「下世話なQ&A」の入口に戻る

 Q. 洗礼を受けなくてもクリスチャンになれますか?
 キリスト教にはとても興味があり、自分でも神さまやイエス・キリストを信じているんじゃないかと思うことがよくあります。
 しかし、家庭の事情で、自分が教会に行ったり、洗礼を受けるのは、反対を受けそうで、無理な気がします。
 また、洗礼なんて言うのは形式だけのことで、心の中で、神さまを信じていれば、実質的にクリスチャンであるのと同じではないかと思ったりもするのですが、違うでしょうか? 洗礼をうけなくても信仰があるだけで、クリスチャンであると言えるのではないでしょうか? そのあたりを教えていただければ、ありがたいです。


(いつぞやか、何人もの方から受けた質問より)

 A. なれません(笑)。
クリスチャンとは誰か?

 「クリスチャン」というのは英語ですが、これはもともとギリシア語の「クリスティアノス(単数形)」=「キリストの者」という言葉が語源です。そしてこの複数形が「クリスティアノイ」=「キリストの者たち」ということで、これがのちにキリスト教と呼ばれるになったグループのことです。
 他にも「ナザレ人の分派」と、この初期のキリスト教のグループを呼んでいた人々がいたようですし、また本人たちは「この道の者」と互いに自称していた時期もありましたが、次第におそらく「キリストの者たち」という呼ばれ方をするのが定着していったようです。

クリスチャンの基準

 で、何をもってクリスティアノイの仲間として認定したのかというと、やはり洗礼を受けたか受けていないかであったようです。
 実は後の方でももう少し詳しく述べようと思っていますが、どうやらイエスは洗礼を授けていなかったようなので、イエスが亡くなった後、どこからかイエスの弟子の集団は自分たちのメンバーシップを確認するために洗礼を始めたのでしょう。
 しかし、どの時点から洗礼を入会儀式として使い始めたのかははっきりしていません。
 それでも、50年代初期からパウロが洗礼をアナニアという人から授けられてクリスチャンのメンバーになったとルカが使徒言行録で書いているので、これがもし正しいとしたら(というのは、ルカの話にもかなり色々と脚色があるので)、イエスが亡くなってから20年の間に、洗礼の活動が行われていたことになると思います。
 そういうわけで、洗礼はかなり早い時期にクリスチャンのグループの入会儀礼として取り入れられるようになっていたし、その後も洗礼がクリスチャンになるしるしとされ、キリスト教が国教であった国々でも、まずは生後、幼児洗礼を受けてクリスチャンとすることが大切なこととされていましたし、現在でも洗礼を受けるとキリスト教会の「会員」とされるので、洗礼を受けること=クリスチャンになること、と考えるのが一般的な考え方であると言って間違い無いと思います。

クリスチャンであれば神を信じているとは限らない

 ただ、気をつけないといけないのは、「クリスチャンである」ということと、「神・キリストを信じている」ということとは同じではありません。
 洗礼を受けていたとしても、神やキリストを信じていない人はいっぱいいます。
 日本で多いパターンは、洗礼を受けるときは信仰にあふれていたような気がしていたけれども、何年か経ってみると、なんだか若気の至りだったような気がして冷めてしまったという人。ご本人はキリスト教を「卒業した」と言ってみたりしますが、キリスト教のような壮大な宗教を学び切ることなどできるはずがないので、要するに「中退」した人。これが日本人の場合多いです。
 また、いわゆる「キリスト教国」でも(と言っても、今キリスト教を国教にしているのはイングランドくらいでしょうが、そのイングランドでも個々人が何を信じるかは自由のはずですが)、生まれたらもう七五三みたいに、必ず幼児洗礼を受けさせたりして、国民のほとんどはクリスチャンだという国もありますが、だからといって、この人たちがみんな神を真面目に信じているかというと、そうでもないだろうと思うのです。まあ、「困った時の神頼み」くらいは、どこの国の人とも同じようにしたりはするでしょうけど。
 日本のように、クリスチャンが少数派で、クリスチャンになること自体が特別なことのように思われがちなところでは、クリスチャン=信仰深い人と思う人も多いでしょうが、世界的に見れば、クリスチャン=信仰深い人というわけではない例のほうが多いと思います。

洗礼を受けなくても信じている人もいる〜クリスチャン・アライ

 その反対に、洗礼を受けていなくても、神やキリストを信じて生きている人もそれなりにたくさんいるでしょう。
 例えば日本では宗教を意識しながら生きる人は少数派ですし、お寺や神社、お墓や仏壇などと深い精神的つながりを感じていたり、それが家族の絆の基礎になっていたりする場合も多いので、そんな環境ではなかなか個人が教会に通ったり洗礼を受けたりということは難しい。
 けれども、聖書は本屋でもネットでも買えるし、教会に行かなくても本やネットでキリスト教の情報は大抵手に入ります。そうしてキリスト教に深い関心を持ったり、心の中で神やキリストを信じている人はいます。
 ですから、キリスト教の教会の洗礼を受けていなくても、信仰のある人はいるのです。
 こういう人は、洗礼を受けていないという意味では形式的にクリスチャンではありません。クリスチャンではありませんが、信仰者ではあるし、信仰者を擁護する人とも言えます。なんと言いましょうか、新しい造語ですが私は勝手に「クリスチャン・アライ」という呼び方でもしてみようかなと思います。
 そういうことを考えると、あえて強引に二分法で、「洗礼を受けてクリスチャンになる」ということと「洗礼を受けずに信仰を持ち続ける」ということのどちらが有意義かということも問題になってくるのではないかと思います。
 実際、クリスチャンでもロクな奴がいねえなという状況の中で、「洗礼を受けることにどこまでの意義があるのかね?」という疑問が起こってもおかしくないのです。

洗礼は救いだろうか?

 こういう疑問は教会にどっぷり浸かっている内部の人には、なかなか理解してもらえません。
 というのも、教会内部のクリスチャンたちには「洗礼」=「救い」という図式がかなりしっかりとインプットされているからです。「洗礼を受ける」=「救われる」と、何の疑問もなく思い込んでいるのです。
 しかし、これまでも述べてきましたように、洗礼を受けても(また、本人なりに信仰深いという自覚を持って、熱心に祈りを捧げていたりしても)実際の人間関係でロクでもないような迷惑を撒き散らす人物もおりますし、洗礼なんか受けていなくても、信仰のある人も、人格的に尊敬され、人間性豊かで、恵まれた人間関係の中で生きる人もいます。
 そうなると、「何が幸せか」、「何を救いなのか」、「そもそも救いとは何なのか」ということを考え始めると、何が何だかわからなくないます。
 もちろん、本人が救われたと思っていようがいまいが、救われる人間と救われない人間というのは神がもう決めてしまっているのだ、なんてスイスの誰か偉い神学者が考えたご高説を信じておられる方々もいらっしゃいます。
 しかし、今生きているこの人生の中で「救われた」という実感がなければどうしようもないだろうという考え方もあるわけで。
 洗礼を受けて救われたと思うことができるのであれば、洗礼を受ければ良いし、受けなくてもご本人が幸福に生き、人様に過度に迷惑をかけることがなければそれでいいじゃないかという気もするのですが。
 (「救い」とはなんだろう? という問いは、これ以上はここではお話ししない事にします。そこまで話を展開し始めると、一つのコーナーには収まりきらないでしょうからね)

なんのために洗礼を受けたいの?

 そこで、逆に問い直したいのです。「あなたはなぜ洗礼を受けたいのですか?」、「あなたはなぜクリスチャンになりたいのですか?」。
 そんなに難しい答を求めているわけではないのです。ただ、「なんでそんな事があなたに必要なのですか?」と聞いてみたいなと思うのです。

イエスは洗礼を授けたか?

 先ほど少し触れましたが、そもそもイエスは洗礼というものを人に授けた形跡がありません。
 イエス自身は洗礼者ヨハネから授けられたようですけどね。イエスが故郷を離れて洗礼者ヨハネの弟子になった時、ヨハネは洗礼を受けることが救いのしるしになると教えていたようです。彼は「もう直ぐこの世の終わりが来る」、「ユダヤ人だからといって自動的に救われるわけではないんだ。この世の終わりに生き残りたいと思うものは、罪の赦しの洗礼を受けなさい」と教えて、人々に洗礼を授ける運動をしていました。
 彼の洗礼を受けたということは、イエスも、一時期はヨハネの教えを信じようとしたということでしょう。
 しかし、後にヨハネが逮捕され、処刑されてから、イエスは独自の福音宣教の活動を始めました。その時以降、イエスは人々の病や障害を癒したち、身分や地位を超えた掟破りの食事会を持ったりといった活動はしましたが、洗礼を授けたとは一言も聖書に書いてありません。
 洗礼がそんなに大事なことなら、イエスが洗礼を授けたと一行くらい書いてあっても良さそうなものですが、そんな記述は一切ありません。

洗礼は必要不可欠ではない

 イエスはキリスト教会の正確な意味での創始者ではありませんが、キリスト教の出発に決定的な影響を与え、この運動の根本に存在する人物です。その彼が洗礼を授けることを拒絶していたというのは、歴史的には押さえておかなくてはいけない大切な点だと思います。
 つまりイエスにとっては、洗礼は必ずしも必要不可欠なものではないということなのです。
 なぜ彼が洗礼を人に授けなかったのか、正確なことはわかりません。
 ただ、一時は洗礼者ヨハネに私淑したものの、彼の死後、イエスがとった行動は、ことごとくヨハネの方針と反したものになっています。
 例えば、ヨハネは首都エルサレムから離れて砂漠に本拠を据え、野人のような暮らしをしながら野宿の伝道者を通したのに対して、イエスは積極的に自分から人里を訪ねて行き、最後はエルサレムにわざわざ出かけて行っています。
 また、ヨハネは未来の裁きを唱えて、「このままだとお前たちは滅んでしまうぞ」と滅びの恐怖で人を信じさせようとしますが、イエスは現時点で既に罪人であるとか病人であるとかいった形で裁かれてしまっているとされた人に対して、無条件に「あなたは赦される」と説いて回りました。
 そして、今回の本題に関して言うと、ヨハネは「この悔い改めの洗礼を受けないと、罪のために裁かれるぞ」と説きましたが、イエスはそういった洗礼を必要としなかったのです。
 イエス自身が洗礼について詳しいことを述べていないので、彼が何を考えていたのかはわかりませんが、少なくとも彼はヨハネの洗礼に共感できないものを感じていたのは確かでしょう。
 従って、重ね重ね言いますが、イエスの視点から見れば、洗礼は救いや赦しのためには、別段必要不可欠なものではなかったのです。

イエスにならって洗礼を受けるのでもない

 そういう意味では、近代ドイツでパイプを燻らせながら世界最大の教義学を書いた大先生も、「洗礼を受ける根拠は、イエスがそのことから神と人間に奉仕する生き方を始めたことを重く見て、これに習い、倣い、イエスについて、イエスと共に生きようとする始まりのしるしとして行うということではないか」というようなことを言っていたようですが、聖書学的には、さっきも言ったように、イエス自身が洗礼に意義を認めず、むしろ拒否していたように思われるがゆえに、ちょっと完全には賛同しがたいと私は思っています。
 なかなかいい言葉だとは思うんですけどね、「イエスにならって、イエスと共に生きよう。その始まりのしるし」としての洗礼というのは。

なぜ教会は洗礼を授けるようになったのか

 それではなぜ初期のキリスト教会は、イエスが拒絶していた洗礼を授けるようになったのでしょうか。
 先ほども申し上げましたように、ルカの言っていたことが仮に確かであれば、イエスの死後20年後までの間には洗礼を授けることが「ナザレ人の分派」の入会儀礼になっていたことになります。
 イエスが拒否していたのに、イエスの思いを裏切ってまで洗礼を実施したからには、それを実施する理由があったはずだと思います。
 いろいろと後付けの神学的な理由はさておき、まず簡単に推測できるのは、「この道の者」となるかどうかのメンバーシップをはっきりさせないといけない必要性が生じたのではないでしょうか。つまり、誰がこの道の者かはっきりさせたい。させないといけないと考えたのです。
 その場合、私が考えられる限り、2つの理由がありうると思います。
 1つは、周囲からの迫害。例えばイエスは犯罪者として処刑された人ですから、こんな人物の教えや活動を引き継いでいるとなれば、周囲から白い目で見られるだけでなく、危険視されたり、攻撃されたりするのは当たり前でしょう。スパイのような人間が仲間に紛れ込んだりする可能性もあります。ですから、信用できる人間かどうかを確認するために、洗礼とそれに先立つ誓約のようなものを必要としたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 もう1つは、初期の段階から「この道の者」の間に分派的対立が生じ、ある派閥が別の派閥に対して「洗礼を受けないと、我々の仲間ではない」と言い出して、自分たち以外の派閥の人間を締め出しにかかったという可能性です。

派閥の入会儀礼としての洗礼

 第1の可能性については、たいていの人なら考えると思います。ちゃんと言葉で信仰を告白し、公にクリスチャンとあることを宣言しない人は信用できないとして、本人に誓約をさせ、そのしるしとして洗礼を授けるというものです。
 第2の可能性については、私の人間性が歪んでいるからでてくる発想かも知れません。しかし、これまでのキリスト教2000年の歴史を概観してみると、キリスト教が何か儀礼的なものや教義的なもの、あるいは正典の決定などをする際には、何かしら「自分たちは正統派だ」と主張したい、言い換えれば「あいつらは違う」という排外的な意図が働いている場合が多いように感じるのですね。
 ですから、洗礼もそういうことをする仕組みとして、洗礼者ヨハネの活動を記憶していた者たちが引っ張り出してきたのではないか……という想像が働いてしまうわけです。
 ごくごく初期の「この道の者」たちの間で、派閥的対立があったことは近年では明らかになってきています。
 例えば、使徒言行録を読むと、使徒たちの伝道活動において、先に洗礼を授けたグループの洗礼を無効なものとして(主イエスの名による洗礼)、もう一度「こちらが正しい洗礼だから」と言ってやり直す(聖霊による洗礼)といったライバル合戦が行われていることがわかります(使徒言行録8章参照)。
 また、パウロとアポロという2つの使徒が勢力を競っていたことも明らかです。パウロの伝道旅行のルートも、ライバルが先に伝道に成功した街を避けて通ったりしながら、まるで囲碁のようにエリアの拡大を図っていたこともわかってきています(佐藤研『パウロの旅』参照)。
 福音書の研究からも、ルカの福音書に反映されるようなペトロを第一の使徒と考えるグループと、ヨハネの福音書に反映されるようなマグダラのマリアを第一の使徒と考えるグループが激しい抗争をしていたことも明らかになってきています(アン・グレアム・ブロック『マグダラのマリア、第一の使徒:権威を求める戦い』参照)。

排除の道具としての洗礼

 もし、マグダラのマリアを指導者とする女性のイエスの弟子たちが、イエスの最大の理解者たちだったら、例えばイエスの意を汲んで、洗礼活動など始めなかったかもしれません。それに対して、なんとか彼女らを切り捨てたいペトロら男性グループは、洗礼という儀式を用いて彼女らを切り捨てようとした。その際、初代の弟子たちの中で、男性の中にはヨハネの洗礼を受けた者がいて、「我々は主と同じ洗礼を受けたのだ」と主張したが、女性の弟子たちの中には洗礼を受けた者はいなかったということが利用されたのかもしれない……などと、推測ではありますが、考えられることではないかと思うのです。
 実際、マグダラのマリアを支持するヨハネの福音書が、最もイエスの洗礼については消極的な書き方をしていますしね。他の福音書に比べて、まるでイエスが洗礼を受けなかったようにも受け取れるような書き方をしているのがヨハネです。
 考えれば考えるほど、洗礼を受けることがどれだけ福音とか救いにおいて意義があることが疑問が増えてゆきますね。
 そして、何度も繰り返しになりますが、こうして考えることによっていよいよ明らかになってくるのは、やはりイエスはグループの形成という点では非常にオープンであったということの再認識なんですね。
 彼は、誰がメンバーで誰がメンバーではないか、はっきりさせようとしていなかったわけですから。
 以上、2つの可能性をあげてみましたが、初期の信徒たちが置かれていた状況(犯罪者の教えを継ぐ者たち)を考えれば、この2つの理由が両方とも存在していたのではないかと私は思っています。

洗礼の新たな意味づけ

 というわけで、考えれば考えるほど、いよいよ洗礼を受けなくてはいけない根拠が薄弱になってくるように思われます。
 今、我々は洗礼というものをどう取り扱えば良いのでしょうか?
 これまで考えてきたように、洗礼はイエスの主旨に反するものでもあったし、実際に行われてきた洗礼の目的もどうも大元は非常に薄汚い意図からであった可能性もありますし。
 しかし、初期の「この道の者」たちの置かれていた状況を考えると、入会儀礼で仲間であるかどうかをはっきりさせなくては危険だという実際的な理由も十分ありえます。
 ですから、たとえイエスの主旨とは違っていたとしても、それが教会には必要であったのなら、私たちが無理に拒絶する必要はないのではないかとも考えられるわけです。
 なんでも歴史上に存在した人間イエス(「史的イエス」と言われますが)がやった通りにやらなくてはいけない! と頑張っている「イエス原理主義」(と私は勝手に呼んでいますが)の人たちもいますが、いくらイエスがやった通りと言っても、時代も社会状況も2000年の隔たりがありますし、なんでも同じようにやるのが正しいことかどうか。また2000年も前の人のことがそうそう正確に詳細までわかるわけではないし、結構この「イエス原理主義」の人たちも自分の理想を勝手に投影したものを「史的イエスだ!」と言い切っている場合もあるわけで。
 まあそういうわけで、私は、洗礼というものを、無碍に捨ててしまうのではなくて、すでに長い間行われてきている伝統的な儀礼なわけですから、これを現代的に、またそれぞれの信仰共同体において、新しい意味づけを与えて、続けるなら続けて行けばよいのではないかと思っています。

信じる仲間のしるしとして

 例えば、私は誰かが洗礼を受けてくれると素直に嬉しいと思います。
 これまで書いてきたように、散々洗礼についてケチをつけておきながら、なぜ洗礼を受けてくれる人が人が嬉しいかというと、自分と同じものを信じている、また自分と共に生きようとしてくれる仲間が一人増えたように思うからです。妹か弟か、とにかく血縁ではないけれど、血縁などよりもっと精神的なつながりが大きく、平和な愛に結ばれた真実の家族が一人増えたように感じるからです。
 洗礼を受けるというのは、自分だけの内面に信じる気持ちを留めておくことではなく、自分以外の人にも(少なくとも教会の人や同じクリスチャンなどには)自分が信じている気持ちや、自分のこれからの行き方を変えようとする意思を明らかにします。それだけでも結構勇気のいることです。それを明らかにするだけでも、本当にありがたいことです。信じる気持ちを共有する者が少数派であればあるほど、その思いは強くなります。
 だから、洗礼を受けてクリスチャンになってくれることは、私にとっては大きな喜びです。
 そして、できれば人生の途中でクリスチャンである自覚を放り出すのではなく、クリスチャンであるに留まって欲しいと思うのです。
 私たちは、建前や嘘で満ち溢れた世の中に生きており、そんな世の中で生き延びてゆくために、不本意ながらも自分の本当の思いを偽って偽悪的に生きている人もいるでしょう。本当の自分、真実の自分を誰にも理解してもらえず、受け止めても肯定してももらえない人もいるでしょう。
 そんな一人一人が、嘘のない、真実の自分を受け止め合い、またその輪を広げ、助け合って生きる仲間を見つけることができたら、どんなに良いでしょうか。
 クリスチャンというのはそういう仲間だと思うのです。
 まあ実際には、これも繰り返しになりますが、教会にはどんでもない嫌な人もいたりしますので、そう理想通りうまくはいかない場合もあるのですが、その反面信頼できる人は信頼できるのです。この世にはない信頼があると思います。

神の霊を注がれる恵み

 それから、あらゆる宗教は「象徴のシステム」であると言えます。象徴というのは、そこには無いものや見えないものを、あるものとして認識するために工夫されたものです。物理的に存在がはっきりしないもの(神や霊など)を、物理的に確認できる物体(水や音など)で表し、実感しようとするものの仕組みが集まったものを「宗教」と言います。というのが宗教の一つの定義であると私は思っています。
 そして、洗礼で使われる象徴は、水です。
 水は洗い流すものであり、沈めるものでもあります。常に動いているものであり、清らかなものであり、同時に恐ろしい力を持つものでもあります。
 これが神の霊(聖霊ともいう)を象徴します。
 実際に洗礼を受けてみると分かりますが、この象徴の力には圧倒されます。
 洗礼には2種類の形式があって、1つは滴礼式といい、水を頭に垂らすやり方です。もう1つは浸礼式(全身礼ともいう)と言って、全身を一瞬水に沈めるやり方です。
 前者はヒヤッとした衝撃が頭から体に走ります。後者は文字通り、自分が死んで、そして蘇ることを実感できます。これまでの自分が崩壊し、新しい自分に生まれ変わることを実感する、鮮烈な瞬間です。
 この体験をした仲間が一人増えるというだけで、私は喜びを感じるのです。
 その人は特別な仲間なのです。
 ですから、あなたにも洗礼を受けて、クリスチャンになってほしい。

秘密の洗礼式があったっていいじゃないか

 先にも述べましたが、様々な事情があって、洗礼を受けたくても受けられない人もたくさんいます。また、洗礼を受けたからといって、信仰がないわけでもないし、救われないというわけでもありません。
 ただ、洗礼を受けるというのは、クリスチャンズという特別な仲間、特別な家族に入るための入会儀式であり、あなたの人生を変えることの象徴的体験なのです。ぜひあなたに受けて欲しい。
 ですから、秘密の洗礼式というものがあっても良いではないかと思います。
 あなたが洗礼を受けることについては、教会の人や牧師さんしか知らず、血縁上の家族にも隠したままで洗礼を受けても良いと思うのです。あなたがクリスチャンであるということは、仲間にしかわかりません。仲間はその秘密を絶対に守らないといけません。
 世の中には「ご家族の同意が必要」とか「洗礼を受けたら、仏壇は捨てないといけません」とか「お墓まいりや神社参りなどはしてはいけません」などという牧師がいたりしますが、私はそういうことはあまり大事なことではないと考えています(その理由については他のQ&Aの項目をお読みください)。
 ご家族に内緒であっても、別に構わないと思いますし、死ぬまで秘密にしておく必要もなく、いつかは明らかにするタイミングもやってくるかもしれませんし、そういうことは長い目で見ていればどうにかなるものですから。
 ただし、ちょっとやそっとの距離に牧師も信徒もがいないという場合は、要相談です。クリスチャンとのリアルな接点がなければ、クリスチャンの仲間に入るも何もありませんものね。その場合は、別の問題として、またQ&Aでアンサーしましょう。
(2016年1月2日記)


Clip to Evernote

〔初版:2016年1月2日〕

このコーナーへのご意見(ご質問・ご批判・ご忠言・ご提言)など、
発信者名の明記されたメールに限り、大歓迎いたします。
三十番地教会の牧師はまだまだ修行中。
不充分あるいは不適切な答え方もあろうかとは思いますが、
なにとぞよろしくご指導願います。
ただし、匿名メール、および陰口・陰文書については、恥をお知りください。

ご意見メールをくださる方は、ここをクリックしてください……

 「下世話なQ&A」の入口に戻る

 礼拝堂(メッセージのライブラリ)に入ってみる
 ボランティア連絡所“Voluntas”を訪ねる
 解放劇場を訪ねる
 教会の玄関へ戻る