Message Digest 2019

礼拝説教ダイジェスト:2019年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
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【メッセージの要旨】

「出てゆくための集い(教会とは誰か、教会とは何か、教会とはどこか)」  
聖書:エレミヤ書7章1-6(主の神殿という虚しい言葉)
2019年8月11日(日)日本キリスト教団徳島北教会平和聖日礼拝説き明かし
 1週遅れての平和聖日の説き明かしです。
 日本基督教団が「平和聖日」を制定したのは1960年代の初めです。1960年代は教団においては、先の対戦を振り返る様々な議案が提出され、論争が行われた時代でした。
 残念ながら、その論争が身を結ぶ前に、1990年代以降から教団は反動的になり、「社会には深入りせず信者を増やしましょう」という路線に右旋回して現在に至っています。
 しかし、人ひとりの人生に向き合おうとすれば、その人の社会的な側面にも関わらざるを得ません。この世には誰ひとり社会と無関係に生きたり、社会から影響を受けずに生きることができる人はいないからです。ですから、「社会か教会か」、「宣教か伝道か」という二分法には意味がありません。
 エレミヤ書は私たちの社会が陥ってしまっている病的な状況を、まるで今の時代の預言者のように言い当てています。特に今日の箇所では、教会というものを自己目的化してしまっている人に対して痛烈に批判しています。教会は最終目的ではない、人間一人一人のために教会があるのです。
 教会というのは教会堂のことではありません。ここにいる一人一人が教会であり、一人一人が出てゆく現場に教会があるのです。私たちは教会から送り出されて、この世に信頼・希望・愛・平和を持ち出してゆくのです。

「伝道か社会かではなく」  
聖書:使徒言行録10章9-16(ヤッファでのペトロ)
2019年7月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会部落解放祈りの日礼拝説き明かし
 1週間遅れの「部落解放祈りの日礼拝」です。通常は毎年7月の第2週の日曜日に行われるものです。この「部落解放祈りの日礼拝」は1975年から始まったものですが、日本基督教団での部落解放の取り組みは、決して全教団的な運動にはなっていません。そればかりか、部落差別のみならず、在日外国人、滞日外国人、性差別、LGBT差別……あらゆる差別事件が次々と今も起こっており、また教会や牧師自身が加害者になるというケースもあるような有様です。
 今日お読みした使徒言行録10章は、ペトロに復活のイエスが「神が清めたものを、あなたは清くないなどと言ってはならない」と諭した場面であり、最初はその言葉の意味がわからなかったペトロも、やがてあるローマ人との出会いから、それは「決して人間を分け隔てするな。神が清めた人間を清くないなどと言ってはならない」という意味だったのだということを悟ります。
 この記事から私たちは、教会や伝道者が言っていることが、必ずしもイエスの思いを反映したものだとは限らない、むしろイエスは先を行かれるのだということを知ることができます。私たちは「教会のあり方はこうだ」と凝りかたまるのではなく、先を行かれるイエスと共に進んでまいりたいと思うものです。

「飲めない水を飲めるようにする木の話」  
聖書:ヨハネによる福音書15章1-5節(ゲラサの人をいやす)
2019年7月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスは自身のことを「私はまことのぶどうの木」と言いました。
 イエスが生きていたイスラエル、またはユダヤ地方、あるいはパレスティナ地方の湧き水は、とても飲めた代物ではありません。塩分とミネラルが濃すぎて、しょっぱく、苦く、まずいのです。しかもあまり体にも良くなかったようです。ですから、「テモテへの手紙」では「水ばかりではなく、時々ぶどう酒を用いなさい」と書いてあります。
 ぶどうの木はあの地方では、「飲めない水を飲めるようにする木」です。しょっぱくて苦い水を吸い上げ、甘く、美味しく、体に良い水に変えてくれるのです。
 イエスが「私はまことのぶどうの木」であると宣言したということは、この世の苦い水を甘くする。つまり、この生きづらい世の中を、少しでも生きやすいものに変えてゆくんだという彼自身の決意を表したものとは言えないでしょうか。そして、私たちがイエスに倣って、イエスと共に生きるというのは、この生きづらい世の中を、イエスと共に生きやすい世の中にしてゆくわざに参加してゆくことではないでしょうか。

「独りで死ぬな。一緒に生きよう」  
聖書:マルコによる福音書5章1-20節(ゲラサの人をいやす)
2019年6月23日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスがガリラヤ湖の西岸から旅立ち、向こう岸(東岸)のデカポリス地方にあるゲラサの町に渡った時のことです。汚れた霊に取り憑かれたゲラサの人がイエスに近づいてきました。その汚れた霊は「レギオン」という名です。デカポリスにあるローマの植民都市で、ローマの大軍団の名前を持つ汚れた霊に取り憑かれた人が、暴れたり自分を傷つけたりしているのです。
 この様子は非常に象徴的です。その時代は後に「パクス・ロマーナ」と呼ばれる平和な時代とされています。しかし、その実態はローマのレギオンに代表されるような、強力な軍事力による一国支配であり、たくさんの現地人、先住民らの征服、鎮圧、虐殺があって、その上に成り立っている「力による平和」「血に汚れた平和」なのです。そうやってローマ帝国は、地中海沿岸各地にポリスと呼ばれる植民都市を築いてきました。そして、そのような形で押し付けられたローマの軍隊、税金、価値観、宗教などが押し付けられていったのです。この汚れた霊に取り憑かれた人は、そのようなローマの軍政下で自らの暮らしを奪われ、反抗することもできなくされてしまった挙句に、心を病んで野宿者になった人と考えることができます。
 イエスはそんな汚れた霊に、ローマ人のために飼われている豚どもに入って、湖に入って溺れ死んでしまえと命じます。イエスはローマ的価値観に対してはっきりと否を突きつけています。
 このことは現代に生きる私たちにとっても非常に示唆的です。私たちは今、「パクス・アメリカーナ」の傘の下に生きています。しかし、それは基地の負担、軍隊の暴力、税金の無駄遣いといった腐った政治によって維持されており、たくさんの犠牲者が出ています。イエスの癒しはただ病気を治したという個人的な出来事であるだけではありません。彼は腐敗した社会のしわ寄せとなって病んでしまった人間を回復したのです。そのことによって彼は、社会的な病に対しても戦いを挑んでいったのでした。
 今日は「沖縄慰霊の日」です。私たちがイエスについていこうとするならば、どのように考え、どの立場に立って、どう話し、行動すべきかは一目瞭然ではないかと思われるのですが、いかがでしょうか。

「家の教会からよろしく」  
聖書:コリントの信徒への手紙(一)16章19-24節(手紙の最後の挨拶)
2019年6月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会家庭礼拝説き明かし
 私たちは初期のキリスト教会を指して「家の教会」という時がありますが、実は「家の教会」という名前の教会があったのではなくて、キリスト者の集まり(エクレシア)が、あるキリスト者の家を場所として提供していただいて、そこで礼拝をしていたということなのです。パウロは特にエフェソというアジア州の首都で、プリスカ(妻)とアキラ(夫)という夫婦に大変世話になり、この2人の家でエクレシアを持っていたのでした。
 この夫婦のことは新約聖書の中に3回も出てきますし、パウロはローマの信徒への手紙では、「プリスカとアキラ」と言った風に、当時には非常に珍しく女性の名前の方を先に書くようなこともしており、いかにこのプリスカという女性にパウロが信任を置いていたかがよくわかります。
 パウロは当時としては最先端の方法で雄弁に福音を語る伝道者でしたが、やはりこのような人々の協力なしには決して活動することはできなかったのです。

「離れていてもひとつ」  
聖書:エフェソの信徒への手紙4章1−6節(信仰は一つ、洗礼は一つ)
2019年5月19日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 キリスト教の伝道活動は、いつもその時代の最新の技術を使いこなして実践されてきました。ここ半世紀の日本においても、電話はもちろん自動車も、特に地方部における伝道活動には必需品とされてきました。昨今ではインターネットの発達により、メールやウェブサイトでの福音の発信は当たり前となってきました。それと同時に地域への伝道、近隣への伝道という限界を超えて、海をまたいで、国境をも超えて伝道する可能性も出てきました。
 エフェソの信徒への手紙には、「信仰の一致」「霊における一致」が何度も力強く説かれますが、それは唱える言葉が統一されているとか、儀式のやり方が同じであるといった形の上での一致のことではありません。そうではなく、一人一人の抱く神のイメージがどんなに異なっていたとしても、あるいは一人一人の距離が離れていたとしても、同じ神に信頼をおいて生きているという、その一点における共生の「一致」のことです。
 私たちは1本のぶどうの樹のように「ひとつ」の体ですが、それは各々異なった部位を構成しており、それぞれの場所において異なる働きをしながら、共に生き成長してゆくのです。
 どうか、共に生きる「ひとつ」の体として、どんなに距離が離れていても、支え合い、育て合いしながら生きてゆきましょう。

「日本で一番危険なカルトについて」  
聖書:マルコによる福音書13章3−13節(産みの苦しみの始まり)
2019年5月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 今日のお話は喜びの福音ではなく、警告のメッセージです。
 日本で最も危険なカルト。それはほとんどの日本人がそれを宗教だともカルトだとも思っていないものです。しかしそのカルトはほとんどの日本人を騙し、洗脳し、たくさんの犠牲者を出してきました。そのカルトは一旦は鳴りを潜めたように見えていたのですが、現在再び日本を手中に収めようとする計画を既に実行しています。
 そのカルトが何なのか、なぜ危険なのか、今そこにある危機とはなんなのか。そしてそれとキリスト教との関連はどのようなもので、これから私たちはどうすればよいのか。
 いつもよりかなり長時間(約50分間)のお話になりますが、このことをご一緒に考えていただければ幸いです。

「本当に赦してはならない過ち」  
聖書:マタイによる福音書5章44−45節(善人にも悪人にも)
2019年4月28日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 キリスト教では「すべての人が赦されています」と言われることがあります。しかし、そのように言う人が、別の人には「あなたは悔い改めて変わらなければ救われることはありません」と言うこともあります。その判別を相手によって恣意的にかえる人もいます。
 イエスという人は、「善人も悪人も、正しい人も正しくない人も」全員に神の恵みが降り注ぐと説いた人です。この宣言は当時のユダヤ社会では衝撃的な神や律法に対する冒涜に当たりましたが、そうでなくても「正直者が馬鹿を見る」と言ったような教えであります。
 しかし、イエスにとってみれば、宗教がその教義でもって人を裁き、存在を否定し、差別と排除をするなどといったことの方が、よほど大きな赦せない過ちなのでした。
 私たちは、誰の赦しも宣言し、誰をも受け入れるような教会になることができているでしょうか。イエスの最も嫌ったことを率先してやるような教会にはなっていないでしょうか。

「十字架につけられたままのイエス」  
聖書:コリントの信徒への手紙(一)(十字架につけられたままのイエス)
2019年4月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会イースター礼拝説き明かし
 パウロは自らの手紙の中で、何度も「十字架につけられたイエス」と書いていますが、これは正確には「十字架につけられたままなるイエス」という意味なのです。
 つまりパウロが見た、あるいは彼の頭の中のイメージとしての復活のキリストというのは、十字架につけられたままのイエス・キリストの姿だったのです。
 私たちは復活したイエスというと、肉体的に蘇生したイエスのことを思い浮かべます。しかし、パウロはそんなことを言っているのではなく、十字架につけられて今も苦しみ続けているイエスを見たのです。
 また、日本語で私たちが読んでいる「復活した」という言葉は、実は「再び(神に)起こされた」というのが正確な訳です。彼は「復活した」というよりは「(神に)再起させられた」のです。
 そして、今も十字架につけられたまま、彼のような弱く小さな存在を殺し続けている私たちの罪を問い、また同じように苦しむ人を慰め続けているのです。
 そしてそんなイエスの十字架の問いに応答して、また慰めを与えられて、私たちもまたイエスと共に「再起」するのです。それが私たちのイースターなのです。
 (今回のメッセージは特に青野太潮先生の説に感化されたものです)

「喜びの種を気長に蒔こう」  
聖書:詩編126編5-6節(涙と共に種を蒔く人)
2019年4月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 詩編126編の5−6節は、日々の平凡な苦労の繰り返しの中で、疲れと悩みの中にある人に、その苦労は必ずや報われるのだ、という希望を訴えかけてくれているように読めます。
 私たちは「愛される喜びを伝えたい」という言葉を教会のミッションとしていますが、神から愛されているということを実際に伝えるのは人の愛です。私たち人間は欠けた器かも知れませんが、それでも神の愛を伝える器になりうるのです。
 愛というものは、私たちが先天的に与えられている神様からの贈り物です。愛は人が学習によって学ぶよりも先に、生まれながらに持っている喜ばしい性質です。それは人から出たものではなく神から与えられているものです。
 私たちはこの神に由来する愛を、少しずつでいいから、そして言葉によっても、行動によっても、祈りによってでもいいから、地道に習慣のように続けることが大切です。
 そして、そのゆっくりとした少しずつの習慣が、いつか芽を出すことを夢見て歩みたいと思います。

「何ゆえの十字架か?」  
聖書:コリントの信徒への手紙(一)15章3-5節(私たちの罪のため)
2019年3月31日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝宣教
 「イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかられた」という言葉は決まり文句のように私たちの間に浸透しています。
 そして、この「罪のために」というのは、人間の罪を贖うためにイエスが身代わりとなって罰を受けた」という意味で捉えている人がほとんどでしょう。
 しかし、私はこの「罪のために」というのは、「私たちの罪の結果、イエスを殺してしまった」、「イエスを殺してしまったのは私たちの罪のせいだ」という風にしか受け取れないのです。
 イエスが「人間の身代わりとなって罰を受けよう。そして3日目に死人のうちより蘇ろう」と理解して十字架にかけられたのなら、その罰は「やらせ」のようなものですし、蘇る事を知った上で死ぬというのは本当の死ではないのです。
 イエスは自分が死なねばならないと思ってはいなかった。しかし、心底絶望のゆえに「我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのか」と絶叫して死ぬしかなかった。それは本物の死です。
 イエスは地上の人間の中でももっとも過酷で無残な苦しみを受けて、死んだ人です。しかしそれゆえに、私たちは「イエスなら私たちの苦しみをわかっていてくれるはずだ」と信じることができるのであります。

「個人の罪と民の罪」  
聖書:ホセア書4章1-3節(神の民への告発)
2019年3月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 レントはイエス・キリストの受難を改めて思い起こし、自らの罪を悔い改めたり、自分に何らかの課題を課して、克己する機会としたり、様々な過ごし方を世界の人々はしています。
 聖書の中には、個人の罪の告発と赦し・救いが記されている場合もありますが、それ以上に民全体の罪と赦し、そして救いが描かれているところがたくさんあります。
 現代のクリスチャンはともすれば個人の罪に注目しがちな傾向がありますが、実は民全体の罪、人類の罪というものがあるのではないでしょうか。
 特に、神様が作った生命(それは自然であったり、人間であったり様々な形態を取っていますが)を踏みにじり、虐待し、奪う罪は、今こそ私たちが悔いて、改めなくてはならないのではないでしょうか。
 それは「連帯責任」というようなものではありません。そうではなく、一人一人が自分自身の問題として取り組み、悔いて、改めなくてはならないものなのです。

「耐えられない試練からは逃げよう」  
聖書:コリントの信徒への手紙(一)10章13節(耐えられない試練)
2019年3月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 近頃、あるスポーツ選手が「神様は耐えられない試練は与えない」という言葉を発して話題になりました。これは最初は聖書から引用された言葉ですが、やがてアスリートたちの間で広まっていった言葉ではないかと推測しています。そのために元来の聖書の言葉からは異なった意味で用いられるようになりました。
 私たちの人生には苦しみや困難が襲って来ることがあります。そして私たちは「神様、なぜ私がこんな目に遭わなくてはならないのですか」と嘆くのです。生きていること自体が罰ではないかと思われるほどの苦しみに襲われたとき、そして誰の言葉も慰めにはならないとき、何が私たちの救いになるのでしょうか。

「酸いも甘いも嚙み分けて」  
聖書:コロサイの信徒への手紙3章16−17節(キリストの言葉)
2019年2月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 コロサイの信徒への手紙3章は大変美しい言葉で人の生き方の理想を描いている記事です。聖書の言葉を「絵に描いた餅。しかし、それはなかなか美味しそうな餅じゃないか」と喩えた聖書学者がいますが、なるほどそうかもしれません。絵に描いた餅でもなければ、美味い餅というものがあるのだということもわからないし、理想がなければ目指すべき星もありません。コロサイ3章はそんな、いつかはたどり着きたいと目標に掲げるべき「絵に描いた餅」なのですね。
 そしてこの「絵に描いた餅」は、歳をとればとるほど旨みが増すものではないかと思います。若い人の集まる教会にはそれなりの役割があります。しかし、中高年が集まる教会にも、人生の酸いも甘いも辛いも苦いも噛み分けた人間こそがわかる世界、その知恵があり、それを互いに分かち合うことができるので、味わうことのできる餅があるのです。
 年寄りにしかわからない人生の餅の旨みを共に味わいたいと思います。

「教会にいてくれないと困る人」  
聖書:マタイによる福音書18章19-20節(2人または3人でも)
2019年2月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 教会にいてくれないと困る人とは、どんな人でしょうか?
 本当はそんな人はいないはずなんですが、イエスのことやキリスト教を確信的に否定する人は、別に来なくていいです。また教会に集まる人を傷つけたり攻撃する人はお断りです。
 イエスは「2人いて心を1つにして祈れば叶う。2、3人私の何よって集まれば、私もその中にいる」と語っています。つまりイエスの名によって集う人が2人いれば、そこに教会ができる条件は整うのです。
 教会にいてくれなくては困る人、それはイエスの名によって集い、イエスの名によって祈る交わりに参加する、たった2人以上の人です。そこにイエスが存在するのです。

「ほんとうのお父さんを見つける」  
聖書:ルカによる福音書2章41-52節(神殿の少年イエス)
2019年1月13日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 一般にはイエスが神のことを「アッバ(お父さん)」と呼んだのは彼が神の子だからだと理由づけられています。しかし、イエスを1人の人間として見た場合、本当は彼が神を「お父さん」と呼ばずにはおれなかった理由なり事情があったのではないかと考えられます。
 福音書のイエスと親たちの物語を分析的に読むと、実はイエスの父母はイエスに対して理解を示していたわけではなく、むしろイエスを問題児として手を焼いていた様子が浮かび上がってきます。特に母親についてはイエスに対する無理解とイエスとの不仲が顕著に現れています。
 父親については圧倒的に情報が足りません。おそらくイエスは自分の実の父親を知らないのでしょう。そして弟たちの父親である男に虐待を受けていた可能性があり、それゆえに神だけを自分の本当の父親にしようと決心したのではないでしょうか。
 イエスの教えの中には、父権主義や家父長制を厳しく批判し嫌悪するメッセージが多く含まれます。そのことと彼が神を「父さん」と呼ぶこととは表裏一体です。イエスの真のメッセージを受け取ることなしに安易に「天の父よ」と呼ぶことは、実はイエスの本意ではない可能性があるのです。

「まるっきり信頼してしまっている」  
聖書:ローマの信徒への手紙3章21−26節(イエスの信による義)
2019年1月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年主日礼拝説き明かし
 普段私たちが「信仰」と訳している新約聖書のギリシア語は「ピスティス」です。「ピスティス」とは「相手に対する全面的信頼」という意味です。それは神やイエスが相手とは限りません。人間同士の関係でも「ピスティス」というのはあるのです。
 ローマの信徒への手紙3章21節以降は「(人間の)信仰によって神に義(無罪)とされる」と書いてあるように読む人が多いでしょう。しかし言葉の上からも文脈上からも、人間の側の「信仰」が条件になっていると読むのは間違いなのです。そうではなく、「無償で(タダで)」「イエス・キリストの信実(ピスティス)によって」人は神に義とされたと読むのが正しいのです。
 人間は神やイエスを信じるか信じないかとは関係なしに、イエスの人間への信頼、神への信頼によって仲介され、神によって信頼に足る者と扱われるのです。
 教会の根底に存在するのは、この信頼(ピスティス)です。イエスの信頼が神と人間の信頼をとりもち、人間もこの神とイエスの信頼を人間同士でも保とうとする、そこに教会があるのです。
 この新しい1年も、ピスティスを違いに保ちつつ、良い教会生活を送ってまいりましょう。

 




 

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