります。 ツァラアトの患者への扱い  行く先々で病気や障がいを治してゆくイエス様の噂は、このツァラアトを患った人にも聞こえていたようですね。特に、治るはずのない病気を直すことが出来る人が現れたそうだという噂だったら、当然敏感になってもおかしくないです。  そして、いざイエス様一行が町に入られた時に、この人は人の目もはばからずにイエス様の所に出て来て、ひざまずいて、「お望みならば、私を清くすることがおできになります!」と言ったんですね。  この時のこの人の気持ちはどういうものだったでしょうか。  この人は、周囲の人にとっては、ただの汚れた人間、ただの呪われた存在であって、それ以上でも以下でもない奴。できれば関わりたくないし、どちらかと言えば世の中から消えて欲しいと思うような存在。そういう扱いです。  先程、このツァラアトというのはハンセン病ではありませんと言いましたが、このツァラアトにかかった人の扱われ方は、ハンセン病の患者の扱われ方と同じです。通常の人間社会で生きることは許されず、強制的に排除され、誰の目にも触れない所に押し込められる。そういう扱われ方をされます。  この人にも家族があったかもしれませんし、仕事もあったかもしれません。病気になる前は人間的な生活をしていたかもしれません。しかし、そういう生活から一気に強制的に引き剥がされて、人の住むところから追い出され、その上、人間ではない化け物であるかのような扱いを受けるわけです。 光明園家族教会  私、学生時代からしばらく、そして今の学校に就職してからもボランティアの生徒らと一緒に、岡山県の牛窓の近くにあります、長島という島の邑久光明園というハンセン病療養所に通っていたことがあります。  今は新しく発病する人はいませんし、「らい予防法」も廃止されたので、療養所に入ってくる人はもういませんから、超高齢化していて、天国に召される人が出るたびに人数が減っていき、もう数えるほどしか入園者の方はいらっしゃいません。  けれども、私の学生時代というと30年ほど前なので、まだ元気な入園者の方もたくさんおられました。そして、ワークキャンプをして、入園者の方々と一緒になって園内の道路の補修工事とか、花壇づくりなどをして汗を流したり、園内の教会で礼拝をしたり、強制隔離の時代のお話を聴いたりしていました。  園内には寺町という一角がありまして、いくつかの種類の宗教の集会所みたいな家が並んでいる所がありました。といいますのは、この療養所に入れられる人は、もう生きて療養所から出ることはできないわけです。  しかも、まだ特効薬が無い頃は「らい」にかかったら数年以内に死ぬとされていたので、まずはお葬式のための宗教を選ばされるというんですね。そして、この園から出るのは、死んだ時に火葬場で焼かれて、煙になって初めてここから出られるんやと。そんな風におっしゃっていました。  それで、寺町には、浄土真宗、真言宗などから金光教まで、「お寺」というような立派なものではなくて、ただの平屋の家のような集会所がいくつか並んでいるんですね。そしてその寺町の中心に納骨堂があります。納骨堂の周りを集会所が囲んでいるような、そんな場所です。  そして、キリスト教の教会は、その寺町にも入れてもらえないで、全く寺町とは反対の場所にある、療養所の一角の丘の上にありました。「光明園家族教会」という教会でした。  療養所に入れられる時に、「何教がいい? 好きなのを選べ」と聞かれて、「ああ、特に何でもいいし、じゃあキリスト教にでもしとこうかな」と適当に言ってみたのがきっかけでそのまま教会に通うようになった。そのまま教会に通っている間に信仰を持つようになった。そんな人が何人もいらっしゃいました。  でも、私が出会った信徒さんは、みんな熱い熱い祈りを捧げる、とうてい私なんか足元にも及ばないような、熱心な信仰の持ち主の方ばかりでしたね。 「心」さん  その光明園で出会った人に「心さん」とおっしゃる方がいらっしゃいました。「なになに・心」という名前で、苗字は伏せておきますけれども、とにかく下の名前が「心」という方です。  本名ではありません。療養所に連れて来られた時に、名前を捨てた人がたくさんおられるのですね。家族がいた人は特に、名前から家族の身元が割れたら、その家族も差別される。住んでいるところでいじめられたり、避けられたり、石を投げられたりする。家族に迷惑はかけられないということで、名前を変える人がたくさんいるわけです。  じゃあ、どういう名前にするかというと、ほとんどの人は適当です。たとえば、徳島出身だから「島徳」という名前にしとこうか、とかそういった具合です。それで、先程の人も、架空の苗字と下の名前は「心」にしたそうです。  「他にも『心』という名前の人は何人もおるよ。やっぱり心は大事やからな」とおっしゃっていました。  その人は笑いながら言ってましたけれども、そこに至るまで、どれほど泣いてきたかなと思うんですね。その時でも笑いながらも心の中では泣いていたかもしれません。  本来なら、「らい予防法」も廃止され、病気も完全に治って、いつでも一般社会に戻っていいんですけれども、もう家族にも親戚にも縁を切られて、戻ってきてほしくないと言われて戻れず、園内で死ぬしかない。そういう扱いを国家ぐるみでやられていた。人間として扱われてこなかった。  しかし、「私にも心というものがあるのだ」と。その「心さん」の名前からそのような思いを私は読み取りました。 私にも心というものがあるのだ  聖書の話に戻りますと、このツァラアトの患者の人が目の前にひざまずくのを見て、イエス様は「深く憐れんだ」と書いてあります(マルコ1.41)。これは皆さんここで何度もお話しているので、ご存知の方も多いと思いますが、「断腸の思い」です。内臓がちぎれるような思いという意味ですね。  いくつかの英語訳の聖書では、この「深く憐れんだ」という所に「compassion」という言葉を使っています。「passion」というのは「受難」という意味があります。イエス様の十字架の受難も「パッション」と言います。「com」というのは「一緒に」という意味がありますので、「compassion」というのは「一緒に受難する」、「一緒に苦しむ」という意味になります。  「一緒に苦しむ」というのは、例えばドイツ語でも「Mitleide」という言葉もありましたよね? 「mit」は「一緒に」で、「Leide」というのは「苦しみ」です。これも一緒に苦しむことを指します。  日本語ではこれにあたる単語がありません。だから「憐れみ」とか「共感」と訳されることが多いです。そこでキリスト教会の中では、あえて言うならば「共苦」という言葉が慣習的に使われる場合もあります。  イエス様がここで「深く憐れんだ」というのは、実は「一緒に苦しんだ」ということです。  「誰もが私のことを呪われた存在として忌み嫌って追い返す。しかし、私も人間だ。私にも心というものがあるのだ」と心の中で叫んでいるこの人の苦しみに、イエス様ご自身も寄り添って一緒に苦しんだ。そしてこの「汚れ病」の人の体に素手で触れたということです。 後先のことは考えず  イエス様が触れた結果、病は去りました。しかし、イエス様は不思議なことを言います。「誰にも何も言うな」というんですね。ギリシア語の原文を読んでも「誰にも、何も」と同じ語源の単語で繰り返して強調されています。なんでイエス様は「誰にも何も言うな」と言ったんでしょうか。  けれども、この癒やされた人は出て行って「大いにこの出来事を触れ回った」そうです。この「触れ回る」という言葉は「宣教する」という意味でも使われる言葉です。逆に言うと、私達がイエス様のことを宣教するというのは、イエス様のことを「言いふらす」ことなんですね。  そして、イエス様はこの人が宣教した結果、公然とは町には入れなくなってしまって、外の寂しい所にいるしかなくなったと書いてあります。  これ、多分このツァラアトの人と関わったおかげで、イエス様自身が町から追い出されて入れなくなってしまったということなんではないでしょうか。  「誰にも何も言うな」と言ったのは、イエス様自身が町に入れなくなったら困るから、「なあ、おまえさん、わしが町に入れなくなったら困るから、このことは誰にも言うなよ」ということだったのではないでしょうか。  ということは、イエス様にとっても、この「汚れ病」の人に触れてしまったというのは、「私も町に入れなくなるかもなぁ。わしも汚れが移ったと言われるかもなぁ」と後先のことを考えるよりも前に、思わず触れてしまった。そして、「おまえさんに治ってほしいんじゃ!」と言ってしまったということではないかと思います。  そして後になってから、「あんなことをしてしまったけど、誰にも言うなよ」と付け加えたわけですね。 このような愛で愛されている  イエス様というのは、そういう人の苦しみに直面した時、後先も考えずパッと行動してしまう人だったんじゃないか。自分のことも忘れて、「あ! この人を見捨てたらあかん!」と直感した瞬間にその共感・共苦の感情で動いてしまう直情的な人だったんじゃないか。あれこれ考えるより前に、勢いで動いてしまう人だったんじゃないか。  それがイエス様の愛し方だったのではないかと思います。  このような愛で、イエス様は生前人を愛し、救われたし、今も私達が苦しみのさなかにある時に、矢も盾もたまらず、思わず手を差し伸べて、一緒に苦しんでくださる。  絶対に苦しむ人を一人ぼっちにはしない。自分のことなどほっといてでも、私に触れてくださる。そういう愛で、私達は愛されているのだということを、信じたいのであります。
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【混乱があって当たり前で一緒に生きてゆく】創世記3章1−7節

2021年8月22日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし聖書の言葉……創世記3章1-7節(新約聖書:新共同訳 p.3-4、聖書協会共同訳 p.3) https://youtu.be/6m0aIw8y-Xc 善悪の知識の木  おはようございます。  今日は「混乱があって当たり前で一緒に生きてゆく」というタイトルでお話をしようとしていますが、最初は「善悪の知識がどんなに危ないか」というタイトルも考えていたんですよね。ですから「善悪の知識がどんなに危ないか」という副題があるんだよということでお聞きいただければありがたいなと思います。  今日お読みした聖書の創世記3章1節からの箇所は、いわゆるキリスト教用語で言う所の「堕罪物語」というやつですね。「堕罪」すなわち「罪に堕ちる」、「堕落する」、人間が罪に堕ちるという場面です。  神様との約束を破ってしまいますよね。この創世記の2章の16節で神様が「園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言います。それを人間たちは破ってしまうんですね。  蛇はズルい問いかけをします。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか?」と聞いてきます(創世記3.1)。女は(まだエバという名前はついてません。聖書には「女」とだけ書かれていますよね)「園の中央にある木は食べてはいけないんです」と言います(3.3)。  神様は園の中央に、「命の木」と「善悪の知識の木」の2つを生えさせていた。でも「善悪の知識の木」からは取って食べたらあかんよと言っていたわけです。ところが、女は「園の中央にある木はどっちも食べんとこう」と自分に言い聞かせていたんですね。こういうの分かる気がしませんか? 私なんかこういうところあります。何がOKで何がNGかわからない場合は、両方ともNGにしとこう。そうすればややこしいことを考えなくて済むなという判断をしてしまうときがあります。女はそれをやったんですね。こういう発想は分かる気がします。  続いて女は「取って食べてはいけないんです。触れてもいけないんです。死んではいけないからと言われました」と言います(3.3)。これもさっきと同じ発想ですよね。「触れてもいけない」とは神様は言ってません。けれども、もう近づかんほうがいいと思ったこの女は、「触れてもあかんことにしておこう」と考えて、近づかないようにしていたんですね。こうすることで余計なことを考えなくてもいいわけです。余計なことを考えるというコスト(時間と労力)を削減して、楽に生きる道を選んでいたわけで、これはこれなりにライフスタイルとしては間違っていないと言えるのではないかと思います。  ところが蛇は言うんですね。「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者になれるんだぞ」と(3.4-5)。  「決して死ぬことはない」と蛇は言います。そして、2人は食べてしまいます。実際食べた時は死にませんでしたよね。神様は嘘を言ってたのか。確かに食べた時に白雪姫の毒りんごみたいにすぐ死んだりはしなかったんですが、この善悪の知識を身に着けたことで、人間はさっそくこの男女の次の世代、カインとアベルの間で兄弟殺しを始めますよね。  本来だったら一番仲が良くあってほしいはずの兄弟、一番身近な存在が、どっちが善いどっちが悪いという判断で相手に嫉妬して、相手の存在を否定しないと自分が肯定できないという心理に陥って、相手を殺してしまうということをやってしまっていますよね(創世記4.1-16)。  そういう意味では、「善悪を知る者になることで、死を招くことになる。殺し合いに手を染めることになるんだよ」ということで、神様の言ったとおりになるわけです。 人を不幸にする発想  「善悪を決めるということは神の領域の事柄なんだよ」ということが、この物語のメッセージですね。何が善いか、何が悪いか、それを決める絶対的な基準は人間は持っていない。人間にはそれを決めることはできない。それは人間の領分を超えている。何が善いことで何が悪いことなのかを、「あれかこれか」の二分法で決めること。それを決める権利を自分が持っていると思うことほど危険なことはないんですよということを、この物語は訴えているんですね。  「善と悪を決める」というのは、「どちらかを承認し、どちらかを承認しない」という二者択一の発想です。片方を承認すれば、もう片方を承認しないことになるという二分法です。これが本当に良くないんですね。  何か善で何が悪か。こういうことを絶対的に決めようとすると、ともすれば人間は「自分が善で他人は悪」という発想に陥りがちです。 あるいは「私が正しい。だからお前は間違っている」という思考法に陥る場合が多いです。世の中の争い、個々人の争い事、民族と民族、国と国の争いも須くそういう思考法で起こっているのではないでしょうか。  だいたい自分が正しいと主張しないと、とんでもない損害を被ったり、下手をすると殺されかねなかったりするのが往々にして今の世の中の仕組みになっています。「私が善である」、「私が正しい」と言い続けないと負けてしまう。生きてゆけなくなっているわけです。  あるいはこの思考法は、「私は善ではない」、「私は間違っているのだろう」と、自己否定の方向に自分を落とし込んでゆく可能性も持っています。実際、最初の女性と男性が善悪の知識の実を食べて最初にしたことが、自分が裸であることに気づいて体を隠すことだったと書かれていることはとても示唆的ではないかと思います。  2人が善悪を判断する知恵を手に入れた瞬間やったことは、自分のあるがままの姿を否定することだったんですね。自分をあるがままで受け容れられなくなった。自分を裁くことから始めてしまったんですね。  そうやって私達は、他人を裁くことで自己肯定したり、自分をも裁くことで、自らを生きづらいところへと追い込んでしまうこともあるわけです。  あの人間は善い。この人間は善くない。あるいは、自分の感情や行動は善いのか、悪いのか。そういう二者択一の発想が人間を互いに争わせ、優越感と劣等感の間で人の精神を不安定にさせ、人間を不幸にしているんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。 善悪の判断が人の命を奪う  つい先ごろ、8月7日のことですが、ある有名なYouTuberが、「ホームレスの命はどうでもいい」、「ホームレスは生きていても意味がない」、「消えてしまえばいい」、「生活保護を受ける人のために税金を納めているわけではない」といった発言を繰り返す動画を放映し、大問題になりました。大変人気のあるYouTuberの方だったようですが、さすがに批判が殺到し、あわてて謝罪の動画も出しましたが、反響は収まっていません。  この人はこの反響に驚いたのか、北九州で生活困窮者の支援をしているNPO法人「抱樸」の理事長で、東八幡キリスト教会牧師の奥田知志さんとコンタクトを取ったそうで、奥田先生が「抱樸」のサイトに出された文章によれば、この人に根本から生活困窮者の現状と社会の問題について学び直してもらうとおっしゃっておられます。  けれども、このYouTuberがこのような発言をするのは、そういう発言をすれば支持してくれる人もたくさんいるだろうと踏んでいるからでしょうし、どこかで「ホームレスなんか消えてなくなればいい」、「あいつらのために税金を払っているわけじゃないんだ」と本音では思っている人も視聴者の中にはじっさい結構たくさんいるということではないかと思います。  このYouTuber、そして彼を支持する人びとの、その根本的な間違いは、富の再分配ということが全くわかってないということがひとつ。そしてもうひとつは、今日のこの説き明かしのお話に関連して言うと、人の存在の意味、命の価値を、自分が選別したり判断できると思っているところではないかと思います。  自分の存在は肯定できる。自分がお気に入りの存在も肯定する。その存在は言うなれば善である。しかし、自分がお気に入りでない存在には意味がない。そんな存在の命はどうだっていい。むしろ死んでもらっても一向にかまわない。それらの存在は言うなれば悪である。そういう判断が自分にはできると思っているところに大きな罪があると思うんですね。  そして、どんな人間の存在が善で、どんな人間の存在が悪であるかを判断するというのは、人の生死を左右するような話になってくるわけです。たとえばあのYouTuberの発言で、「やっぱりホームレスは死んでもいいような存在なんだ」という本音を後押しされて、ホームレスに暴力を振るったり、殺したりする人が増えることが考えられます。人の存在に優劣があるという発想を広げることが、人の命を奪うことにつながるわけです。 人の命を奪う発想がもてはやされる時代  これはホームレスに限った話ではありません。コロナ禍においても「命の選別」ということが普通に話題に上がるようになりました。  昨年には、イタリアの70代の親父が若者に人工呼吸器を譲って死んだというニュースが美談のように流されて、これが実はフェイクだったということが後からわかったということもありました。これも、事実の報道ということではなくて、「高齢者の命は軽いのだ」というメッセージが意図的にマスコミによって流されている例です。  「トリアージ」という言葉がよく聞かれるようになりましたが、この言葉が本来の意味を離れて、「生きてもいい命と生きなくてもいい命を選別する」という間違った意味で使う人がいます。「トリアージ」というのは、本来は「重症の患者から優先的に診る」という選別の基準だったはずなんですね。「早く手当をしなければ助からない。それは患者の年齢や身分などに関係ない」というのが本来の意味です。  それが、いつの間にか「生きる価値がある命は生かして、生きる価値のない命は見捨てる選別」という方向でこの言葉を使う人が出てきた。「若者はこれからがあるから生かしていかないといけないが、年寄りはもう先が短いから死なせてもよい」という発想につながったり、「国会議員などの地位のある人は優先的に検査を受けたり、入院もできるし、治療を受けたりもできるけれども、庶民は自宅療養で苦しんでいてください」という現実に如実に顕れてきています。  善悪の判断を人間がするというのは、突き詰めればそのように人の存在や命の重さを人が判断するというとんでもない状況へと人間を追い詰めてゆくことにつながる。それが「罪」なんだと、聖書の言葉は洞察しているわけなんですね。 善悪の知識を捨てる訓練  私達は聖書を読み、教会に生きる者として、このような罪の状況に対して、どのように向き合ってゆくべきなんでしょうか。  私は、少なくとも人間に対して「誰が善であり、誰が悪なのか」、「私は善なのか、悪なのか」といった発想は捨てないといけないというということ。「誰が善で、誰が善ではない。何が善であり、何が善ではないという判断はしない」。この姿勢は徹底していなければいけないのではないかと思います。  私達はそのためのトレーニング、エクササイズを毎週やっていると思うんです。私達は礼拝の中の分かち合いにおいても、あるいは「こころの会」においても、互いに相手の言ったことを絶対に裁きません。ただ耳を傾け合い、自分とは違う人の言葉に触発された自分の思いを話し、お互いに自分の中に起こる変化に気づいてゆき、その変化を味わっています。  それは、多少大げさかもしれませんが、自分も大事、人も大事、決して互いの存在、ひいてはお互いの命を決して否定しないということを表していると思っています。 I’m OK, You’re OK.  私が神学生時代にある牧師から教えてもらったことに「I’m OK, You’re OK」という言葉があります。どうということのない簡単な言葉ですが、この言葉の精神が結構大事だと思うんですね。「私もオーケー、あなたもオーケー」。  もちろん、そうやって互いの違いをそのままに受け入れ合うということは、時として混乱を招いたり、忍耐を要求されたり、葛藤を生むこともあると思います。  それでもその混乱や忍耐や葛藤をできる限り引き受けてゆくということも、私達には必要なことなんじゃないかと思うんですね。混乱や忍耐や葛藤を抱えながら、一緒に生きてゆくというのが教会というものではないでしょうか。  「そういうことでは何でもありになってしまう。それではいけないのだ」と、ことさらに「一致」ということを求める教会、そういう風に言う牧師も広いキリスト教会の中には一定数います。  けれども、私は一致することがキリスト教会の第一目的だとは思わないんです。一致することよりも「一致できない者が一緒にいる」ということの方がはるかに大事です。そもそも人間がお互いに完全に一致できるというのは幻想じゃないでしょうか。  けれども、お互いに違いすぎるほどの人間が、お互いを受け入れ合い、そういうことを通して自分をも受け入れて生きてゆくためのトレーニングを教会では毎週やっていると思うんですね。  私達はそういった、誰に対しても「I’m OK. You’re OK. だからどうぞここにいらっしゃい。ここなら誰もあなたの善悪を裁きません。あなたのありのままを開いて下さって大丈夫ですよ」と呼びかけることのできる教会でありたいと思うんです。  そして、私達の礼拝では、締めくくりに「派遣」というプログラムがあり、それによって、それが教会から派遣されてこの世に送り出されてゆくわけですが、それはこの教会で養われた、この「I’m OK, You’re OK」の精神を、送り出されていったこの世においても発揮してゆく。そうすることで、「誰もが生きるに値する」と思える世の中を作るために、自分にできることをする。それが私達の奉仕になり、証になるのではないでしょうか。  善悪の知識をあえて捨てる。人の存在や命を、善か悪かでは決して判断しない。それが誰をも切り捨てない世の中を作ることにつながってゆく。そうすることによって私達は世に仕えてゆくことができる。そんな姿勢で生きてゆきたいというのが、私の願いです。  皆様はいかにお考えになりますでしょうか。
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【苦しい時の神頼みでええじゃないか】マタイによる福音書6章5−6節

https://youtu.be/sJrvnAH7uqQ 2021年8月15日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし ▼聖書の言葉……マタイによる福音書6章5-6節(新約聖書:新共同訳 p.9、聖書協会共同訳 p.9) ▼祈りの時間、場所、姿勢  おはようございます。今日は「祈り」についてのお話をしようと思います。祈りと言っても、一人で祈りを献げる場合もあれば、教会などで他の人と一緒に祈ったりする場合もあるわけですが、今日は祈りでする祈りについてお話してみたいと思います。  みなさん、普段から神様にお祈りを捧げていますか? 毎朝お祈りをするとか、寝る前にお祈りをするとか。定期的にお祈りをする習慣にしている方もおられるのではないかと思います。それはすごく大切なこと、良いことですよね。  毎日決めた時間に祈る人というのは、たとえば朝のウォーキングとか筋トレやスイミングのように、良い習慣を身につけている人のようですね。祈りというのは、信仰のエクササイズのようなものだと思います。  じゃあ私自身はどうしているかといいますとですね、私は実はそういう規則正しいことをするのが得意な方ではありません。ウォーキングも筋トレもエクササイズも苦手な方です。どちらかというと、「はっ、祈ろう」と思ったときに祈るタイプです。  ですから、寝そべっている時とか、車を運転しているときとか、列車に乗っている時とか、歩いている時、あるいはぼーっとしている時などに、「はっ、あの人のために祈ろう」と思って突然祈る、ということが多いんですね。  こんなんでいいのだろうか? と思ってですね、分厚いキリスト教関係の辞典などで「祈り」といった項目を調べてみたりするとですね、「あらゆる時間が祈りの時となり得る」(いのちのことば社『新キリスト教辞典』1991、p.67)と書いてあったり、場所については「庭でも、客間でも、寝室でも、道でも、森の中でも、ショーウィンドーの前でも」(同上)と書いてありますし、祈りの姿勢についても「歩きながらでも、寝たままでも、どんな姿勢でも祈ることはできるし、祈ることが勧められている」(同上)ともあったりするんですね。  ですから、私のような「無手勝流」と言いますか、そういう型にはまらない、寝込んでても、運転しながらでも「神様~」と祈るのも、これはこれでええんとちゃうかと改めて思ったりしました。 ▼人に見られていても  今日の聖書の箇所には、「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」と書いてありましたね(マタイ6.5)。こういう聖書の箇所を読むと、牧師などはドキッとしてしまう人もいるんじゃないかと思うんですね。  だいたい牧師というのは、人前で祈ることが多いでしょう? 教会ではもちろんのこと、私の場合は職場もキリスト教の学校なので、もう毎日にように人前で祈るんですね。そうなると、人が自分の祈りを聞いている。自分の祈っている様子を見ているということを意識しないわけにはいきません。学校なんて「目を閉じてください」といちいち言いますけれども、それでもどうせ多くの生徒さんは目なんか閉じてないですから、自分の祈る姿を見ている人も結構いるんですね。  そうなると、今日の聖書の箇所のように「人に見てもらおうとして」目立つところで祈っているというのは、俺のことじゃないかと、ちょっと心に引っかかったりしないわけではないです。だから、まあ「人に見せるためにするような祈り方はなるべくやめとこう」と思うんですね。  けれども、それ以上あまりこの聖書の言葉を読んで自分のことを恥じたり、葛藤を覚えたりということはありません。それはなぜかと言うと、私は祈りが下手だからです。 ▼下手くそな祈り  私は人前で、人にほめてもらえるような立派な言葉がすらすら出てくる人間ではありません。世の中の牧師の中には、本当に上手に、説教も原稿なし、祈りも原稿なしで、それこそ「聖霊が降りてきました」と言わんばかりに見事な言葉がスラスラと出てくる人がいます。けれども、私にはそういう賜物はありません。そういう聴き応えのあるような言葉がサッとアドリブでは出てこないんです。  だから、私はたとえばこうしてお話している説き明かしの原稿などは、できるかぎり完全原稿を書きます。アドリブというのは、たまーにはありますけれども、あまりありません。けれども、お祈りだけはアドリブでやります。  いや、実は完全に全てのお祈りをアドリブでやるわけではありません。実は、学校の教員会議の始まりの時のお祈りだけは原稿を書いています。これは、なぜでしょうかね。学校の先生達の前では、何か間違ったことができない、細かい不手際も許されないという緊張が強いからでしょうか。1分間くらいの短い祈りでもスマホに原稿を書いていて、それを見ながらお祈りしています。  それ以外のお祈りは、個人の祈りはもちろんですが、教会のようなオープンな場でのお祈りは全部アドリブです。説き明かしは原稿がありますけれども、祈りには原稿がありません。アドリブが下手くそな人間がいきなり「祈りましょう」と言って、頭が真っ白なところから始めます。  ですから、そんなに格好のいい言葉がスラスラで出てきません。むしろいい言葉が見つからなくて、困りながら祈っています。皆さんも私が祈るのを聞きながら、「ああ、富田さん言葉が見つからなくって困っているな」とか「あんまり上手じゃないなあ」と感じることもあるんじゃないかと思います。  けれども、実は私はそれが自分のいいところじゃないかと、ちょっと思っているところもありまして。それはなぜかというと、余裕のないギリギリのところでやっているので、飾ることができないというか、嘘が言えないんですね。かっこいい言葉が言えません。本心しか言えません。  新約聖書のローマの信徒への手紙には、「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです」と書いてありますので(ローマ8.26)、そんな上手な言葉でなくていいと。だから、言葉を飾る余裕もない状態で、できることをせいいっぱいやってます。  私のアドリブの祈りは本当に行きあたりばったりの、ボキャブラリー貧困な祈りなのですが、「こんな祈りでもいいんですよ」と。「神は言葉にならない思いまで、ちゃんと執り成してくださるんですからね」と、逆に私は人に見てもらいたいような気持ちでやっています。もちろん自分が安心できると思う人の前でだけですけどね。  言葉の無さは恥ずかしいのですが、嘘のない真剣な祈りであるということだけは自信を持っているので、あまり人前で祈るということが嫌ではないわけです。「下手の横好き」というやつですね。  もっとも、「それは違う。たとえ小さな祈りであっても前もってしっかりと準備しなければ、神様にも人様にも失礼だ」というご意見もあろうかとは思うので、私の考え方が絶対だとは申しませんけれども、まあこれが私流のやり方というわけです。 ▼たった独りの裸の祈り  ところがですね。今日の聖書の箇所には、こう書いてあります。  「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と(マタイ6.6)。  この「奥まった部屋」という言葉は、もともと「執事」とか「管理人」という意味の言葉から作られた言葉らしいんですね。執事とか管理人というのは、主人のお金を保管したり管理したりするので、建物の一番奥の安全なところに部屋を作ると。それで、これは建物中の一番奥まった部屋を意味しているんですね。   まあ自分の家に自分個人の部屋がない人もいるかもしれませんけれども、この聖句は「奥まった自分の部屋」じゃなくて、「自分の一番奥まった部屋」と読めるんです。だからまあ住んでいる所の中に「自分の部屋」がない人でも、「自分の家の中の一番奥まった部屋」であればいいわけで、それはひょっとしたらトイレでもいいわけです。要は、「他の誰にも見られていない、自分独りだけになれる空間で祈りなさい」ということですね。他の人に一切見聞きされないところで祈りなさいということです。  なぜそこまでして、独りの祈り、孤独な祈りが大事とされるのでしょうか。  それはおそらく、誰にも見聞きされていない所で、完全に独りになって祈る祈りが、一番その人の正直な姿が出るところだからでしょうね。その人の本当の姿、本心、本音が出る。  たとえ、口先で言葉を飾っても、あるいは人のためにちょっとはいいことをお願いするべきかなと思って本心とは違うことを祈ってみたりしても、「言葉にならない呻き」まで神様はご存知なんですから、意味がないわけです。  そういうのが偽善というものなんでしょうね。独りぼっちの祈りには偽善というものが意味を持ちません。神様の前には裸の心しかありません。全部見抜かれているんです。自分という1人の人間の真実が神様の前に明らかにされる瞬間です。  では、その自分という1人の人間の嘘も隠し事もない所で、私達は何を祈るのでしょうか。 ▼一人称単数形の祈り  何を祈るのか。もちろんそれは人それぞれ自由に何でも神様に話しかければいいんです。  これについても辞典で調べてみると、祈りにはこんな風に内容的に種類があるそうです。  例えば、まず賛美の祈り(神様の素晴らしさを賛美する、称える祈りですね)。それから感謝の祈り、罪の告白の祈り(ありのままの自分の問題を告白し、赦しを願う祈りですね)。それから願いの祈り、そして執り成しの祈り(つまり、自分のためにではなく他の人のために神様にお願いをする)。最後に導きを求める祈り(何かの決断を迫られた時に、神様のみ心に添う選択ができますようにとお願いするのが、この祈りですね)(前出『新キリスト教辞典』p.67)。まあ、あえて分類すればこんな風に色々ありますということでしょう。  先程私は教会でお祈りするのは好きです、と言いましたけれども、教会でするお祈りというのは、圧倒的に他の人のためのお祈りが多いんですね。それは、今さっき紹介した中で言うと、「とりなしの祈り」です。  あるいは一人称でも複数形の祈りですね、「私達」と。一人称複数形か三人称の祈りばかりで、一人称単数形の祈り、つまり「私は」「私に」「私を」という祈りは、教会のような集まりで祈ることは基本的にはありません。これは牧師でなくても、人が集まっている所で代表して祈る場合は、皆んなそうだと思います。  これがですね。実は私の場合、かなりおろそかになってしまいがちなんですね。教会で人のためにお祈りをするのは好きなんですよ。でも、実は案外自分のことになると、祈りがおろそかになります。「まあ自分はいいかな」とかね、「自分のことは今のところなんとかなっているし、このままなんとかなるだろう」なんて、いい加減に考えてしまったりすることがよくあるんです。  そして、時折、急にあることについて心配事に取り憑かれて極度の不安に悩まされたり、突然恐怖に叩き落されるような事件が起きたり、希望を見失ってすっかり落ち込んでしまったり、もうほとほと弱ってしまって自分は死んでしまった方がいいんじゃないかと落ち込んでしまったりする時も、ないわけではありません。そういう時、祈らずにはおれない気持ちになって、急に自分のために色々とお願い事をしてしまったりします。  こういうのを、いわゆる「苦しい時の神頼み」と言うんですよね。 ▼どこでも、何度でも、ダラダラと  けれども、「祈らずにはおれない!」という思い、否が応でも「私を助けてください」という祈りですから、カッコをつけたり言葉を飾ったりしている余裕はありません。素っ裸の心で祈るしか無いわけです。これ以上の真実の祈りはありません。  必死に「助けてください」と祈る。しかし、1回簡単に祈ったからといって、すぐに自分の恐怖や不安が簡単に去るわけではないので、「まだあかん」と思う度にまた祈る。とにかく何度も真剣に祈る。  祈っているうちに、実は何も問題は解決していないのだけれども、自分のために必死に祈るということ自体によって、心がほんの少しずつ、少しずつだけれども安定してきます。  そして冷静に問題に対処しようという落ち着きが、これも少しずつ生まれてくる。恐怖と不安が次第に引いていく。というより、不安が去るまで、何度も祈るということが大事なのかなと思います。  そして、アドラー心理学みたいな話ですが、自分を苦しめている出来事や状況、現象そのものと、それに悩まされている自分の心とは別のものだと気づいていくようになってきます。  確かに自分にとってつらい出来事や状況というのはあるわけですが、それに不安を感じたり、恐怖を感じたり、失望したりしているのは自分の感情の問題であると。  私には感情があるけれども、出来事は出来事に過ぎないのであって、出来事自体には感情がない。ある感情を持つのは、自分の主観の問題に過ぎないということに、だんだんと祈りの中で自分の感情に向き合い、見つめてゆく中で気付かされてゆきます。  ただ、それは誰かに話してみるということで初めてまとまってくるものではないかと思うのですね。誰かに離してみないと自分の心は整理できない。けれども「誰にも話せない!」ということもあります。  ですから、その時には、たった独りになれる場所で、トイレでも、山の中でも、海岸でもいいから、独りになって神様に話しかける。ダラダラとでいいから、何度でもいいから話しかけるわけです。  それは神様と自分だけの秘密です。しかし、「秘密を誰かと共有する」ということはとても大切なことです。人間の誰にも話すことがはばかられることは、神様に打ち明けたらいいのだと思います。  そういうことを何度もやることで、次第に心に平安を与えられるということはあるのではないかと、私は体験的に思います。もちろん個人差はありますけどね。  「苦しい時の神頼み」でええじゃないかと。遠慮なく、誰も見ていないところで、「私を助けてください! 私を助けてください!」と祈りましょう。 ▼苦しい時の神頼み  さて、そうやって不安や恐怖が一旦去ってしまうと、怠け者の私は、すぐ祈ることを忘れてしまうのです。特に「自分のことをどうにかしてください」というのは忘れます。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というやつですね。  でも、「便りがないのが良い便り」という言葉もあります。神様だってそう思ってくださっているのではないだろうかと。「あいつ、最近わしに『助けてください!』ってすがりついてこんけど、どうやら調子よくやってるみたいやな」と思ってくださっているでしょう。  そしてまた、本当に困ってしまった時には、やっぱり祈るのです。  自分が本当に困ってしまった時、途方に暮れた時、他にすがる人もいない時、祈る相手さえもいないというのは、本当につらいことです。  だから、「苦しい時の神頼み」ができるということは、とても幸せなこと、ありがたいことです。どうぞ皆さん「苦しい時の神頼み」をしてください。
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