礼拝説教ダイジェスト:2022年

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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
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【メッセージの要旨】

「贖いってなんですか~苦しみは独りだけのものじゃない」  
聖書:マルコによる福音書10章35-45節(ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願い
2022年3月20日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 ある時、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスに、「栄光をお受けになるときには私たちを右大臣・左大臣にしてください」とお願いしたそうです。
 それに対してイエスは、「あなたがたは自分が何を言っているのかわかってない」と答えます。
 一説によれば、本当にイエスの右左についたのは、イエスと共に十字架につけられた2人の犯罪人だったのではないのかともいいます。
 イエスと同じ杯を飲み、同じバプテスマを受けるというのは、イエスと共に苦しむということなのでしょう。
 イエスが自分と同じように十字架につけられた犯罪人に、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言ったということはよく知られていますが、これは「あなたと共に苦しむことができて、私は嬉しいんだよ」とイエスが言っているようにも受け取れませんでしょうか。
 イエスは私たちの苦しみを魔法のように取り去ってはくれないけれども、少なくとも私たちの代わりに苦しもうとして、一緒に苦しんでくれた。この愛は信用してよいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

「義ってなんですか~人間の愚行と神からの和解」  
聖書:ローマの信徒への手紙3章21-26節(キリストの贖いにより義とされる
2022年3月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 レントに入りました。悔い改めの季節です。
 今私たちが最も悔い改めなくてはならない罪といえば、それは戦争ではないでしょうか。罪とは「的はずれ」という意味ですが、それは神との本来の関係が崩れて、的を外してしまっている状態のことです。言い換えると「不義」な関係のことです。逆から言うと「義」というのは神との「ちゃんとした関係」のことと言えるでしょう。戦争というのは、この神との「不義」な関係から出てくる「悪」の最たるものです。
 今日の聖書の箇所では、神の方から神自身が義を示したと書かれていますが、これは言い換えると「神自身のほうから神と人間との『ちゃんとした関係』を示した」と読むことができるでしょう。いわば人間は和解金なしで和解をしてもらったというわけです。
 しかし、イエスの弟子たちの解釈によれば、その神と人間との和解のためには、いけにえとしてイエスが十字架にかかって血を流したということが必要でした。私たちはこのイエスの犠牲を二度と繰り返さず、その血を無駄にしないために、私たちの神との「不義」な関係と、的はずれな生き方を悔い改めないといけません。
 この世の人間性を踏みにじり、命を奪うあらゆる暴力を生み出す「不義」と「的はずれ」を深く悔い改めるレントにしなければなりません。

「『わたしはある』それは誰にとっても同じ」  
聖書:出エジプト記3章13-14節(わたしはある/わたしはいる
2022年2月20日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 モーセに名前を聞かれた神さまは「わたしはある/わたしはいる」と答えました。これは名前ではありません。名前をつけられるということを神さまは拒絶しているのです。名前のある静かな存在ではなく、とにかく「わたしはわたしとして存在する」という意志だけがそこにあるのです。
 これは私たち人間が「神の似姿」として造られていることと関係があります。私たち一人ひとりも「わたしはある/わたしはいる」という感覚があります。それを想像し合い、共感し合うことが共に生きるということに大切になってきます。
 そして神さまはそんな私たちの造り主ですから、なおさら私たちの「わたし」に共感してくださいます。「わたし」が喜ぶ時、「わたし」が悲しむ時、共に喜び、共に悲しんでくださるのです。
 もっと言えば、私たち一人ひとりの「わたし」が神さまの「わたし」を作っています。私たちは神さまの一部なのです。ですから、本当の意味で良く生きることによって自分を喜ばせることは神を喜ばせることになるのです。

「筋書き通りではないところに神の筋書きがある」  
聖書:創世記45章1-8節(ヨセフ、自分の正体を明かす
2022年2月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 ヨセフ物語は、創世記の族長物語の中でも、おそらく最もドラマティックで感動的なドラマではないかと思われます。
 ヨセフは自分が望んだわけでもない逆境に次々に襲われ、それに懸命に対処しながら何とかして生き延びてゆく。この運命の予想もつかなさに、私たちの人生と似たところがあるのではないでしょうか。
 ヨセフは兄弟たちに裏切られ、捨てられて、恨みとトラウマを抱えて生きているわけですが、最終的には赦しと和解を果たします。それを可能にしたのは何だったのでしょうか。
 そして、一寸先もわからない私たちの人生において、神の導きを感じるようになるのはどのような時なのでしょうか。

「来た時よりも美しく天に帰れるか」  
聖書:創世記1章28-31節(産めよ、増えよ、地に満ちよ
2022年1月30日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這う生き物をすべて支配せよ」(創世記1章28節)という言葉は現在では「治めよ」という言葉に翻訳され直しています。
 しかし、人類は長年、自分たちが「支配する」種であると解釈してきました。そのために私達は最近になって、自分たちの種が「持続可能」なのかをやっと危機感をもって考えるようになりました。聖書の読み方ひとつで、人類の命運を分けてしまう問題があります。
 そのことを皆さんはどのように捉えてくださるでしょうか?

「新しいエピファニーを待ち望もう」  
聖書:マタイによる福音書2章1−12節(占星術の学者たちが訪れる
2022年1月9日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年礼拝説き明かし
 今日は1月6日エピファニー後の最初の日曜日です。西方教会系の教会ではクリスマスは1月6日までで、この日を公現日(エピファニー)と呼びます。公現日、すなわち公に現れた日というのは、東方のマギたちが訪ねてきて、初めて聖家族以外の人の前にイエスが姿を現したことを記念する日です。
 と同時に、そこから転じてエピファニーとは「自分の人生を変えるような人または出来事との出会い」のことをも指します。
 それはギリシア語でいう「時(カイロス)」という神の介入とも言えます。
 この新しい1年の始まりに、皆さんの人生を変えるような、あるいは大きな意味を与えるような人や出来事との出会い、神からのカイロスの介入があることを待ち望みながら生きてゆきたいと思います。

 




 

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