【神様が人間になってしまった日】フィリピの信徒への手紙2章6−8節

2021年12月19日(日)徳島北教会クリスマス礼拝説き明かし

フィリピの信徒への手紙2章6-11節(新約聖書:新共同訳p.363、聖書協会共同訳 p.355)

▼聖書の言葉(新共同訳)

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天井のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

▼人であり、神である

 クリスチャンというのは、不思議なことを信じている人間です。

 イエス・キリストというのは神であり、人でもあるというんですね。イエスという人は紛れもなく人間だった。これは事実です。けれどもこの人間が実は神であったというのは、よくわからない。

 そもそも日本という国は、人間を神として拝んで戦争をやって、とんでもないことをやらかした歴史がありますから、人間を神として拝むのはちょっと危険な気もします。

 でも、このイエス様は神様であった、というのは政治権力を持っていた人たちがなんらかの政治的意図をもってそう決めたというわけではなくて、イエスを信じ、イエスと共に歩もうと心に決めた人たちの中から自然に出てきた感情が基になっているんですね。

 今日お読みした聖書の箇所はパウロという方が書いた手紙の一部ですけれども、ここではまだ「キリスト(救い主)であるイエス様が神なんだ」とまでは言い切っていなくて、「神と等しい者」と言われています。ちょっと曖昧なんですね。神そのものではないけど、神と同じような存在。

 そして、キリストが生まれてから十字架で死ぬまで、神に従順であられたために、神はキリストを高く上げたと言っています。だから、キリストと神は、ここでは別の存在なんですね。こんな風に神とキリストは別のものだと言ってくれている方がわかりやすいですね。「神であり、人でもある」と言うのよりわかりやすいです。

 けれども、キリスト教はその歴史の中でだんだんと発展するに従って、「いや、実はキリストは神そのものだったんだ」という解釈をするようになっていきます。わかりやすいところから、だんだんと謎めいた方向に走っていってるんですね。だんだん理屈に合わない方向に行ってます。そして、いつの間にか「三位一体」とか言って、「神とキリストと聖なる霊は、実はみんな神である。その神は1人である」といった風にどんどんわかりにくくなります。

▼不合理だけど信じた方が幸せ

 けれども、理屈では説明できないけれども、感情的には、あるいは物語的にはその方がすんなり入ってくるということもあるかも知れません。

 ぼくもちょっと前までは理屈でものを考えてて、神であり人であるというのは、どうしても理解できないと考えていたんです。

 ところが最近では、理屈で考えてもわからないことは理屈で考えるのをやめる。そのかわり感性とか、感情や直感などで感じることを優先してもいいんじゃないかと思うようになってきたんですね。

 そして、イエスという人は実は神だったんだ……というのが、イエスという人の生き様や死に様を見聞きしてきた人たちにとっては、実感に近かったんではないでしょうかね。

 よく「不合理ゆえに我信ず!」とか堂々と言う人が昔いたりなんかして、そういうところまではちょっとなんかついていけないという気はするんですが、「不合理だけど、そう考えた方が幸せ」ということはあると思うんです。

▼神様の寂しさ

 クリスマスは神が人となって生まれたことをお祝いする日です。

 このことは理屈では説明できません。けれども、絵本のようなと言いますか、物語的に考える方が私にとっては幸せなんだということは言えると思います。

 なぜ、神が人間になってこの世に生まれたのか。それは神があまりにも人を愛していたからではないかというのが私の結論なんですね。神様はあまりに人間のことが愛おしいから、ついに人間になっちゃった。それがクリスマスです。

 神様というのは、この世の存在ではありませんよね? まあ言ってみればあの世の存在です。

 よく私たち人間は、死んだらあの世に行くよと言いますよね。そして、神様のもとで永遠の命を生きながら憩いを味わうわけです。そこに神様がいるわけですから、神様はあの世の存在です。けれども、あくまであの世の存在ですから、この世とは断絶しているわけです。

 だから、この世の我々人間は、神様のことは、この世に生きている間はわからない。断絶されてますから。そもそも神というものが存在しているかどうかも、誰も証明できない。ひょっとしたら、そんなものおらんかもしれん。実際、おらんと思って生きている人がだんだんと世界的にも増えてきているわけです。

▼人間の殺伐とした現実

 けれども、もし神がおられるとしたら、それは寂しいことだと思うんですね。自分のことを知ってくれてない。自分のことなんかおらんと思う人が増えている。これは神様にとっては辛いことでしょう。

 それに、神様などおらんと考えることが人間にとって幸せなことかというとそういうわけでもないと思うんですね。神様なんかおらんと言う時、人間はどこか投げやりというか。「神も仏もあるものか」と言う時、それは人間自身にとっても、どこか寂しい、拠り所になるものなんかないんだ、生きている意味なんかないんだ、ただ遺伝子の法則に従って生まれてきて死んでいく、それだけなんだという、どこか殺伐とした感情があるのではないでしょうか。

 そして、そのような感情に支配されているために、お互い自分の利益になることばかりを追求して、それが正しいんだと割り切って、互いに利用し合ったり、奪い合ったり、自分を守るための攻撃に時間やエネルギーを使ったり、挙句の果てには殺し合ったりしている。

 もし、神がいると思えたなら、そして人は誰もが神に愛された神の作品なのだと思えたら、そんな殺伐とした感情から自由になれるのに、それがなかなかできない。それが多くの人の現実です。

 でも、もし神がいて、そんな人間を神が見ていたら、どんなにか悲しいことかと思うんですね。自分が造った大切な作品である人間たちが、自分も他人もどんなに大切な存在であるかを忘れて痛めつけ合っている。神様がこんな状況はもうやめさせたい、と思っても不思議ではありません。

▼会いに行こう

 そこで神様は考えたんですね。

 「私が人間たちのところに行こう」と。

 「人間たちのところに私から会いに行こう」。

 会いに行く。これはとても大切なことであると、この2年間私たちは身にしみて思い知らされたことではないでしょうか。自由に「会いに行く」というということが当たり前でなくなってしまい、人間と人間が断絶させられる苦しさを、私たちは味わってきました。「会いに行く」というのは、もはや私たちにとっては当たり前のことではありません。

 神は、神と人間という断絶された両者の壁を超えるために、この当たり前ではない「会いに行く」ということを実行されたわけです。

 仏教には「如来」という言葉もありまして、この「如来」というのは仏陀の別名でもありますよね。違いましたか? 違ってたらすみません。「釈迦如来」「阿弥陀如来」と言いますよね。悟りを開いた覚者のことを「如来」と言いますよね。

 この「如来」というのは「如く来る」と書きます。「人の如く来る」。この「如来」という方々は、今日の聖書の箇所の言葉をもじって言うならば、「神と等しい者であることを良しとせず」というところを「仏」に読み替えて、「仏と等しい者であることを良しとせず、人間のところにやって来られた」ということになります。人間の救いのために人間界に来られたと。

 ですから、神や仏が人間に会いに来るというのは、別にキリスト教に限った発想ではございません。

 ただ、キリスト教の物語の場合、ちょっと違うのは、神が本当に赤ん坊から人間の人生を歩むことにしたという点ですね。ここが独特です。

▼誰も独りぼっちにしない

 人間のところに来るというなら、やはり人間にならないといけない。そして、人間になるのなら、やっぱり最初からやらないといけない。つまり赤ちゃんからやらないといけない。そして、それなら人間の母親から生まれなければならない。そう神様は考えるわけですね。そこで、実際人間の女性、マリアという女の人から生まれました。生まれた赤ん坊は「イエス」と名付けられました。そして、そこから神様の人間界巡りが始まりました。今から2025年前前後のことです。

 そこからあとは皆さんもよくご存知の通り、イエス様は成長して、人を癒し、人を教え、人を憐れみ、人と一緒に飯を食い、笑い、泣く愛の人になりました。

 そして、あまりに人を愛するあまり、その時代の権力者たちに邪魔者扱いされて、仲の良かった人たちにも裏切られて、完全な孤独の中で、肉体的にも精神的にも、これ以上ないという苦しみを受けて殺されるという死に方をしました。

 人を愛するということを貫いた末に殺されるという死に方でした。これが本当の神様というものだと、イエスを見ていた人は思いました。イエスは人だけれども、神がいるとすればこの人こそが神というものだろう、と人々は思いました。

 神は、人間を愛するあまり、人間と一緒に喜び、人間と一緒に泣き、一緒に生きて、そして普通の人以上に苦しみを受けて死ぬという道を選びました。

 それは、この世の誰ひとりも独りぼっちで生きて、独りぼっちで死ぬということがないようにするためでした。

 私たちが嬉しくて大笑いする時も、苦しくて大泣きする時も、絶対に独りにしない。一緒にいる、共にいてくださる。そういう愛を示すために、神はイエスという姿をとって人間界に来られた。このことを心に覚えてお祝いをするのがクリスマスです。

▼物語を共に歩もう

 イエスが生まれたのは今から2025年ほど前のパレスチナ地方です。荒れ果てた世の中でした。イエスが生まれて、何か大きく変わったでしょうか。神がイエスの姿をとって来てくれたおかげで、世の中が劇的によくなったでしょうか。

 そんなに大きく変わっていないようにも見えます。しかし、変わったこともたくさんあります。

 たとえば、人ひとりが大切なんだという「愛」というものの種が蒔かれました。敵をも愛するという平和の理念が与えられました。病気の人を手当てしたり、見舞ったり、飢えている人に食事を与えたり、渇いている人に水を飲ませたりといった行いのきっかけが与えられました。そして、それが平和や人権や医療や福祉という形で、2000年以上かけて世界に広がってきたことは事実です。

 その最初の種を蒔いたのはイエスです。

 そして、その種を育てて少しずつ実らせていったのは人類です。宗教という枠を離れても、その価値観は生き続けています。

 そして、まだこの世に神の愛を完全に実現するゴールは、はるか遠い未来かも知れないけれども、その歩みの中にイエスは今もおられると思うのです。そういう意味では、神様と私たちの物語は現在進行形です。

 このクリスマスに、改めて私たちはイエスと共に歩む物語を一緒に生きてゆく、そんな仲間であることを喜びたいと思います。

祈りましょう。

▼祈り

 神さま感謝します。

 あなたの御子、イエス・キリストがこの世にお生まれになったことを、心から喜んでいます。

 あなたがイエス様を通して証してくださった愛の種を、私たちは大切に育ててゆきます。

 地上が分断された状態から、次第に愛に満ちたあなたの国へと完成に向かうために、私たちにできることをなさせてください。

 今日、私たちのもとに新しい仲間が加わることに心から感謝いたします。どうか神様、この方の生涯にあなたの確かな導きと守りをお与えください。

 また、私たちすべての者が、あなたの愛に応えて、共に手を携えあって、あなたの物語を歩んでゆくことができますように。

 皆の者の胸にある願いと併せて、イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。