「テオトコス:神の母マリアの導き」

2000年12月24日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・クリスマス音楽礼拝説教

説教時間:約22分……ダウンロードしてゆっくりお読みください。

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聖書:
ルカによる福音書1章26〜38節(イエスの誕生が予告される)(新共同訳・新約・p.100)

ルカによる福音書1章46〜56節(マリアの賛歌)(新共同訳・新約・p.101)

ルカによる福音書2章8〜21節(羊飼いと天使)(新共同訳・新約・p.103)

ルカによる福音書2章22〜35節(神殿で献げられる)(新共同訳・新約・p.103〜104)

「思い巡らす」マリア

  その夜、羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていました。すると、空から天の軍勢が現れて「天には栄光、地には平和」と歌ったといいます。星明りしか無い真夜中に、突然あらわれた天使たちのコーラスは、光と音の洪水であたりの景色を一変させたことでしょう。
  羊飼いたちは驚き、喜び、生まれたばかりの救い主を探し当て、赤ん坊の両親に、自分たちが目撃したことを興奮しながら語ったのでした。
  赤ん坊の母マリアは、この羊飼いたちの話を聞きながら、
「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と聖書には記されています(ルカ2章19節)。
  この時、マリアの胸に去来するものは何だったでしょうか。マリアは既に、自らのお腹を痛めて産んだこの子が、特別な使命を帯びていることを知っていました。彼女はいま自分の身の回りに起こっているすべての出来事に深い意味があることをかみしめながら、この赤ん坊の使命と、また、この子を産んで育てるという自分自身の使命について、深く思いをはせていたのであろうと思われます。

マリアを見つめなおしてみましょう

  さて、同じキリスト教でも、カトリックの教会や学校では、聖母マリアの像や絵が掲げられているところはたくさんあります。しかし、プロテスタントの教会では、マリア様の姿を見かけることはありません。ここもプロテスタントの教会ですので、マリアについて見聞きすることは、ふだんはあまりありません。
  しかし、今夜はクリスマス・イブ、救い主イエスのお誕生をお祝いする夜ですから、年に一度くらいは、そのイエスを産んだお母さんであるマリアについて、しばらくの間、お話してみてもよいのではないか、と思います。
  古代の教会では、今から1600年ほど前、431年にマリアを
「テオトコス」――ギリシャ語で「神を産む者」、つまり「神の母」として正式に承認しています。しかし、教会が最初からマリアを拝むことに積極的だったわけではなく、むしろ教会にこれを認めさせたのは、根強い一般大衆のマリアへの憧れや崇敬の思いであったと言われております。マリアを求める人の心は教会の権威を動かすほどに強かったと言えますし、それがどれほど強いかは、現在においてもヨーロッパ各地にマリアに由来する泉や井戸、御堂がたくさん存在し、またマリアにまつわるお祭が数多く行なわれていることでもわかります。また、西洋美術を語る際に、美しい聖母を描いた多くの作品を無視することはできません。
  実は私たちのプロテスタント教会の出発点となった大人物の一人、マルティン・ルター(Martin Luther)も熱心な聖母崇拝者だったといいます。同じく宗教改革の時期に親子で活躍したルーカス・クラナッハ(父)(Lucas Cranach der Aeltere, 1472-1553)という画家がいまして、この人も有名な聖母の絵をいくつか残していますが、この人は聖母の絵を描く時は常にルターに立会いを求め、出来上がった作品については必ず助言を得ていたとも伝えられております。
  ヨーロッパでは長い間、父なる神が厳しく人間を裁き、最後の審判に待ち構えておられると考えられてきました。マリアはこれに立ち向かい、天使たちの力を借りて人間を優しく守り、赦しを請う祈りに応えてくれる母なる神として、多くの人々から求められ、崇められてきました。

マリアの決断

  さて、それでは、聖書はマリアについてどう描いているでしょうか。
  今夜、最初に読んだ聖書の箇所は、有名な「受胎告知」の場面であります。
  天使ガブリエルは、ガリラヤのナザレという町に住む、平凡な一女性のもとに来て、突然「おめでとう、恵まれた方」と告げます。最初、この女性は一体何のことかと戸惑いますが、「あなたが産む子は、やがて偉大な人になり、神の子と呼ばれ、待ち望まれていた人類の救いをもたらすのですよ」とガブリエルに告げられて、彼女は最後にはこのように応えました。
  
『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』(ルカ1章38節)
  「主のはしため」……「はしため」とは、身分の低い女性、召使いの女性という意味です。では、彼女は「私は主の召使です。どうぞ神さまの御意志のとおりなさってください」と、このナザレの女性は言ったのでしょうか。
  実はこのセリフ、聖書の原典によれば、「見よ!」という強い言葉から始まっています。直訳すると「見よ! 主の僕」。
  人間が天使に向かって「見よ!」ではちょっとおかしいので、ここでは「ご覧ください!」とでも訳すほうが適当でしょう。
  つまり、マリアはここで、
  「ご覧ください! ここに主の僕がおります」
  と、強い言葉で応えたのであります。その上で、天使が話したことに対して、「あなたのお言葉どおり、私に実現しますように/成就しますように」と祈ったのでした。
  神さまは決して、直接この世にご自身の手を下されるということはありません。神さまは必ず私たち人間の働きを通じて、この世に御心を実現されます。人間は、示された神の思いに対して、主体的に決断し、応答する。それによって、神さまと力をあわせる、神さまと一緒に働く、神さまの助け手の一人として参加してゆくということが可能となります。
  ここでマリアは、神さまの御意志に対して、単に「身を任せた」のではありません。そうではなく、示されたある崇高な目的のために「自分を献げる」ということを自分の意志で決断したのでした。

その使命は幸いか

  その後マリアは、天使に受胎を告知されたことを親類のエリサベトに報告したとき、『今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者というでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから』と歌ったと聖書には伝えられています。(ルカ1章48−49節)
  「幸いな者」……。天使がマリアに受胎を告知する時にも、「おめでとう、恵まれた方」と言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」とも天使は言いました。
  果たして、マリアに与えられた使命は、彼女にとって本当に「幸い」「恵み」と言えるものだったのでしょうか。
  自分の産んだ子が「偉大な人となり、いと高き方の子と言われる」(ルカ1章32節)と告げられて、素直に喜べる人がどれだけいるでしょうか。目立たずとも平穏無事に、ささやかであったとしても幸福な人生を歩みたいと望む人だったら、このような天使のお告げを喜べただろうか、と私は思います。
  誕生して40日、ユダヤの律法に定められた母親の清めの期間が過ぎて(レビ記12章3−4節)、赤ん坊を神に献げる儀式を行なうために神殿にお参りしたマリアたちの前に(民数記6章12節)、シメオンという信仰深い老人が現れて、このように告げたと記されています。
  
『この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです』と。(ルカ2章34−35節)
  じっさい、マリアは息子を十字架の上で処刑されるという出来事を通して、心を剣で刺し貫かれることになりました。生まれて6週目に入ろうという赤ん坊に、苦しい未来が既に定められているという、それがわかっていたとしてもなお子どもを育て、この世に押し出すという使命を、あえて「恵まれたこと」として受け止めて告白するところに、マリアの一世一代の決断があります。
  この子は一体何のために生まれたのか。何のために生きてゆくのか。それはこのシメオン老人の言葉を借りれば、「多くの人を倒したり立ち上がらせたりするため」、別の訳し方をすれば「多くの人の転落と復活のため」とも読めます。イエスに出会った人は皆、転落するか復活するか、死ぬか生きるか、神から遠ざかるか神に近づくか、はっきりと分かれるというのであります。それは、「イエスに出会った人は、みんな自らの生き方を問われるのだよ」ということでもあります。「多くの人の心にある思いがあらわにされる」とも記されているとおりであります。
  イエスと出会うというのは、実はしんどいことです。自らの生き方を問われ、明らかにされるというのは、一般的にはあまり嬉しい経験ではありません。したがって、それを徹底してやったイエスが反対を受け、苦しめられ、ついには十字架における死が待っていたとしても、それはある意味、必然的なことと言えました。
  にも関わらず、イエスはその短い生涯をとおして、出会う人ひとりひとりの生き方を問い直し、死してなお現在も生きて、「あなたはどう生きるのか」「何のために生きるのか」と、私たちに問いを投げつづけているのであります。

その使命は彼女だけのものか

  ところで、マリアの一世一代の決断と申し上げましたが、彼女の決断は、私たちとはかけ離れた、常人では手の届かないような決断だったでしょうか? それはマリアだからできた決断だったのでしょうか? マリアは特別な人物だったのでしょうか?
  聖書には、神がなぜナザレ村のマリアという女性を選ばれたのか、何も記されていません。あえて記す必要がなかったとも言えるでしょう。彼女は平凡な一ユダヤ人女性であり、それ以上でも以下でもなかった。彼女が選ばれたのは、彼女が特別に優れていたからでも、あるいは特別に劣っていたからでもない。ひょっとしたら偶然かも知れない。神はいつも偶然の中に御心を隠されますから。
  大切なことは、彼女が、平凡な目立たぬ存在である自分にもできる人生の役割に目覚めさせられたということ。そして、それに殉じて生きてゆこう、と自分の意志で決断したことに意義があります。
  いわば、まだお腹の中にいるイエスに、いちばん最初に「あなたはどう生きるのか」と問いかけられたのは、実はマリアであったとも言えるのであります。
  マリアが救い主の母となったこと。それは確かに素晴らしいことです。しかし、それ以上に、平凡な自分にできることを精一杯やることが、自分のためだけでなくこの世のためになるのだという使命感を、彼女が発見したこと。その事がより素晴らしいのであります。
   実は、私たちひとりひとりの人生も、平凡なように見えて、本当は自分にしかない特別な人生なのではないでしょうか。私たちはマリアの中に、自分の人生を、神に与えられた「わたしだけの特別な使命」として前向きに引き受けようとする人間の姿を見ることができます。
  このクリスマスの夜にこそ、マリアに導かれ、そしてイエスに導かれて、私たちは、自分のやがて終わる一度かぎりの一生を、何に献げるのか、何に殉じて生きるのか、「思いを巡らせて」みたいのであります。

祈り

  お祈りいたします。
  天地の造り主、そして時の導き手である神さま。
  御子イエス・キリストのお誕生、おめでとうございます。
  今宵、こうして多くの方々と共に、お祝いの時を持てます恵みを、心から感謝申し上げます。
  新しいキリスト教の千年紀を目前にして、私たち人間は改めて歴史を振り返り、未来に於ける私たち自身のあり方、生き方を模索しなければならないときに来ています。
  どうか神さま、あなたが御使いを通してマリアに示されたように、私たちひとりひとりの人生にも、隠されたあなたの御心を見つけるべく、お導きをお与え下さい。
  そして、マリアが自らの中に御子の魂を受け入れたように、私たちも自分の中にイエス様を迎え入れることができますように。
  ここに集うひとりひとりによきクリスマスの時が訪れますように。
  主イエス・キリストの名によって祈ります。
  アーメン。



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