礼拝説教ダイジェスト:2021年

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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
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【メッセージの要旨】

「運転が 示すあなたの お人柄」  
聖書:テモテへの手紙(一)1章8-11節(健全な教えに反すること)
2021年11月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 テモテへの手紙(一)の1章には、一見同性愛を罪に定めているような記事があります。しかし、これはまず言葉の正確な翻訳ではない上に、現代の同性愛というものが存在しなかった時代ー私たちとは性というものの捉え方が全く違っていた時代のことを知らないで、勝手に私たちの時代のセクシュアリティの感覚を読み込んだ読み方なのです。
 私たちは既に聖書に書いてあることに反した生き方をしています。女性の牧師がおり、豚肉も食べています。なのに、どうして同性愛だけがことさらに「聖書に基づけば罪だ」と責められるのでしょうか。
それは、聖書に書いてあるからではなく、自分の中にある差別意識を正当化するために、聖書を利用しているだけだからです。

「法を破ってでも人を守りたかった人の話」  
聖書:マルコによる福音書2章23−28節(麦の穂を摘む)
2021年10月31日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝宣教
  「人のために安息日があるのか。安息日のために人があるのか」というイエスの言葉は、他の過激な言葉に比べて、至極真っ当でわかりやすいことをおっしゃっているように感じます。しかし、それは現代に生きている世俗的な信仰の感覚であって、イエスの時代にはそれはとんでもない冒涜的な発言だったのです。
 麦の穂をむしり取って食い始めたイエスの弟子たちは、それほどまでに飢えて倒れそうだったのでしょう。それを見ていて「律法違反だ」などと非難する人々の言っていることは、正しいけれども間違っている。人の命より法を優先する冷たい真面目さです。
 しかし、イエスは「安息日の主」として、全責任、全批判を受け止める覚悟で弟子たちを守ろうとしたのでした。そんなイエスについてゆくために、私達は何をすればよいのでしょうか……。

「ありのままのあなた、これからのあなた」  
聖書:ルカによる福音書10章25-37節(善いサマリア人)
2021年10月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「善いサマリア人」のたとえ話では、律法の専門家とイエスの対話の中で語られる話です。
 この律法の専門家の模範解答に対して、イエスは頭から否定してかかるわけではなく、憤慨して口撃するわけでもなく、とりあえず肯定します。そしてそれを言葉だけではなく実行するようにと促すだけです。
 しかし、この質問者は自分で考えるのではなく、応用例まで先生に求めようとするのです。そこでイエス先生はちょっと本気になって、皮肉の効いたたとえ話をして、やはり最後は実行するようにと告げるだけです。どう実行するか、どう応用するかは本人が考えて取り組むしかないのです。
 このようなイエスを見ていると、イエスはなかなか良い教師なのではないかと思われてきます。イエスの問いには細かい正解がありません。イエスの言葉は「問い」なのです。どのように「応答」するかは、私達自身が自分で試行錯誤して求めるしかないのです。

「裏切り者の食卓」  
聖書:ルカによる福音書22章31-34節(世に倣ってはなりません)
2021年10月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会世界聖餐日礼拝説き明かし
 聖餐は裏切り者の食卓です。主の晩餐の参加者は、皆イエスを裏切って逃げました。なかでも、シモン・ペトロはイエスに「牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と言っておきながら、「そんな人は知らない」と言ったのですから、その罪と責任は重いでしょう。
 しかし、福音書記者ルカは、そのようなペトロが「戻ってきたら兄弟たちを力づけてやりなさい」という言葉をイエスに言わせています。それはペトロたちが戻ってきて教会の要職につくことをイエスが許したかのようです。このようなことを書いているのはルカだけです。
 ここに罪を犯して、逃げ去り、迷っている人をこそ拾い上げようとする神を描くルカの優しさがあります。
 ルカの描く神は、私達が不敬虔で罪深く、神の敵であったときから、神の方から和解の手を差し伸べてくださる愛の神です。私達が神を愛する前から神の方から私達を愛してくださっているのです。
だから私達は、神を裏切ってさえも、大きな顔をして戻ってくることができるのです。この愛に応えて私達もできれば、変わりたいものです。

「心を一新して自分を作り直していただく」  
聖書:ローマの信徒への手紙12章1-2節(世に倣ってはなりません)
2021年9月19日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 パウロは「自分を生きた供え物としなさい。世に倣ってはなりません。心を新たにして、自分を造り変えていただきなさい。何が神の御心であり、何が善いことで、神に受け入れられ、また完全であるかを検証しなさい」と言っています。
 この言葉を読むと私は、高校生時代、教会で「世に証を立てなさい」と厳しく教えられたことを思い出します。そのように言われた時、何か立派な人間であるかのように振る舞わなくてはならないのではないかと、気負いと胡散臭さの両方を感じていました。
 世に倣わないというのは、この世界に対して何か立派なことを示そうというのではなく、この世界を今動かしている、人の本来のあり方を損なう諸々の力に同化しないことというメッセージを引き出すことができるかもしれません。
 世に倣ってこしらえた鎧を脱いで、神が私達を「良し」とされた、その本来の自分に作り直していただくということが必要なのかも知れません。

「わたしにも心というものがあるのだ」  
聖書:マルコによる福音書1章40-45節(善悪の知識の実を食べる)
2021年9月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 聖書の中で「重い皮膚病」あるいは「規定の病」と訳されているのはヘブライ語で「ツァラアト」という言葉です。
 ツァラアトの患者は、後のハンセン病患者のように「汚れた者」とされ、忌み嫌われ、避けられ、社会から排除されました。
 しかし、イエスは断腸の思いから、矢も盾もたまらず、自分を抑えることもできずに思わずこのツァラアトの人を助けたいと思ったのでした。
 私たちが信じているイエスは、このような、思わず人を助けずにはおれない、救わずにはおれない思いにあふれた方なのです。

「混乱があって当たり前で一緒に生きてゆく」  
聖書:創世記3章1-7節(善悪の知識の実を食べる)
2021年8月22日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 神は「善悪の知識の実を食べると、死んでしまう」と言いました。実際には食べた人間はその瞬間に死んだりはしませんでしたが、次世代のカインとアベルの兄弟の間に殺人が起こりました。
人の善悪や正邪を決めようとする思いから、自分と他者の両方を「良し」とすることができず、相手を否定することによってでしか自分を肯定できなくなる。すなわち、善悪の知識が人を殺すということが起こってしまうわけです。
 世の中の争いごとの根底にあるのは、常に「あいつか俺か」という二者択一の発想です。自己を受容することができず、常に他者を貶めることでしか自己承認できなかったり、逆に自分の存在を悪、または間違ったものとするために、自分が生きてゆくということ自体も肯定できなかったする場合があります。これらの根底にも、善悪を知ろうとする人間の本性が潜んでいます。
 私達はこの善悪の知識を捨て去り、混乱と忍耐と葛藤があっても、互いに異なるままで一緒に生きてゆく。そんな教会であろうと願っているのです。

「苦しい時の神頼みでええじゃないか」  
聖書:マタイによる福音書6章5-6節(祈るときには)
2021年8月15日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「祈るときには、奥まった部屋で隠れて祈りなさい」と聖書には書いてあります。誰にも見聞きされないところで、神様にだけ話しなさいということです。
誰にも見聞きされないところで、自分のために祈る、その祈りは素っ裸の心による、何も嘘も飾りもない祈りです。
祈る前から神様は私達のことをよくご存知なのですが、それでも言葉に出すことによって、私達は私達自身の思いを明らかにすることができます。
そして、自分自身の心を見つめ直すことによって、進むべき方向を見出すことができるのです。
ですから、「苦しい時の神頼み」でよいから、皆さん祈りを大切にしましょう。

「偽りの愛国心ではなく」  
聖書:詩編78章1-8節(神に不忠実な世代)
2021年8月1日(日)日本キリスト教団徳島北教会平和聖日礼拝説き明かし
 今日の聖書の箇所は、イスラエル民族が自分たちの先祖のある世代が、「かたくなで逆らう世代、心が定まらず、霊が神に不誠実な世代」であったと告白しています。そしてそのような世代に自分たち以降の世代がならないようにと教え里いている詩編です。
 かつて徳島のキリスト教伝道に35年間力を尽くしたチャールズ・A・ローガン宣教師は、この聖書の箇所を注解して、「どの国も国民に真実の歴史を教えないが、この詩編は過去の過ちを認め、伝えようとする優れた聖句である」と述べました。
 私たちの日本キリスト教団も太平洋戦争中に、平和の神を裏切って、戦闘機を国に献納するために全国献金を行った過去があります。
その次代を生き延びるために、どうしても避けられない行為だったかもしれません。「あの時はそうするしかなかったのだ」と言う人もいます。私たちがこれからその 状況に立たされたとき、同じように国家に追従してしまうかもしれません。
 そうなってはならないからこそ、現在から政府を監視し、私たち国民の意見を届けなくてはならないのではないでしょうか。

「心の貧しい者は幸いか」  
聖書:マタイによる福音書5章3節(心の貧しい者は幸い)
2021年7月25日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 有名なマタイによる福音書の山上の説教にある「心の貧しい者は幸いである」という言葉です。これは大元はルカによる福音書にあるような、「貧しいものは幸い」という形のほうがイエス自身が言った言葉に近いとされています。また、「心の貧しい者」という言葉も「へりくだった者」、「謙遜な者」という解釈をされることが多いです。
 しかし、ここであえて日本語の感覚で「心が豊かでない」、人の気持ちもわからず、何が悪いことかどうかもわからない人間こそ幸いだと言ったらどうでしょうか。心が貧しい者こそが豊かな愛で育て直されなくてはいけないのと思うのは私だけでしょうか。

「神に必要とされた私たち」  
聖書:創世記1章27節(人は神にかたどって創造された)
2021年7月18日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 人が神にかたどって創造されたとはどういう意味でしょうか。それは人は複数で生きるもの、誰かと助け合って生きるものとして創造されたということではないかというのが、今回の説き明かしです。
 そして、人が人と共に助け合って生きるものであるのと同じように、神も私たち人間が必要だから造ったのではないかと思われるのです。
 私たちが神を必要として生きるのと同じように、神も私たちを必要としておられ、そのために神のパートナーとして生きるよう造られたのではないかと思うのです。
 いかがでしょうか。

「変わるべきは男か」  
聖書:サムエル記上1章1−20節(サムエルの誕生)
2021年7月4日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 預言者サムエルの誕生の物語には、ハンナとペニナという女性、そしてこの2人の夫であるエルカナが登場します。ハンナが子どもを産むことが出来ずにいるので、ペニナは彼女を苦しめ、エルカナは慰めているという構図が描かれています。
 そこに表れているのは、家系を存続させるために男児を産まなくてはならない女性の苦しみと、その社会風潮に対して戦うこともできず慰めているだけの男性という、バランスの悪い人間関係です。
 「女性は子を産む機械」という極端な発言が、現代の日本の男性(時にはそれに媚びて生きざるを得ない女性)によって飛び出ます。3000年前の書物に出てくる登場人物でもそこまでははっきりとは口にしません。しかし、そのような差別が、白昼堂々地位も名誉もある人間から発される。これが現代日本の現実です。
 変わるべきは誰なのか。そのことを、このサムエル記の始まりの物語から考えてみましょう。

「雲の柱と火の柱が我らを導く」  
聖書:出エジプト記13章17−22節(雲の柱、火の柱)
2021年6月20日(日)日本キリスト教団徳島北教会創立75周年記念礼拝説き明かし
 徳島北教会は今から75年前、1946年6月30日に創立しました。当初の名前は「徳島兄弟教会」でした。その後、数々の牧師や宣教師が奉仕し、それぞれの牧師の個性が反映された牧会がなされてきたと思いますが、この教会において大切なことは「牧師がリーダーシップを取る」よりは、信徒による「自立した教会」となることであろうと思われます。
 それは、エジプトを出たイスラエルの民を導いたのが、必ずしもモーセ個人の力量やカリスマであったというのではなく、雲の柱、火の柱を民の先頭に立たせた神の計らいであったということにも教えられることです。
 そしてそのイスラエルの民は歴史を背負って旅をしています。長い歴史の物語を共に生きる民なのです。教会も歴史の物語を生きる民の共同体です。古くからこの隊列に加わっている者、最近加わった者、いろいろいますが、皆でこの物語を共に生きているのです。
 これからも神の台本による物語を、共に生きてまいりましょう。

「女は教会で黙ってろ?」  
聖書:コリントの信徒への手紙(一)14章34−36節(婦人たちは教会では黙っていなさい)
2021年5月30日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 パウロの手紙にある「婦人たちは教会では黙っていなさい」という言葉は、パウロによる女性差別が如実に表れた言葉であるとして、以前から激しく糾弾されてきました。
 確かにパウロには、時代の限界だったのか、女性を蔑視する傾向は否定できません。しかし、当時の風潮でどんなものであったかを考えれば、むしろマシだったのかもしれません。
 それどころか、パウロの手紙の書かれた順番を調べてみると、最初は女性を軽んじていたパウロが、次第に女性の存在の大きさを認め、称賛してやまない人間へと成長していった様子がわかるのです。
 パウロとように成長する人間でありたいものです。

「聖霊ってなんですか?」  
聖書:テサロニケの信徒への手紙(一)5章23−24節(霊と心と体)
2021年5月23日(日)日本キリスト教団徳島北教会ペンテコステ礼拝説き明かし
 ペンテコステはイエス様亡き後、弟子たちのところに聖霊の火が降り、宣教を始めた日とされています。
けれども「聖霊」って何でしょうか? 三位一体と言われる神さまの中で、「神様」「イエス様」はなんとなくわかるような気はするけれども、「聖霊」についてはよくわからないという方が多いのではないかと思います。
 テサロニケの信徒への手紙(一)5章23節は、「霊と心と体」という言葉があり、古代人の人間のとらえ方がよく表れています。体(ソーマ)は肉体のことですね。心(プシュケー)は心で、これは自分で理解でき、ある程度自分でどうにかなる心の部分です。そして霊(プネウマ)は自分の力でどうこうできるものではないけれども、自分に大きな影響を与えてくる見えない力を指します。そして、その見えない力が私たちに新鮮な活き活きとした息吹となって満ちるとき、それを聖霊といいます。

今回はそんな聖霊についてお話してみました。

「愚か者のやぶれかぶれ」  
聖書:コリントの信徒への手紙(二)10章9−11節(会うと弱々しいパウロ)
2021年5月16日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会&徳島北教会オンライン合同礼拝宣教/説き明かし
 コリントの信徒への手紙(二)の10章から13章は、「涙の手紙」と呼ばれることがあります。コリントの教会と微妙な関係にあったパウロは、コリントの信徒たちの間で、どんどん自分の評判や信頼が落ちてゆくのに対し、焦りと憤りを隠せません。
 「手紙は重々しく力強いが、会ってみると弱々しく話もつまらない」という言葉は、実際にパウロの耳に入ってきた彼への不評でしょう。この言いぐさがどんなに彼を傷つけ、苦しめたでしょうか。
 しかし、このやぶれかぶれの恨み節に始まった「涙の手紙」を書きすすめるうち、パウロは次第に自分の苦難の人生が、弱い人を見ると自分も弱くなり、躓く人を見ればかえって心が燃えるという自分の中の力の源に気づいてゆきます。そして「私は弱いときにこそ強いのだ」という告白にまで導かれてゆきます。
 弱い者、愚かな者、不器用で格好悪い生き方しかできない者。そういう人間をこそ、神は選んで用いようとします。それは楽な道ではありません。神さまさえそんな選びをするとは、愚かなのです。
 しかし、その愚かさの極致に究極の賢さがあり、その歩む先に救いがあるのです。

「神さまは水をやったり肥やしをやったり」  
聖書:ルカによる福音書13章6−9節(実のならないいちじくの木)
2021年5月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 この物語に出てくるいちじくの木は、なぜかぶどう園に植えられています。このことは、まるで場違いな場所に生きているような人間の姿を表しているような気がします。その場違いな場所で、花も実もつけることができずに悩ましい毎日を送っている人間です。
 ご主人さまはそんないちじくの木を「実をつけないから切り倒せ」と言います。しかし、園丁は「来年まで待ちましょう」とご主人を宥め、この木をかばいます。この園丁の姿に、私たちは神やイエスの愛を見ることができるのではないでしょうか。
 私たちも皆が花も実もある人生を送っているわけではありません。観葉植物のように派手さもなく、ただそこにいるだけという人もいるでしょう。強く、速く、多くを求める現代社会において、取り残されがちな人もいるでしょう。
 しかし、神の目から見れば、その弱く、時間のかかる、少ないもので生きる人も愛すべき1本のいちじくの木なのです。愛されている、守られているということを信じて生きたいものです。

「喜びにあふれた旅を始めよう」  
聖書:使徒言行録8章26−40節(フィリポとエチオピアの宦官)
2021年4月18日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 エチオピア人の宦官は、ユダヤ人から見れば「異邦人」であり「性的マイノリティ」であるという二重の差別をぶつけるべき存在です。
しかし、ステファノと同じ7人の福音宣教者の1人であるフィリポは、そのような人と人を分け隔てする壁を軽々と超えて、エチオピア人の宦官と一緒に聖書を読み、イエスの福音を説き明かしました。

 イエスの福音は、民族の壁、セクシュアリティの壁を越えて、すべての人が分け隔てなく神に愛されているということを証ししています。それをフィリポはこのエチオピア人の宦官に伝えました。宦官はありのままの自分がそのままで神に愛されていることを知りました。
 そしてこの宦官は「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。私たちも喜びにあふれた旅を続けたい。またこれからでも始めてゆきたいですね。

「どこにも神などいるものか」  
聖書:マルコによる福音書16章1−8節(空っぽの墓)
2021年4月4日(日)日本キリスト教団徳島北教会イースター礼拝説き明かし
 イースターおめでとうございます。
 しかし、聖書によれば、イエス様は十字架につけられたままの姿で起こされたのだと見る読み方もあります。もし、イエス様の復活がそのようなものであるとすれば、イースターとは単に「イエス様がよみがえられた、おめでとう!」と単純に喜んでいいものとは言えないものではないのでしょうか。イエス様が今も私たちと苦しみを共にしておられるということは、笑い事ではすまされないのではないでしょうか。
 実際、病気が治った、人生の難題が解決した、といったことを「救い」だと言う人もいるでしょう。それはそれで良いこと、ありがたいことなのです。しかし、イエス様が寄り添おうとされたのは、手を尽くしても助からない人、どうしようもない苦悩の状態に置かれた人なのです。
 そんな人と一緒に苦しみ、一緒に死ぬためにイエス様は十字架につけられ、そのままの状態で今も、「助からない人」と共に苦しみを共にしておられるのです。
 それがイースターの意味、救いのないところに救いがあるという逆説なのです。

「イエス様には失望いたしました」  
聖書:マルコによる福音書15章21−32節(キレネ人シモン)
2021年3月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会受難節礼拝説き明かし
 レントも大詰め、イースターまで2週間です。ここで、イエス様のご受難について深く思いをはせる時としたいと思います。
 ここでの登場人物はキレネ人シモンという人です。この人は、たまたまそこを通りかかったことをきっかけに、イエス様の十字架をイエス様と一緒に担ぐことになってしまいました。しかし、そのことが彼と彼の息子たちの人生を決定的に変えてしまいました。
 イエス様はなぜ十字架につけられることになったのでしょうか。なぜ人々はイエス様を殺さなければ気が済まないと思うことになったのでしょうか。
 それはイエス様にかけられた大きな期待と、イエス様がその期待を見事に裏切ってしまったことによるのです。
 イエス様のご受難の背景にある事情を読み解き、このイエス様の死があなたにとってどんな意味を持つのかに心を巡らせてみましょう。

「そんな人は知らない」  
聖書:マルコによる福音書14章66−72節(ペトロ、イエスを裏切る)
2021年3月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 皆さんは人を裏切ったことがありますか?
 ペトロはイエス様の一番弟子でしたが、イエスが「あなたたち全員私を見捨てて逃げるだろう」と言った瞬間に、「たとえ一緒に死なねばならなくなっても、あなたを見捨てません」と言いました。そんなことを言うので、かえってこの人の裏切りの罪は重いと言えるでしょう。
 福音書と使徒言行録を見る限り、ペトロが原始教会の指導者として率いてゆく前に、裏切りを懺悔したなどということは書かれていません。彼は、イエスの死後、口を拭ってイエスの弟子たちのところに戻ってきましたが、その前に強い強い懺悔があったのだ、というのは想像の産物でしょう。
 ヨハネの福音書は、このようなペトロに対して、やがて彼自身がイエスと同じ苦しみを味わうことになるであろうことを(事後から)予言してます。
 それはペトロにとっては厳しい結末ではあるでしょう。けれども、それは「私と一緒に苦しもう」というイエス様からの歩み寄りです。
 苦痛あるいは絶望においてこそ、イエス様の苦しみと自分の苦しみは重なり合うのだということを、聖書はペトロを通しておしれてくれるのです。

「信じてはいなかった。だが助けてはくれないか。」  
聖書:マルコによる福音書9章14−29節(霊に取りつかれた子を癒す)
2021年2月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 この物語はイエス様が亡くなってから40年近く後の、福音書記者マルコによるエルサレムの12弟子が創立した教会に対する批判であると読むのが良いでしょう。
この教会の人たちは、議論ばかりして、実際に病気や障害や問題行動などで苦しんでいる親子の手当てをするでもなく、何も力を発揮できないでいるではないか、という批判なのです。
イエス様は「(神さまを、イエス様を、そして人間同士が)信じる気持ちをしっかりと持てば、不可能なことはないのだ」とおっしゃっています。
この物語は私たちの教会が陥りがちな問題を鋭く突いていると言えるでしょう。「祈りによらなければ」とイエス様はおっしゃいます。けれども私たちは、苦しむ1人の人のために真摯に祈るということさえも怠っているのではないでしょうか。

「礼拝で政治の話はやめてください」  
聖書:マルコによる福音書15章1−15節(ピラトによるイエスへの尋問と死刑判決)
2021年2月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「礼拝説教では政治の話はしないでください」という声はよく聞かれます。確かに牧師が説教の中で、特定の政党への支持を呼びかけたり、特定の政治思想を説いたりということはよくないと思います。
ただ、政治の色が一切ない聖書の話をしろと言われると、ちょっとそれは無理な注文ではないかなと思います。
なぜなら、イエス様は実に政治的な暴虐の中で殺されていった方だからです。イエス様の生涯と死について語るとき、当時の政治について話さないわけにはいきませんし、またそれは現在の私たちが生きている政治的状況と無関係に語っても意味がありません。
今日は、そのような意味で興味深いシーンを引用しながら、そのことを考えてみましょう。

「もともとあった分かち合い」  
聖書:使徒現行録17章1-9節(テサロニケでの騒動
2021年1月24日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 私たちの教会(徳島北教会)は、「おたくの礼拝はまるで礼拝というよりは聖書研究会ね」と揶揄されます。特に説き明かし(説教)の後、分かち合い(話し合い)があるために、聖書研究会のような意見交換があるので、「礼拝というより聖研だ」というのです。そして当然、聖研より礼拝の方が尊いと思っていますから、「まるで聖研」というのは、「あんなものは礼拝ではない」と軽蔑しているのです。
 確かに、「礼拝で言葉を発するのは牧師と司会者のみ。参加者は讃美歌以外は声を出してはいけない。話してもいけない。笑ってもいけない」と信じ込んでいる信徒は多いです。
 けれども、キリスト者と呼ばれ始めた頃の最初のキリスト者たちは、果たしてそんな礼拝しかあり得ないと思っていたでしょうか? また、私たちはプロテスタントですが、宗教改革者のマルティン・ルターが原点に帰ろうとした礼拝の形とは、単なる講演会のような礼拝でしょうか?
 そのあたりを、丁寧に使徒言行録を読むことで、思いを馳せてみたいと思います。

「のろさに付き合う神さま」  
聖書:詩編23編(主は私の羊飼い
2021年1月12日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年礼拝説き明かし
 新年明けましておめでとうございます。
 昨年、2020年は皆さんにとってどんな1年でしたか? 何を言っても「コロナ」の話題が私たちの頭から離れることがなかったのではないでしょうか。
 このコロナのおかげで、私たちの教会の歩みも随分鈍くなったのではないかと思います。
 しかし、兎にも角にも私たちは、自分たちに可能な限りの方法を使って、礼拝を死守してきました。これからも私たちは、春夏秋冬絶えることなく、礼拝を行うでしょう。礼拝は教会の中心だからです。
 今日は、詩編23編の特に4節に注目してみたいと思います。ここには「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」とあります。杖は私たちが倒れそうになった時、支えてくれます。しかし、鞭は私たちが惰眠を貪りそうになる時に、「起きて、歩きなさい」と促してくれるのです。
 私たちの歩みは「牛歩」かもしれませんが、それでも「ゆっくりと、しっかりと」歩み続けることが大切です。神さまはこのゆっくりとした歩みに、鞭と杖を携えて付き添ってくださいます。それを信じて、この新しい年も進んでまいりたいと思います。の新しい1年もゆっくりと、しっかりと歩んでいきましょう。

 




 

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