ああ平和よ、奇しき平和よ


2018年12月23日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 クリスマス主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約23分)


 ルカによる福音書2章8-14節 (聖書協会共同訳)
 さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
 天使は言った。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」
 すると、突然、天の大軍が現れ、この天使と共に神を賛美して言った。
 「いと高き所には栄光、神にあれ
  地には平和、御心に適う人にあれ。」




▼クリスマスの始まり

 皆さん、クリスマス、おめでとうございます。
 私たちがアドヴェントの間、それぞれの暮らしが忙しい中にも、少しずつ心を込めて準備をしてきたクリスマスがやっとやってきました。イエスの誕生を心から喜びたいと思います。
 イエスの誕生日が歴史的にいつだったのかはわかりません。誕生した年さえも、紀元前6年から4年ごろと言われ、確定されてはいません。そもそもクリスマスはイエスの誕生日を祝う祭ではなくて、救い主が生まれたこと自体をお祝いするという意味なので、別に誕生日がわからなくても、問題ではなかったんですね。
 そもそもクリスマスは初期のキリスト教会ではお祝いされていなくて、むしろイエスの復活を祝う祭の方が盛んだったんですね。教会の出発点というのは、復活したイエスを実感して、自分自身も新しい人生に生まれ変わるということから始まっていますので。
 しかし、もっぱら死と復活を祝っていた教会がイエスの生涯の物語を膨らませてゆくに従って、イエスの誕生にも思いが及び、救い主の生誕を祝おうという風に発展していったのも、理解できますよね。
 紀元後325年のニケーア公会議では、公式にクリスマスが認められたようです。といってもイエスが亡くなってから300年近く経った頃ですけど。

▼変革は貧しく小さく低い存在から

 今日お読みした聖書の箇所は、イエスが誕生したすぐ後、野宿をしながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、その誕生の出来事が天使によって知らされる場面を描いています。
 当時の羊飼い、つまり遊牧民ですが、今でいえばテントを持って、あちこちを放浪して回るホームレスの重労働者と言った所でしょうか。現在でもアラブ系のベドウィンが、エルサレムの町外れの山岳地帯——ほとんど草の生えていないカラカラの赤土の砂漠地帯ですが——そういうところで羊に飲ませる水が出る場所を探しながら放浪生活をしています。
 イスラエルもアラブと同じように、大昔は羊飼いとしての生活をしていたようですが、やがてサウルやダビデ、ソロモンの王国を作る紀元前600年前後には、ほとんどの人が町や村に定住するようになって、遊牧生活をする人は少数派になり、定住者から盗賊扱いされて疎ましがられたり、安息日を守らないということで、霊的に汚れているとか罪びとであると指をさされたりすることもある被差別者でした。
 救い主の誕生という出来事が、まず多くの国民からではなく、身分の低い、労働もきつい、貧しく、国や国民から顧みられることもない被差別者にまず知らされるのだ、というこの物語からは、世の中の変革は貧しく、小さく、低い存在から始まるのだというメッセージが読み取れるのではないでしょうか。
 そもそも「今日ダビデの町に、救い主がお生まれになった」と天使は言っていますが、ダビデも羊飼いの出身なんですね。ですから、天使は「このたび生まれた救い主は、あなたがたのような一番低い者とされている人たちの代表なんですよ」ということも伝えているんですね。

▼人間は神様のお気に入り

 さて聖書には、その天使が救い主の誕生を羊飼いたちに告げ知らせた後、そこに天の大軍が現れて、
 
「いと高き所には栄光、神にあれ
  地には平和、御心に適う人にあれ。」

 と歌ったとあります。
 有名な言葉ですね。ラテン語で、Gloria in excelsis Deo. Et in terra pax hominibus bonae voluntatis(グロリア・イン・エクセルシス・デオ。イン・テラ・パックス・オミニブス・ボネ・ヴォルンタティス)と言います。前半の部分は「グローリア」と呼ばれている讃美歌にも入っていて、クリスチャンでなくても、知っている人が多い歌だと思います。
 この言葉の最後の部分の、「御心に適う人にあれ」は、実は色々な翻訳の仕方が他にもあるんですが、よりギリシア語の原文に近い読み方をすると、「神様がお気に入りの人間に」という日本語になります。
 それも、誰か選ばれた人が神様のお気に入りになるんだという意味ではなくて、「人間というものは皆、神様のお気に入りなんだよ」という意味で、「神様のお気に入りである人間たちに平和が上より与えられる」という訳になるんですね。
 「御心に適う人にあれ」というのは「そこに生きている人間は御心に適った存在なのですから、平和が上より与えられますように」という願いの祈りの歌を天の大軍は歌ってくださったということなのですね。

▼栄光は人にふさわしくない

 「いと高き所には栄光、神にあれ
  地には平和、御心に適う人にあれ。」

 この歌の言葉の内容にさらに踏み込んでみると、「いと高き所の神に栄光があれ」、「地に住む人間に平和があれ」といった風に、はっきり対比した言葉の2つのグループによって、この短い詩が作られていることにも気がつきます。
 「いと高き所では神様に栄光がありますように」
 「地には人間に平和がありますように」
 このように天と地の棲み分けがはっきり分かれている言葉からわかるのは、「栄光は神のものであり、人間にふさわしいのは平和だよ」というメッセージです。
 「栄光」も「平和」も、非常に社会的な言葉です。個人の心の中だけに閉じた意味での「私が神の栄光が表そう」とか、「私、そしてあなたの心が平安でありますように」といった個人的な世界で終わってしまうような福音ではありません。
 政治家。特に国家権力を握っているような王や大統領や総理大臣は、この権力に溺れ、おごり高ぶると、この「栄光」を求めます。権力者が「栄光は私にあるのだ」あるいは「栄光はこの国にあるのだ」と主張し、人々がそこに栄光があるかのように権力者を讃えるという出来事が起こります。
 しかし、ここで天使と天の大軍が歌っているのは、「人間には栄光は与えられない」ということです。栄光は神だけに帰されるものであって、人間のものではないんだよと言っているのですね。
 むしろ、地に住む人間たちに最もふさわしいのは「平和」であると。
 「栄光」を人間が手に入れようとすれば、必ず自分以外の人々の権利を抑えつけ、利益を奪い、社会的に葬ろうとする争いは避けられません。栄光を手にした者は、どんな口先できれい事を言っていても、本心の部分では、自分に逆らう者は徹底的に叩き潰す攻撃性と、人の痛みなど全く感じない鈍感さが必要となります。
 つまり、栄光をつかもうとすることは、罪深い行いに手を染めるということです。国家元首がこういう人間になってしまうと、国全体が不道徳になり、国民も「あの国家元首のように、欲望のままに生きれば良いのだ」ということを正当化するようになります。
 「今だけ、金だけ、自分だけ」という国民がどんどん増えてゆきます。権力から遠い者は痛めつけられ、辱められます。人間が栄光をつかもうとすると、社会全体が腐ってゆき、滅んでしまうんだということは、すでに私たちは目撃しつつあるところです。

▼平和こそ人間にふさわしいもの

 人間にふさわしいもの、そして最も必要で大切なもの、それは「平和」ですね。人間に何か一つ与えるとすれば、それは平和が最もふさわしい。それは神様からのプレゼントだと天使たちは歌っているのですね。
 私たちが平和をこの地上で実現しようとすれば、自分とは違う考えや違う性格の人、違う肌の色の人、違うセクシュアリティの人、違う宗教の人、違う政治信条の人、違う野球チームのファン、その他いろんな自分とは違う人とも住み分けて共存してゆく不断の努力が必要となります。それは決して楽なことではありません。しかし、それこそが全ての人の権利を公平に守り、安全を保障するものではないでしょうか。
 考えの違う人、信条が違う人でも、「相手も自分も、その存在とその人らしく生きる権利は、決してうばわない」という距離感を保ち、絶対に相手に暴力的に干渉しないという信念を貫き通す事。
 そしてまた、もし生きづらさを抱えていたり、生きる意味を失ってしまっている人がいるならば、何らかの手助け差し伸べること。あるいはそこまでする実力がなかったとしても、少なくともつながりを保つ事。それが少しずつこの世を本当の意味で平和にしてゆくのではないでしょうか。
 つまり、平和というのは社会に愛を実現しようとした結果の完成形です。この平和を実現すれば、それは愛の社会が実現しているということですから、これは人間の幸福の完成形ではないかと思われますがいかがでしょうか。

▼ああ平和よ、奇しき平和よ

 天使たちは、イエスがこの世に生まれることによって、この神への栄光と人間への平和がありますように、という願いを歌いました。そうすることで人間の世の中にとって一番大事なことを教えてくれました。
 神に愛された人間にふさわしい本物の平和を実現するには、骨が折れます。私たちは個々人の人間関係という最も初歩的な人間関係においてでさえも失敗ばかりしています。
 けれども、私たち人間は失敗からしか学びません。何度も失敗することで学んだことを活かし、確実に以前より良い関係を作ってゆくことができます。まずは個人の世界で平和を実現すること、そして、そのような民がともに良い生活を作り、良い世界を作って行けるという夢を、決して捨てたくはないと思います。
 この教会が神と人間の間に立って、神の栄光をたたえ、人間の平和を広げる拠点となる夢を、追いかけてゆきたいと思いませんか?
 私は追いかけ続けたいです。皆さんはいかがですか?
 
 最後に、私が一番気に入っている「平和」という言葉が出てくる讃美歌を1節だけ歌ってみたいと思います。直接クリスマスの讃美歌というわけではありませんが。1954年版「讃美歌」の531番「こころのおごとに」の1節です。
   こころの緒琴に み歌のかよえば
   しらべに合わせて いざほめ歌わん
   ああ、平和よ、くしき平和よ
   み神のたまえる くしき平和よ

 ありがとうございました。
 本日の説き明かしはここまでとさせていただきます。








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