神を示した人:イエス


2019年12月1日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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 ヨハネによる福音書1章14-18節 
(新共同訳)
 



▼アドヴェント

 皆さんおはようございます。今日は、アドヴェントの第1日曜日です。アドヴェントというのはクリスマスの前の4回の日曜日を含めた時期で、今年は今日が1回目。2回目が来週の8日、3回目が15日で、4回目が22日。そしてこの22日がクリスマスの直前の日曜日になりますので、この日にクリスマス主日礼拝ということになります。
 アドヴェントというのは、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、「来る」、「接近する」という意味のラテン語で、アドヴェンチャーという英語も「次々に出来事がやってくる」という意味で冒険ものなどに使われます。
 そういうわけで、クリスマスというイエスの誕生を祝う日が「やってくる」。だから本格的な準備を始めようというのがアドヴェントです。

▼福音書のクリスマス

 といっても、クリスマスというものがお祝いされるようになったのは、イエスが亡くなって、キリスト教が発生してからずいぶんあとのことです。早くても350年代、つまり、イエスが亡くなってから300年近くたってから初めて12月25日を、イエス・キリストの誕生を記念する祝日として祝うようになったんですね。
 イエスの生涯の一番古い記録としては、私たちは福音書というものが4冊あることを知っているわけで、その福音書もイエスの生涯から100年以内に出来上がったものですが、その中でもイエスの誕生についての取り扱いは様々です。
 何度もここで申し上げていることですが、最初にできたマルコによる福音書、イエスの亡くなった30年くらい後に書かれたとされていますけれども、この福音書にはイエスの誕生については何も書かれていません。
 2冊目の福音書はマタイによる福音書と考えられていますけれども、これがイエスの死後40年後、マルコの書いたものに不満を感じて改訂版として出されたという説がありますが、ここではイエスの父親ヨセフを主人公にした誕生物語が現れます。
 3冊目はルカによる福音書とされ、イエスの死後50年後くらいですが、ここに初めてイエスの母親マリアを主人公にした誕生物語が現れます。私たちが普段思い浮かべるクリスマスの物語というのは、全く別々にできたマタイとルカの誕生物語をミックスして構成し直したものなんですね。
 そして4冊目は、およそ70年後に書かれたと言われるヨハネになるわけですが、ヨハネによる福音書では、マリアやヨセフといったイエスの両親の話からではなく、世界の始まり、天地創造の時代から語り始めるという書き出しになっています。そして、イエスは元々は人間ではなく、神と共にあった神そのものでもあるという風に語られます。

▼探究の出発点

 こうして、ちょっと歴史的に福音書の書かれた順序を見るだけでも、教会の中で、イエスの誕生に対する思想がだんだんと発達していったことが分かりますよね。最初は、イエスの誕生というのはわからなかったわけですし、人々の関心もそんなに無かった。福音書記者にそれを「書いてくれ」というニーズが無かったんでしょう。
 しかし、後の時代になるにつれて、まずイエスの父の物語が生み出され、そして次にイエスの母についてのもっとリアルな物語が生み出され、更に後の時代にはイエスはそもそも人間よりも先に存在していた方だったのだ……という具合に思想が発展してゆくわけです。
 これは、イエスという人物への探究がだんだんと深まっていったと言うこともできるでしょうね。もちろん私たちのような科学的な時代の物の見方とは違うので、随分発想法は私たちと違っているとは思いますけど、少なくともその時代の人たちなりに、歴史を「前へ、前へ」と探究して行った結果だったとは言えると思います。
 まずは、どこの誰ともわからぬ謎の男が、突然洗礼者ヨハネの教団から暖簾分けをして新しい宗教集団を作った。どうやら、彼はナザレという貧しい村の出身らしい。その彼が神を示した。今まで漠然としていた神のイメージが彼の言葉と行いと死に様に見事に表された。そこから、「実は彼は神の子ではないのか」という噂が流れ始めました。
 そして、「神の子ということは人間ではなく、神と本質的に同じではないのか」。あるいは「神の子というよりは、子なる神と呼ぶべきではないのか」。そして、「子なる神であろうが何だろうが、神であるというのならば、やはり全てのものに先立って神として存在していたのではあるまいか」……という具合に、人間は時を逆算してどんどん発想を広げて行ってしまいます。ヨハネによる福音書の始まりの書き出しの部分も、そうやって広げられていった思想の結果出来上がった文学であろうと思われるのですね。
 今の時代、私たちはそういう古代の思想の成り立ちというものを、こうやってある程度客観的に見直すことができます。そして、改めてその思想の発展を、もう一度逆方向に遡ってゆくと、やはり、イエスという一人の人物が神を示した、という出来事に帰ってゆかざるを得ないという気がいたします。
 ヨハネによる福音書の1章、今日お読みした段落の締めくくり、18節に、「この方が神を示されたのである」と書いてあります。この「この人が神を示した」というところが、全ての出来事の本質を表しす出発点ではないかと考えられるのですね。

▼神の解釈をした人の解釈

 イエスが神を示した。これが事の次第の始まりです。
 この18節で書かれている「示された」、「示した」という言葉は、確かに「指し示した」という言葉にも訳すことができますが、実は「解釈した」、「説明した」、「明らかにした」とも訳せる言葉なんですね。実は聖書の解釈や解説を書いた「註解書」という言葉の語源にもなっている言葉です。
 ということは、イエスという人間は、神という計り知れない存在の一面を解釈して人々に明らかにした、というニュアンスになりますでしょうか。イエスはその生き様と死に様によって、神というものを解釈して見せたのだ、と。
 「いまだかつて、神を見た者はいない」(18節)とヨハネは言います。その通りです。神を見ることさえできませんし、私たちは神を把握するということは不可能です。誰も神について確かなことを直接認識した人はいません。しかし、ここに一つの神の解釈としてイエスという人間がいて、その人間が明らかに神とはどのような方であるかを説明してくれたのだ、と考えるのがキリスト教だということなのです。イエスを見、イエスに聞き、イエスと共に行動すれば、神が何かがわかるはずだということなのです。
 もちろん、この考え方自体がイエスという人間に関する一つの解釈に過ぎないことは明らかです。そして、最初は「イエスほど神を明らかに解釈した人間はいない」というところが出発点で、そこから「イエスこそが生きた神なのだ」という風に解釈が広がっていったことは容易に想像できます。キリスト教というのは、「『イエスが神を解釈した』と解釈する宗教」なのです。
 そのことをヨハネは、別の、非常に美しい表現で言い表しました。それが14節ですね。
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。
 1世紀に生きたヨハネの言葉遣いによれば、「言は肉となった」。21世紀の私たちの言い方だとどうなるでしょうか。「イエスは人間として生きながら、神を完全に表した」でしょうか。しかし、ヨハネの方が遥かに美しいですし、詩的で、しかも事の本質をズバリと表しているように感じます。「言が肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この「言葉が肉となる」ということを、ちょっと難しい神学用語では、「肉を受ける」と書いて「受肉(じゅにく)」と言います。

▼イエスの生涯を祝う

 クリスマスは、この神を示したイエスの生涯を、「神の言が、人間という姿をとって、人間の間を生きたのだ」ということをお祝いする祭りの日です。
 「クリスマスはイエス様の誕生日」というのは正確な表現ではありません。イエスの誕生日というのは、わからないからです。そうではなく、イエスがこの世に生まれたことをお祝いする、つまり、「神の言が人間となってこの世に現れ、そして我々人間の一人として一緒にこの世の人生を生きた」ということを喜ぶ日なんですね。
 ですから皆さん、イエスの生涯の出来事全体がこの世に起こったことを感謝し、お祝いするつもりで、このアドベントの準備の時期を過ごして行きませんか。イエスの「受肉」の生涯によって、神がこの世の人間に見える形で示されたということを喜びたいと思います。





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