家の教会からよろしく


2019年6月2日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 家庭礼拝 説き明かし

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 コリントの信徒への手紙(一)16章19-24節 
(新共同訳)
 



▼エフェソからコリントのみなさんへ

 本日の聖書の箇所は、ご覧いただいている通り、パウロによるコリントの信徒への1つ目の手紙の、締めくくりの挨拶の部分です。
 「アジア州の諸教会からよろしく」。
 「プリスカとアキラからよろしく」。
 「すべての兄弟からよろしく」。
 と「よろしく」を3回も言っていますし、最後には21節で「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します」と書いているくらいですので、かなり気合が入っていますよね。
 この手紙はエフェソという、エーゲ海の東側にある港町から、西側の向こう岸にあるコリントという港町にいる、パウロによって開かれたキリスト者の集まりに向けて、送られた手紙ですね。
 エーゲ海の西側の陸地一帯がアジア州、またはアシア州と呼ばれていて、今でいうトルコという国の左半分のあたりですね。エフェソというのはこのアシア州の首都の港町ですし、内陸部にはコロサイという街もありました。どちらも新約聖書の手紙の宛先になっている地名ですよね。
 パウロは計4回伝道旅行に出かけていて、その中でも2回目の伝道旅行の時に、この西側のコリントから東側のエフェソに向けてエーゲ海を横断しています。そして、このエフェソで2年間ほど滞在して、そして自分が後にしてきたコリントの信徒のグループにたくさん手紙を書いています。今私たちの手元にある「コリントの信徒への手紙」というのは、そのたくさんの手紙を編集して合わせたものなので、こんな風に長いものになっています。
 その手紙の前半の終わりの部分で、パウロはアシア州にあるいくつもの教会を代表する形で、エフェソからよろしくと言っているのですね。

▼エクレシアとオイコス

 続いて「アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に……あなたがたにくれぐれもよろしく」と伝えていますが、このアキラ(というよりは実際の発音に近づけると「アキュラ」と言った方がいいような気もしますが)このアキュラとプリスカというのは夫婦で、自分たちの家をエフェソの教会の人々に開放していたんですね。
 ここで、よく話題になるのが「家の教会」という言葉です。
 よく「初代教会は『家の教会』であった」という言い方がされて、あたかもそういう「家の教会」という種類の教会が存在していたかのように私たちは思いがちですけれども、実はそういうわけではなくて、信徒の「家の中に集まっていた教会」という意味なんですね。
 そして、「教会」というのも、本当にこういう感じが適切な翻訳かどうか時々論議になることがあるのですけれども、これは中国語の聖書から日本語に訳された時にそのまま取り入れた影響で「教会」と言っているのであって、元々のギリシア語では単に「集まり」とか「集められた者たち」という意味の単語ですね。
 この単語は、私たち徳島北教会のテーマソングにも使われている言葉で、「エクレシア」と言います。「集まり」です。
 これに対して、「家」というのが「オイコス」と言います。この「オイコス」というのは「家」とか「家族」とか「家の生活のやりくり」のことを指しまして、この「やりくり」というイメージから「オイコノミア」そして「エコノミー」という風に「経済」という言葉に発展してゆくんですね。
 ですから、「オイコス」という「暮らしの現場」としての「家」に、イエスを信じるの人たちのグループが「集まり/集会」を持たせてもらっていた、というのが実際のイメージではないかと思います。
 ですから、実は去年出た新しい日本語訳では「家の教会」と訳してあるんですけれども、私たちが使っている新共同訳では「家に集まる教会」と書いてあって、この点においては新共同訳の方が、歴史に即していると言えそうです。

▼クリスティアノイ

 なぜそういう形で礼拝が持たれたのかというと、元々、エルサレムに残ったペトロなどのイエスの弟子たちの教団は、ユダヤ教の会堂(シナゴーグと言いますけれども)そこで礼拝する従来からのスタイルを崩さない形で、周囲のユダヤ人にあまり違和感を持たせないように、そして全く違う新興宗教だと思われないように振舞おうと工夫していました。
 「ユダヤの律法もちゃんと守っていますよ」、「私たちがやっていることはそんなに突飛なことではありませんよ」と装うのに必死だったわけで、それはユダヤ教の本山であるエルサレムにおける、ペトロたちの生き残り策だったわけですね。
 それに対して、エルサレムからだいぶ離れたアシア州などで伝道をしていたパウロは、ユダヤ教の律法に配慮するという気持ちがありませんから。というよりそんなものは最早何の役にも立たないという見地に立っていますから、ユダヤ教に配慮するという態度がありません。
 そこで、徐々にシナゴーグでの礼拝から叩き出されるイエス派の人々が出てきて、それで自分たちの礼拝の場所を求めて、仲間の信徒の家に集まるようになったのですよね。
 そうやって、今の我々が「家の教会」と呼んでいる、「家における集まり」、「オイコスにおけるエクレシア」というものが、まだ独自の礼拝堂というものを建設する前の礼拝の形態でありました。
 ちなみに、イエスを信じる者たちのエクレシアが「キリスト者」と呼ばれるようになったのも、恐らくこの頃です。
 それまではユダヤ教の異端的な一派というようなニュアンスで、使徒言行録に書いてありますように、「ナザレ人の分派」とか「この道の者」と呼ばれたりして、定まった名前は無かったのですが、やがてユダヤ教の会堂から追い出されるようになる時期に、ギリシア語で「クリスティアノイ」と呼ばれるようになったのですね。
 「クリスティアノイ」は直訳しますと「キリストの者たち」つまり「キリスト者」ということになるのですが、これは元々、彼らを追放するユダヤ人の側が憎しみや嫌悪感を込めて呼ぶ時の呼び方だったようなので、まあ「キリストの奴ら」とか「キリストの連中」とか言った感じだったでしょうね。
 そして、それがやがて、言われている本人たちも「我々はキリストの奴らだ」と言って、「クリスティアノイ」を自分たちの呼び名としていくんですね。この言葉が現在の英語の「クリスチャン」の語源になっています。

▼プリスカとアキュラ

 さて、そういうわけで、エフェソという街でクリスティアノイのエクレシアをプリスカとアキラという夫婦のオイコスで行なっていたということになります。
 このプリスカとアキラ、ギリシア語の発音的には「アキュラ」という方がいいような気がしますので、ここでは「アキュラ」と呼びますが、この2人の名前は新約聖書の中に3回出てきます。
 まず最初に、パウロの手紙の中でも初期に書かれたコリントの信徒への手紙(一)の最後(今日読んだ箇所ですね)。それから、おそらくパウロの晩年に書かれたと考えられているローマの信徒への手紙の最後。そして、パウロが亡くなってからルカによって書かれた使徒たちの記録である使徒言行録。
 つまり、パウロの活動の最初から最後まで関わった、非常にパウロの信任の篤い夫婦であり、パウロ亡き後もその名が語られるほど、初期のキリスト教会で有力な信徒だったということですね。特に、ローマの信徒への手紙でも使徒言行録でも、妻のプリスカの方が先に名前が出てきます。アキュラの方が後です。この男性優位の時代に、夫婦の名前を紹介する時に妻の名前の方を先に出すというのは、かなり例外的です。パウロがいかにプリスカに助けられ、感謝していたかということがわかる文面です。
 この2人は元々ローマ(つまりローマ帝国の首都)のあるイタリアに住んでいたユダヤ人で、テント作りの職人をしていました。ところが、ローマで起こったユダヤ人迫害から避難するために、イタリアから逃げてきてコリントに来たところで、パウロと出会ったんですね。
 そしてパウロはこの夫婦と同じテント職人だということで意気投合して、この夫婦の家に住み込んで、一緒に働きながら暮らすようになりました。
 パウロがこの時期にプリスカとアキュラを改心させたとか、パウロによって洗礼を授けられたとは書いてありませんので、恐らくですが、この夫婦はパウロと出会う前からクリスチャンだったのでしょうね。ということは、この2人はパウロ以外の誰かに信仰を伝えられたのでしょうけれど、コリントで出会ってからは、2人はパウロの良き理解者、協力者として伝道活動をするようになっていきます。
 パウロと一緒にエーゲ海を渡ってエフェソに出かけ、そこでも2人の家を借りて、エクレシアが行われました。パウロはそこに2年ないし3年滞在してエクレシアで説教していたようです。

▼エクレシアからよろしく

 というわけで、このパウロによってコリントの信徒の皆さんへということで書かれた手紙の最後は、アシア州のあちこちのエクレシアを代表してエフェソから、特にエフェソのエクレシアを受け入れてくださっているプリスカとアキュラのご夫妻からくれぐれもよろしくと。
 また20節には、「全ての兄弟たち」と言っていますが、これはパウロと一緒に伝道にいそしんでいた同労者の人たち、つまり今風に言うと、教会のブラザーたちであろうと考えられますけれども、その人たちからもくれぐれもよろしく。
 そして、そういうわけだから、あなたたちもお互いに聖なる口づけで挨拶し合いなさいよと。まあ日本人は口づけで挨拶をするというのはあまり馴染みませんけれども、あちらギリシア系・ラテン系の人はほっぺたをくっつけたり、キスをしたりして挨拶をよくしますよね。それがクリスティアノイ同士のキスは聖なる口づけであるとパウロは言っているんですね。
 21節では、「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します」と書いていますが、これは当時の手紙は、教師は弟子に書かせたり、自由人が教育を受けた奴隷に書かせたりといった風に、みんな口述筆記だったんですね。
 ところが、ここでパウロは、挨拶をしゃべっている間にコリントのみんなに対する思いが高まったのか何なのかテンションが上がってきて、興奮のあまり「私が書く!」と、それまで手紙を書いていたブラザーから筆を取り上げたんですね。
 そして22節、「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)」。
 随分激しい口調ですね。パウロの性格丸出しですね。この「神から見捨てられるがいい」と言うのは、実は単語1つだけの言葉です。「アナテマ」という呪いの言葉です。「呪われよ!」と一言で言い捨てているんですね。そして「マラナ・タ!(主よ、来てください)」ですね。だから、なんかパウロの息遣いが伝わるような感じがしませんか? 「アナテマ! マラナ・タ!」とぶつけて来ているんですね。
 そして最後は、「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」と締めくくって終わりです。

▼独りでは無理

 パウロが使った「手紙」という手段は、その頃では最新で最高の通信手段です。他のクリスティアノイの伝道者が「手紙」という手段をこんなにたくさん残した例はありません。当然、お金もかかります。そういう意味ではパウロというのは贅沢な通信手段をふんだんに使って伝道を展開する人だったんですね。
 しかし、そんなパウロでも通信手段ばかりでは本当は何もできなかったわけで、ここに登場したプリスカやアキュラのような、ご自宅をエクレシアに開放してくださった人々や、助けてくれるブラザーたち(本当はシスターたちもたくさんいたんですが、それはローマの信徒への手紙の方に紹介されています)、そういう人たちがいなければ、クリスティアノイの道を宣べ伝えるということは絶対にできなかったんですね。
 そのことが手紙の最後の挨拶文からも伝わってくるというお話でした。本日の説き明かしをこれで終わります。






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