2021年10月31日(日)枚方くずは教会主日礼拝宣教
マルコによる福音書2章23-28節(新約聖書:新共同訳 p.64-65、聖書協会共同訳 p.63-64)
聖書の言葉(新共同訳)
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから人の子は安息日の主でもある。」
常識的な物言い
今日の聖書の中では、イエス様は大変常識的な物言いをしておられますね。意外なほど常識的です。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2.27)。
そりゃそうだろうと思います。安息日というものを、単なる休みの日と捉えるならばもちろんそうですし、礼拝の日と捉えるにしても、確かに「礼拝に出るためには、病人もほっとけ」とか、「道で倒れている人を見かけても、礼拝に遅刻しないようにするためには見捨てろ」とか、まさか今の大抵のクリスチャンは言わないでしょう。
まあそう言うような教会もあるかもしれませんけどね。ちなみに私が高校生のときに通っていた教会はそんな感じの教会でした。大人の信徒さんが「私は礼拝に行くためには、道で倒れている人がいても放ってきます!」と自慢そうに話していた人がいました。
今思えばすごい話ですよね。「あなた『善いサマリア人』のたとえ話知ってますか?」と言いたくなりますよね。「道で倒れている人がいたら助けてあげる話ですよ。聖書に書いてありますけど」とちょっと教えてあげたくなりますよね。
でもまあ今の大抵の教会では、日曜日の礼拝のためには、人が死にそうになってても放ってきなさいなんてことを言う人はいないであろうと思われますから、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではないんだよ」と言われたら、割とすんなり心に入ってくると思うのですけれどもいかがでしょうか。
こういう物の言い方は、イエス様の他の場面での言葉に比べると、驚くほど今の私達にとっては常識的ではないかなと思います。少なくとも、例えば「敵を愛せ」とか言われると「敵なんか愛せるわけないやん。愛せないから敵なんやんか」とか思ってしまいますし、「目をえぐり出せ」とか言われると「それはいくらなんでも」と思ってしまいますよね。そういう物言いに比べると、はるかに常識的な発言をしておられるなと思うわけです。
しかし、これがイエス様の実際に生きていた時代の話であると考えると、このイエス様の「人が安息日のためにあるんではないよ」という発言は、とんでもない神への冒涜だという風に捉えられたんですね。この安息日というのは、神が定めた掟ですし、「神よりも人を優先するのか、おまえは!」ということで、「こいつにこういう発言をさせておいたら、皆んなに罰が下るかもしれんから、こういう奴の口は封じとかないかん」というわけで、「イエスを殺さなければならない」と大真面目に考える人が出てくるというような、そういう背景のある時代です。
律法違反
だいたい、安息日には歩く距離まで決められていました。それはちょっと調べてみると、2000キュビト。「キュビト」というのは旧約聖書のノアの箱舟の建築のときに出てくる「アンマ」というのと同じ長さの単位らしいです。私が子どもの頃に読んでいた聖書では、ノアの箱舟の方の話でも、「キュビト」という単位で書かれていたような気がするんですが、今は「アンマ」と書いてあります。とにかく、この「アンマ」と「キュビト」は同じ長さで、肘から中指の先までの長さ、一応45センチ程度と聖書の最後の方についている度量衡の単位表に書いてあります。
なんか、私この枚方くずは教会に来ると数字の話をしたくなってしまうのかも知れませんね。前は不正な管理人の話をしていて、油を借りた人の油の量をガソリンに換算して、車で徳島とこっちを何往復できるかなんて話をしましたっけね、はい。
で、この45センチが1キュビトなので、これに2000キュビトですから2000をかけると、900メートルになります。つまり、同時のユダヤの人たちは安息日には900メートル以上の距離を歩いたらいかんことになっていたんですね。だから、安息日に礼拝に行くシナゴーグというユダヤ教会堂も、その距離で往復行けるような距離以上には離れないように設置されていたらしいです。
さて、イエス様とお弟子さんたちの話ですが、この安息日に麦畑を通っておられたというんですね。安息日にはシナゴーグに行って帰ってくるだけで、だいたいその日に歩いていい距離いっぱいくらいになるような、そんな日に麦畑なんか歩いていたなんてのは、安息日の制約を超える距離で歩いていた可能性もあります。というか、その可能性の方が高いでしょうね。これだけで立派な安息日の律法違反なんですね。
だから、律法の遵守にうるさいファリサイ派の人達の目に留まるわけです。そして、目をつけられていた。何かしでかしたら非難してやろうという目で、イエス様一行は見られていたわけですね。
飢え
そして、イエス様一行は麦畑の中を進んで行った。そこで弟子たちが麦の穂を摘み始めた。これ「摘み始めた」と書いてありますけれども、これは「引っこ抜く」とか「むしり取る」というニュアンスの言葉です。もう腹が減って腹が減って、むしり取ってむしゃぶりつくほど飢えていたということなんですね。
皆さんは、田んぼのお米を引きちぎって食べたことってありますか?
きょうび、野菜畑や果物畑にはそう簡単には入れないようになってはいないでしょうか。私の住んでいるところからちょっと車で10分ほど行くと、川沿いに野菜畑が続いている所がありますけれど、ちょっと通りすがりの人が入りにくいように、柵が張り巡らされて、農家の人しか入れないように鍵がかかっている様子です。
田舎の方に行くとそうでもないんでしょうか。でも、誰でも入れるようになっていたら、カボチャとかスイカとか取りに入れそうですよね。それから、山沿いだとイノシシとか猿とか食べに来そうですよね。だから、それを防ぐために柵が張り巡らされているということはありそうです。
けれども、そんな日本でも、お米の生えている田んぼは、割と誰でも入れるような状態になっているところが多くないですか? 誰でも入っていって、稲を引っこ抜いたり、むしり取ったり、やろうと思えばできるようになっている所がほとんどです。
逆に言うと、「そんなことをするやつはおらんやろ」というのが、日本での一般的な認識だから、そうなんじゃないかと思うんですね。お米というのは、普通は脱穀して精米して炊かないと食べられないし、稲穂になってる米をそのまま口に入れるような奴はおらんやろということだと思います。
このイエス様一行が麦畑に入って行って、麦をむしり取ったというのはそのくらいのレベルのことだと思われるんですね。
麦をそのまま食べる人は珍しいです。稲よりもっと硬そうな穂がついていますし、それを取り除いて、すりつぶすなり挽くなりして粉にして、水でこねて、パンにして焼くというのが普通の食べ方でしょう。しかし、その麦の穂をむしり取ってむしゃぶりついたということですから、これはもう空腹だったというレベルではなく、まさに飢えていてぶっ倒れそうだったと言うべきだったと思います。
律法を守るために人を殺すのか
イエス様一行は、その活動の最初の頃は、カファルナウムで、おそらく漁師のペトロの家を活動拠点にしていたようです。けれども、やがてガリラヤ地方の各地に宣教し、人を教え、癒しを行いながら旅をするようになりました。
その際に、行く先々で、たとえばザアカイさんのようにイエス様に救われた人によって、食事や寝る場所にありついたこともあったでしょうけれども、そうそううまいこといかず、旅の途中で飢え渇くということもあったでしょう。そのような状況で、「藁をも掴む」ならぬ、「麦をも掴む」といったほどの飢餓に襲われていたイエス様に一行に対して、ファリサイ派の人たちが「ほら見ろ、あいつらは安息日にしてはならないことをしている」と言ったというのですから、いかに冷たいことを言うのかということなんですね。
安息日には一切の労働をすることが許されていない。畑の麦の穂をむしり取ることは収穫の仕事に当たる。だから、こいつらは収穫の仕事をしている。故に律法に違反している。故にこいつらは神に反逆している。故にこいつらには神の罰が下るであろう。そうやって呪っているわけです。飢えて死にそうな奴らを前にして、真顔でこんなこと言う。
これに対してイエス様も怒ったんでしょう。「ダビデが自分も供の者たちも飢えていた時に何をしたのか、聖書を読んだことがないのか。アビアタルが祭司だった時、祭司だけしか食べてはいけない神殿のパンを食べたではないか」と(サムエル記上21.2-7)。
この「アビアタル」というのは、実は旧約聖書では本当は「アヒメレク」という名前の祭司で、そのアヒメレクがダビデにパンを渡したという話がサムエル記上に載っています。この「アビアタル」と「アヒメレク」の名前の取り違えは、イエス様が間違えたのか、マルコが間違えたのかよくわかりませんが、とにかくそういう名前の間違いはあまり大きな問題ではありません。要は、律法で決められていることであっても、人が死にそうになっている時には、破ってどうして咎められないといけないんだ、というイエス様の怒りが表れた言葉なんですね。
このへんはイエス様も一貫しています。今日の聖書箇所の続き、マルコによる福音書3章に入りますと、手の萎えた人を癒やす場面が出てきます。ここでイエス様は「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と言います。
手が麻痺している人は、ずいぶん前から麻痺したまま毎日を過ごしてきたでしょうから、今ここで治さなくても、すぐに命に関わることではないような気もするのですが、ここでイエス様は「安息日に許されているのは、命を救うことか、殺すことか」と怒ります。
今日の、弟子たちが麦をむしっている場面でも、イエス様が言いたかったのは、「こんなに飢えているのに、お前らは俺たちを殺す気か!」という怒りなんですね。
しごく真っ当な怒りです。けれども、これが当時の文脈では、神の罰に値するほど罪深い態度であると判断され、またこういう人間を放置していると社会が無茶苦茶に乱されてしまうと危惧した人々に、イエス様は殺されてゆくという結果に結びついてゆきます。
人のために法があるのか、法のために人があるのか
イエス様が言っていることが真っ当だというのは、これは安息日の本来の目的にも適っているということなんですね。
安息日というものが古代のユダヤで設けられたのは、週に1回休ませることが奴隷たちの健康を回復し、健康を回復するとまた元気に働くことができる。つまり、休日を作るほうが結果的には生産効率を上げることになるという知恵だったんでしょうね。これは、それまで奴隷や家畜を休ませるという発想が無かった古代社会では、画期的な発明だったと言えます。
イエス様が言っているのは、この安息日の設置された本質に触れるものです。まさに安息日は人を生かすため、命を救うためにあるのであり、人を殺すためにあるのではないよと。至極真っ当な話です。
人のために法があるのか、法のために人があるのか。こういう問題を思うと、私が連想するのは、つい最近にも名古屋の入管で亡くなったスリランカ人の女性の方のことを思い浮かべます。
また、孤立出産……たった独りで畳の上で赤ちゃんを産んだのに、その子どもが死産で、それなのに死体遺棄罪で有罪判決を受けた技能実習生のベトナム人女性の方のケースなど。
入管法や技能実習生の制度は、国際的にも人権上問題があると指摘されています。「それは人命の尊重という意味ではかなりまずいですよ」と言われています。
それでも、日本政府は制度を改善しようとはしません。私は、この亡くなった方や有罪判決を受けた人は、もちろん法によって殺された、あるいは殺されそうになっているわけですが、あるいはたとえば、入管で収容された人の虐待に関わっている職員も、そのような業務に当たらされている本人の心だってどんなに矛盾に晒されて、苦しくなってしまっているか、なんてこともあるんじゃないかとも思います。そういう考えは間違っていますでしょうか。
こういう、人間の命を損なう法が現在もあるという現実が、まさに「その法は人を救うためにあるのか、それとも人を殺すための法なのか」と、イエス様から問われている問題のひとつの例と言えるのではないでしょうか。
イエス様は憤っておられますが、それは人間を守るため。人間を守ろうとする本当の優しさから憤っておられたわけです。
安息日の主
そして最後に、イエス様が自らを「安息日の主」であると言われたと。「安息日の主」であるとはどういうことなのでしょうか。
いろいろに考えられるでしょう。「人の子」というのはイエス様のことを指しています。旧約聖書のダニエル書のような終末論的な文学に出てきますけども、世の終わりの日にやってくるとされている、救い主であるという風に解釈されています。
イエス様がご自分のことを「人の子」とおっしゃったというのは、これは本当にイエス様がそういう風に自分のことをおっしゃったのか、それとも福音書の記者が付け加えたのか。もし福音書記者がそう書き加えたのだとすれば、たとえばこんな解釈が成り立ちます。
イエス様は「人の子」としての特別な存在であるから、安息日を破ることができたのだ。他でもないイエス様だからこそ、このような言動が許されているのだという解釈です。そういう解釈をしている牧師が実際にいます。
また別の考え方をすることもできます。イエス様が安息日の主であるということは安息日を支配しているのはイエス様である。だから、安息日に礼拝するべきなのはイエス様であるという、福音書記者の主張であると。そういう解釈をしている牧師もいます。
さらにもう一つの解釈は、これがもしイエス様自身が言ったことだとするならば、イエス様ご自身が「安息日は人のためにあるのだ」と言ったことの全責任を引き受ける覚悟を示されたというものです。
全責任を引き受ける
イエス様自身が自分の権威と責任で、律法を破ってでも人の命を守るべきときには守らないといけないんだと言う。
じゃあ私たちはどうでしょうか? 私たちは法を破ってでも人の命を守るということはなかなかできないわけです。法を破るということは、自分自身が社会によって罰せられるということです。そんなリスクを犯してでも人の命を守る勇気は私たちにはなかなかありません。
けれども、イエス様は「それをやらなければ救われない命があるんだ。そのために私自身は法を破ることで命を狙われようが、救わざるを得ない。そのために私は来たんだ」と。
「私『が』安息日の主なのだ」と言い切ることで、「私が主だから、私に責任があるのだ」と。その法を破ることの全責任をご自身で引き受けようとしたのではないかという解釈も成り立つのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
そして、実際にイエス様はそうやって人の命を救うために律法を破ったことで、命を狙われて殺されてゆきました。人の命を救うために、自分の命を棄てるというイエス様のミッションはこうして最初から貫かれていたわけです。
繰り返しになりますが、私たち自身は法を侵してでも、人の命を守り、救うということは大変勇気の要ることであるし、自分の身をリスクにさらしてでも、人のために命を張るということは大変むずかしいです。
けれども、私たちはイエス様がそれをやってくださった。命を張って、法を破ってでも人の命を優先したということを忘れないように生きてゆかなければいけないと思いませんか?
そして私たちは、実際に法を作る人々が、「人を活かす法」「人を生きさせる法」を作ることができるように。「人を殺さない」法を作ることができるように。しっかりと為政者のやっていることを監視していなければなりません。
そのために、こんなお話をしている今日は、たまたま衆議院議員選挙の日ですが、今日は午後8時まで投票所は受け付けているはずですから、必ず選挙には行っていただき、1票を投じていただきたいと私は思います。
なんだ結局オチは衆議院選挙か、と。いや、これはたまたま今日がそうだったというだけだという話ですが、しんどい体を引きずって、せめてそれくらいのことでも、ちゃんと「やれることはやるのだ」というのが、法を破ってでも人の命を守ろうとしたイエス様のご遺志に従うということに、少しは近づくことはできるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
祈り
祈りましょう。
神様。私たちに命を与え、私たちを愛し、見守ってくださっていることに心から感謝いたします。
私たちは「人を愛しましょう、愛しましょう」と教えられ、自分でも人を愛することができればと願っています。
しかし、その愛が本当の愛に繋がっているのか、それを知らずに暮らしていることもあります。私たちが全く気づいていないところで、私たちが気づいていないがゆえに苦しみを与えてしまっているということもあります。
どうかそのことに気づかせてください。
そして、少しでも私たちが、あなたの愛に満ちた御国が実現するための祈りと行いをなすことができますように、どうか私たちを導いてください。
今週もあなたに守られて、この世での暮らしを歩んで行けるよう、「安心して行きなさい」という言葉をもって私達を押し出してくださいますように。
イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。