老いるはショック!


2019年10月6日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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 イザヤ書46章1-4節 
(新共同訳:旧約)
 



▼老いるショック・爺ショック

 本日は「老いるはショック!」というタイトルをつけましたが、もちろん、そんなに深い意味はないのでありまして、ただ、漫画家のみうらじゅんさんという人が、ある講演の中で、自分の人生を振り返って、50歳を過ぎたあたりから自分の体の老化を感じるようになり、それを「老いるショック!」と名付けていたをYouTubeで見まして、それが非常に面白かったので。かといって、そのまま使うと著作権的にも問題があるかなと思い、老いる「は」という1文字を加えることにしたというだけであります。
 ただ、それでは自分が老いて衰えていっていることに、全くショックが無いかというと、そういうわけではなく、髪は薄くなるわ、顔にシミはできるわ、老眼は進むわ、肩が痛いわ、歯がボロボロになってくるわ、肝臓も腎臓も弱ってくるわと、老いを自覚する度に、「老いるショック!」、「爺ショック!」とつぶやいている毎日ではあります。
 長距離を走っている車が、だんだんとランプの電球が切れ、ボディに傷がつき、あちこちから妙なきしみ音が聞こえるようになり……といったようにあちこち不具合が出てくるわけですが、修理にも限界があり、少々ガタついてもこのまま走って行くか、という感覚と似ています。
 まあ、そんな中古車のような感覚かなと思えば、全く楽しくないというわけでもなく、なかなか自分も味のある人間になってきているかもしれないな、なんてちょっとナルシストみたいに思ってみたりもするわけですが、皆さんはいかがでしょうか?

▼聖書における老い

 さて、本日は旧約聖書のイザヤ書から引用して礼拝を持っています。
 実は聖書の中には、「老いる」とか「年老いる」、「歳をとる」という言葉が非常に少ないのですね。何故かははっきりとはわかりませんが、貧しい庶民がそんなに年老いると言えるほど長生きをしていなかった時代なので、実感として年老いるという現象が身近ではなかったのかも知れません。
 「コヘレトの言葉」(昔は「伝道の書」と呼ばれていましたが)の12章の1節に、
 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
 苦しみの日々が来ないうちに。
 『年を重ねることに喜びはない』と
 言う年齢にならないうちに。」(コヘレト12.1)
 という有名な言葉がありますね。
 神様の存在は若いうちに知っておいた方がいいよ、と勧めているわけですが、それは「歳をとることに喜びなんかないよ」という年齢にならないうちにね……という、ちょっと皮肉な冷笑のこもったニュアンスを伴っているわけで、この「コヘレトの言葉」を書いた人は、年老いるということをあまり喜んではいないということがわかります。
 また、「コヘレトの言葉」と同じように、「知恵文学」という言葉で分類されるジャンルの物語なんですが、「ヨブ記」にも、こんな年寄りに対する否定的な言葉が出てきます。
 「日を重ねれば賢くなるというのでなく
 老人になればふさわしい分別ができるのでもない」(ヨブ32.1)
 これは、年老いたヨブをたしなめる若い友人のエリフの台詞です。
 しかしその一方で、年寄りには高い値打ちがあると称える言葉も旧約聖書には出てきます。
 例えば、レビ記19章32節ではこんな言葉が出てきます。「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(レビ19.32)。お年寄りに対しては敬意を持って接しなさいことということですね。
 また、箴言16.31には「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」という言葉もあり、歳をとるほど神様の領域に近くのだと、また神様に従う人生が長寿を与えるのだ、という考えがあったことを示しています。
 ですから旧約聖書のいくつかの記事を見る限り、年老いるということについては、喜ばしくはない面もあるけれども、尊敬するべきだという考え方の両方があるのだ、ということが言えます。

▼白髪

 今日お読みした聖書の箇所も「白髪」というキーワードが出てきます。どうも旧約聖書の中では、「年老いる」という直接的な表現よりも「白髪」という言葉で年配者のことを象徴的に表すみたいですね。
 もう一度読んでみましょうか。イザヤ書46章1節から4節。
 「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。
 彼らの像は獣や家畜に負わされ
 お前たちの担いていたものは重荷となって
 疲れた動物に負わされる。
 彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。
 その重荷を救い出すことはできず
 彼ら自身も捕らわれて行く。
 わたしに聞け、ヤコブの家よ
 イスラエルの家の残りの者よ、共に。
 あなたたちは生まれた時から負われ
 胎を出た時から担われてきた。
 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
 白髪になるまで、背負って行こう。
 わたしはあなたたちを造った。
 わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46.1-4)
 この1節にある「ベル」とか「ネボ」と言っているのは、これはバビロン、つまり新バビロニア帝国の神々のことなんですね。「ベル」というのはバビロンの最高神「マルドゥク」という神の別名だそうで、「ネボ」というのはバビロニアの王族の守護神なんだそうです。

▼負われる神と負ってくれる神

 ここで、獣とか家畜といった疲れた動物に負わされる、と言っているのは、バビロンにおけるお祭りでの神々のパレードのことを指しています。「神々の像が重くて、負わされている動物たちがくたびれてしまっているじゃないか。そのうち動物たちも神々の像自体もずっでーんと倒れて、誰も救えなくなっちまうんだ、と嘲笑っているのですね。
 石や金属や木で作った神々のいろんな像を担いで練り歩くパレードというのは世界のどこでもやっていそうですけれども、日本のお祭りでそういうものに近いものを見ようとすれば、例えばわたしは関西在住ですので、京都の祇園祭や岸和田のだんじりなどを思い出します。
 あれは御神体が乗った巨大な車(鉾とか山とか山車とか呼ばれますが)を引き回すわけですが、ものすごく重いんですよね。それを大人数の男性たちが汗だくになって引き回しす。まあその姿が見ものなんですけれども、下手をすると死者も出かねないような危険な行事でもあります。それがいいんだとおっしゃる方も多いんでしょうね。
 まあそういった異なる宗教のお祭りを指して、古代のユダヤ人、それもそういった異なる宗教をバビロニア人たちから押し付けられて、自分たちの自治も文化も奪われて差別されていた側の人々の視線から、そういった異教の祭りを見ると、「なんだあれは。神様の方が人間に背負ってもらってるじゃないか。あの人たちの神々は、自分で動くこともできず、人間や動物に負ってもらって、それで自分の重みで動物も人間も潰して倒れてしまって、そんな自分を救うこともできない、情けない偶像に過ぎない」という風に言ったんですね。
 そして、「私たちの神はそうではない。神の方が私たちを背負ってくれるんだ」という3節以降の信仰告白につながってゆくわけです。

▼わたしが担い、背負い、救い出す。

 「わたしに聞け、ヤコブの家よ」(イザヤ46.3)。ヤコブというのは「イスラエル」という別名を持つ、イスラエル人たちの先祖です。
 「イスラエルの家の残りの者よ、共に」(同)。「残りの者」というのは、かつては栄華を誇ったダビデやソロモンなど優秀な王様のもとで栄えたイスラエル12部族の連合王国が、南北に分裂して、北王国も南王国も他の国からの攻撃に滅亡して、12部族のうちのユダ族だけが生き残った。そしてバビロンに連れて行かれた。その生き残ったユダ族のことを「残りの者たち」というのですね。そして「ユダ族」がやがて「ユダヤ人」と呼ばれるようになるわけです。
 その「残りの者」すなわちユダヤ人たちに、神は諭します。
 もう一度、1138ページの最初からの6行を読みますが、もう解説の必要は無いほどです。
 「あなたたちは生まれた時から負われ
 胎を出た時から担われてきた。
 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
 白髪になるまで、背負って行こう。
 わたしはあなたたちを造った。
 わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46.3-4)。
 「あなたたちはみんな、自分の足で人生を歩いているつもりかもしれないけれど、人間というのは生まれた瞬間から年老いて死ぬまで、ずっと神である私に背負われて生きる者なんだよ」。
 「私があなたたちを造ったんだ。私があなたを担い、背負い、救い出すんだ」とは、なんとありがたい言葉ではないでしょうか。
 人生の始まりから終わりまで、どんなに嬉しい時も、悲しい時も、苦しみ痛んでいる時も、神様が私たちの人生を背負ってくれているんだよ。責任持って抱えていてくださるんだよ、と言ってくださっているんですね。

▼あしあと

 ここで私は、ある詩を思い出します。有名な詩です。マーガレット・パワーズという方が書いた「Footprint(あしあと)」という詩です。それの日本語訳を朗読してから、今日の説き明かしを終えたいと思います。
 
 ある夜、わたしは夢を見た。
 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
 一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
 そこには一つのあしあとしかなかった。
 わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
 このことがいつもわたしの心を乱していたので、
 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
 主は、ささやかれた。
 「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。
 あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていたのだ。」(松代恵美訳に一部修正を加えたもの)


 今日のお話はここまでです。





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