耐えられない試練からは逃げよう


2019年3月3日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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 コリントの信徒への手紙一10章13節 (新共同訳)




▼「試練」と「誘惑」

 つい先日、競泳選手の池江璃花子さんという方が、ご自身が白血病に罹患しているということをツイッターで明らかにし、しばらく競泳を休んで治療に専念するというニュースが流れました。
 その中で、池江さんが「神様は乗り越えられない試練は与えない。自分に乗り越えられない壁はないと思っています」という言葉を発したそうです。
 それでインターネット界隈では、クリスチャンたちの間で、彼女が今日のテクストの、コリントの信徒への第一の手紙の10章13節を知っていたのかどうかということで一時騒がしくなりました。
 そこで私もちょっとこの聖書の箇所を調べてみたくなりました。ちょっと意地悪かも知れませんが、本当に池江さんが言ったことが聖書の語る通りの意味だったのかどうか確かめたくなったんですね。
 ここでの「試練」という言葉ですが、ギリシア語では「ペイラスモス」と言います。同じ単語で別の聖書の箇所では「誘惑」とも訳されています。英語の聖書でも「trial」という訳し方と「temptation」という訳し方の2つの説に分かれていまして、「trial」だと試練になりますし、「temptation」だと誘惑になります。
 つまり、この聖書の箇所の「試練」と書いてあるところも、別に「誘惑」と訳してあってもおかしくはありません。むしろ、その方がすんなり意味が受け取れるのではないかと思えます。
 と言いますのも、この第一コリント10章の前半は、特に偶像礼拝に関わってはなりませんよという戒めになっていまして、その偶像礼拝の誘惑に耐えなさいよ、という意味に受け取れるからなんですね。

▼偶像礼拝の誘惑

 ここでパウロが言っている偶像礼拝というのは、10章の7節にあるように「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」とか、8節の「彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう」とあるような偶像礼拝。
 このギリシア・ローマの神々の影響を受けた地方では昔から伝わっている、豊作の祈願や、子宝を授かりますようにといった願い事を受け付ける神々、その神殿で、お酒をたくさん飲んで酩酊状態になったり、神殿娼婦や神殿男娼と交わったりするなど、儀式の中に性的な行為が含まれるのなど、非常の誘惑的な要素が多かったんですね。しかも、ユダヤ教やキリスト教と違って、収穫や子どもが生まれることなど、民衆が直接的に求めているものに対するご利益が用意されている。
 ですからコリントの人々も、一方ではキリスト教の礼拝を守っていながら、他方ではご利益を求めて、他の神々への淫らな行いも含めたどんちゃん騒ぎのお祭りにも参加している者がいたんでしょうね。
 そこで、そういう誘惑に耐えなさい。そういう誘惑に耐えるという試練を乗り越えなさい、と言っているわけなんですね。

▼たやすく耐えられる試練

 しかもパウロは「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないものはなかったはずです」と書いています。
 この新共同訳では「人間として耐えられない」とありますが、去年出た日本聖書協会共同訳では「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません」と訳しています。「あなたがたが経験した試練、あるいは誘惑は、世の常のことですよ。よくあることですよ」という意味合いなんですね。
 ここは直訳すると「人間的でないものはありません」です。人間的な試練・誘惑とは、すなわち「人間として耐えやすい試練・誘惑」です。あなたがたが今まで、こういった偶像礼拝に関して経験してきた誘惑を耐える試練は、割とよくある試練で、あなたがただったら容易く耐えられるでしょう、ということをパウロはコリントの人たちに言っているんですね。

▼アスリートたちの流行り言葉

 ですから、池江璃花子さんには申し訳ないけれども、この言葉を「自分には乗り越えられない壁はない」という意味で使う場合は、聖書とは関係なく使っているのかなと思います。
 おそらく、元々は聖書の言葉から来ているんでしょうけど、本来の聖書の文脈から離れて、この「神は耐えられないような試練は与えない」という言葉が、アスリート界で一人歩きしている可能性があるのではないかと思うのですが、どうなんでしょうか。
 実は何年か前に私が勤めている学校に来てくれていた陸上競技部のコーチが、この「神は耐えられない試練を与えない」という言葉を背中にプリントしたTシャツを着ていたのを見たことがあるんですね。それでつい嬉しくなって「それ、聖書の言葉ですよね!」と言ったら、「え? そうなんですか! 知りませんでした」と返事が返ってきたなんてことがありました。
 言葉というものはそういう広がり方をするものだろうと思いますので、別段批判するわけではないのですが、この言葉が、池江さんのように、「病気などを乗り越える自分の力を信じます」という意味で使われるのはいいのですが、逆に「どんなに辛い試練に遭っても、お前は耐えられるはずだ」といった具合に、人を追い詰めるような効果を持って使われるようになったりしたら、嫌だなあなんてことを考えてしまいました。

▼耐えられない苦しみ

 治らない難病や、避けることのできない災難、あるいは昨今は虐待や失踪・離婚などの家庭崩壊などで味わう苦難が、天罰であるとか神に与えられた試練であるとかいったことは、クリスチャンであってもなくても、よく言われることがあります。
 「神様、どうしてあなたはこんな苦しみを私に与えるのですか?!」。あるいは「神が本当にいるのなら、なぜこんな苦しみが私に与えられるのですか?!」。また「私が何か悪いことをしたのですか? なぜ私がこんな苦しみを受けなければいけないのですか?」。
 先ほども池江璃花子さんがツイッターでご自身の病気のことを明かされたと言いましたが、特にツイッターのような匿名性が高いネットの世界では、リアルの世界ではとても話せないような、嘆きや怒りが渦巻いていて、そのような呻き声を私は日々たくさん読んでいます。
 時々私は、「そんなことはないよ。それは神様が与えた試練じゃないよ。神様がそんな重荷を私たちに終われるはずはないんだよ」なんてお返事を書こうとしたりしますが、「それならなおさら、なぜ私が苦しまなくてはいけないのか教えなさい」と言われて、絶句します。そして、「一緒に苦しみが取り去られるように、一緒に祈りましょう」といったような月並みなことしか言えなくて、もちろん真剣にお祈りはするのですけれども、やっぱり何の役にも立てなかったような自己嫌悪に陥ったりします。
 風邪を引いているくらいのしんどさなら、原因が説明されたら安心できるという面もありますけれども、「生きていること自体が罰なのだ」と思わずにはおれない状況の人は、原因を説明されただけでは苦痛は減りません。このような人を目の前にした時、私たちはどうすればいいのでしょうか。

▼ヨブ記の泣き言

 旧約聖書にヨブ記という本があります。ヨブという人が神に家族の命を奪われたり、自分をひどく重い皮膚病にされたりします。正確には神が悪魔にそそのかされて、ヨブの信仰がどれほど強いものか試そうとして苦しみを与えるわけです。
 ヨブは最初は自分がどんなに苦しんでも絶望を味わっても、神への信頼を守ろうとして頑張るのですが、やがてついに神を呪い始めます。そこへ彼の友人たちがやってきて、「神を呪うとは、何様だ」とか、「お前自身の行いが悪いからだ」などと言って、ヨブをさらに追い詰めます。ヨブは神に対して心底からの怒りをぶつけるのですが、最後は神に叱られて、「申し訳ありません。悔い改めます」と言って引き下がり、ヨブは以前にも増して祝福され、長生きをしました。というお話です。
 全体のあらすじだけこうやって紹介しますと、何が言いたいのか、何の役に立つのかわからないように聞こえるかもしれませんが、このヨブ記という本は、実は少なくとも2つの文書が合体している本だと言われているのですね。
 ヨブ記の1章から2章は、神様のもとに悪魔がやってきて、ヨブが苦しみを与えられて、体をかきむしり、神を呪い始めた……という事の始まりを述べています。そして、最後の42章はヨブが悔い改めて改めて神様を褒め称え、ヨブは再び祝福を取り戻すという結末です。
 この前後の部分の間に、39章分もの長い長いヨブの嘆きと神への呪いの詩が延々と続きます。つまり、長い長い嘆きと呪いの歌の前後を、サンドイッチのように昔話のような短い物語文が挟んでいるという構成なんですね。
 ですから、最初の事の始まりを読んでいる間は、お話を読んでいるような呑気な気分で読んでいけますけれども、3章からのヨブの恨み辛みを歌った詩に入ると急に緊迫感が増し、読み進めるのも気が重くなってきます。
 しかし、この延々と続く嘆き、恨み、辛み、呪いが人間の苦しい時の真実に違いありません。「なぜ私がこんな目に遭うのですか」、「なぜこんなに苦しまなくてはいけないのですか」、「一体いつこの苦しみは終わるのですか」。どんなに仲の良かった友人も、つまらない慰めや励まししか言ってくれない。おまけにはお前の普段の行いが悪かったからだとか、バチが当たったんだとか、さらに人を追い詰めるようなことを言い出す。もう勘弁してくれと。
 そんな、私たちが苦難の中でもがいている時に心の中で叫んでいることを、ヨブはそっくりそのまま代弁してくれているのではないでしょうか。私たちが吐く泣き言はヨブの泣き言そのままです。

▼共苦の真実

 このヨブ記の歌に込められた真実は何でしょうか?
 それは、苦しい時には一緒に苦しんでくれる人が必要だということではないでしょうか。
 なぜ苦しみがあるのか。また、なぜ私なのか。そして、この苦しみはいつ終わるのか。あるいは終わらないのか。その答は無いのだということがヨブ記を読むとわかります。また、どんな人の言葉も支えにはならないということも、わかります。
 ただ、人を慰めるものがあるとするならば、それは一緒に苦しむ人がいるかどうかではないでしょうか。ヨブ自身が苦しんでいたように、またイエスが十字架の上で苦しみ抜いたように、私と同じかそれ以上の苦しみを負ったイエス。その苦しみは今も続いている。イエスは今日も今も十字架の上で苦しみ続けている。そんなイエスならわかってくれるということが、少しは私たちの助けにはならないものでしょうか。
 
▼ヨブと共に、イエスと共に
 
 最後にもう1箇所、聖書を読みたいと思います。ヤコブの手紙1章12節から13節ですが……。
 「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです」とあります。
 これは、先ほどのヨブ記の、サンドイッチになった昔話とは全く違う見解を述べています。神は悪魔にそそのかされたり、人間を誘惑したり、試練を与えたりはしないのだということです。
 実際にはこれが事実に即していると思われます。神はわざわざ私たちに試練や誘惑を与えたりはなさらない。つまり、自分を襲った試練や誘惑は、「これは神に与えられた試練だ」と思う必要はこれっぽっちもないよということです。
 別に神に与えられた罰でもハードルでもないのだから、人間はわざわざ苦しみに耐えなければいけないという義理もなく、遠慮なく逃げられるようなら逃げなさいということなんですね。
 神は私たちが苦しむことを望んではおられるわけではないのです。ただ、この世には耐えられない試練というものは実際あります。その試練に対しては、神はヨブやイエスといった共に苦しむ方を送ってくださいました。私たちはヨブと共に、イエスと共に生きるしかない。一緒に生きてくださる方がいるのだから、何とかこの世に留まり続けようじゃないか。
 私にはそのように呼びかけるしかできないのであります。






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