キリスト教の「異端」について


2020年1月26日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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 使徒言行録5章33-42節 
(新共同訳)
 


▼メジャーな異端

 まず初めに、1曲の讃美歌を現代風のコーラスにアレンジした音楽ビデオを皆さんにご覧いただこうと思います。先ほど私たちが歌った、『讃美歌21』の434番「主よ、みもとに」のアレンジです。
 (動画を再生:BYU Vocal Point “Nearer, My God, to Thee” 3分26秒)
 


 ……いかがでしたでしょうか。なかなかいいと思うんですけど、いかがでしょうか?
 これはハワイにあるブリガムヤング大学の「ヴォーカルポイント」という男子聖歌隊の歌です。ブリガムヤング大学というのは、末日聖徒イエス・キリスト教会、別名モルモン教がスポンサーをしている大学です。そして実際、モルモン教徒の学生が多いらしいのですね。
 モルモン教といえば、日本の多くの教会が口を合わせて、看板やポスターやホームページなどに、「統一教会・エホバの証人・モルモン教とは一切関係がありません」と書いている、あのモルモン教ですね。
 統一教会・エホバの証人・モルモン教というと、日本のキリスト教会では「三大異端」と呼ばれて忌み嫌われています。また最近では、全能神教会という新教宗教の団体がインターネット経由でかなり大々的な宣伝を仕掛けてきていて、「四大異端」と呼ばれそうな勢いなのですが、その一つであるモルモン教の大学の聖歌隊が、結構たくさん、さっきのような伝統的な讃美歌の現代的なアレンジや、新しいポピュラーソングのコーラスなどの動画を次々出しているんですね。
 このブリガムヤング大学(BYU)は、日本からの留学生の募集にも積極的で、通常のアメリカでの留学のおよそ3分の1の費用で済む、モルモン教の教会員になれば更にその半分の金額で済みますよ、といった宣伝もしています。まあこれも上手な教会員獲得の手段だなという気もしますが、あの気候のいいハワイにお値打ちに留学できて、英語がペラペラになって……となれば、なかなか悪くはない話ですよね。
 このブリガムヤング大学が今は既にメジャーになっているというだけでなく、アメリカのユタ州に本部を置く末日聖徒イエス・キリスト教会は、キリスト教を解説するビデオや、日常生活の倫理・道徳についてのわかりやすいドラマ仕立ての動画なども積極的に配信しています。その内容は、割と伝統的・保守的な価値観で、良く言えば「安心して見ていられる内容」です。彼らは自分たちのことをキリスト教であると堂々と主張してはばかりません。
 もちろん、キリスト教の方の主流派は多分これから先も相当な変化がない限り、彼らをキリスト教の一派とは認めないでしょうけどね。
 というのは、彼らは聖書のみを正典としているわけではないからですね。末日聖徒イエス・キリスト教会は、聖書以外にもう1つ「モルモン書」という正典を持っています。これを捨てない限り、キリスト教側がモルモン教徒を正統とは認めないでしょうね。
 それでも、モルモンは確実に信徒の数を増やして成長していますし、今彼らを簡単に「異端である」と言って知らん顔をしているわけにはいかないほどのメジャーになってきているということは否定できないと思います。

▼私たちが異端であった

 今日、なぜモルモン教の話から始めたかと言いますと、昨年末のある礼拝の分かち合いで、「どのような信仰が正統で、どのようなものが異端なのか」という質問が出たからなんですね。それで、ちょっと「異端」というものに対する理解の仕方についてお話ししてみようという気になりました。
 もちろん今からお話しする異端に関する考え方は、私個人の考え方なので、この後の分かち合いで、皆さんと意見を交換する中で、教会のみんなでの共通理解を作ってゆけばいいと思いますが、それに先立って、私自身の異端というものに対する考え方をお聞きいただければありがたいなと思います。
 そこで、まず私たちが忘れてはならないなと思うことは、実は私たち自身が異端であったという事です。
 歴史的な話になりますが、クリスチャンという言葉の大元は、ギリシア語で「クリスティアノイ」と言いまして、きれいに言えば「キリストの者たち」、「キリスト者たち」と言いますけど、要するに「キリストの奴ら」、「キリストの連中」という差別用語なんですね(使徒言行録11.26)。
 もともと、ユダヤ教の中の1つの勢力に過ぎなかったイエス派(またはナザレ派)の弟子たちが、イエスが亡くなった後、「イエスは実は救い主:メシアであった」と主張し始めたことで、ユダヤ教の本山であるエルサレム神殿の方では、このイエス派/ナザレ派を異端として取り締まらざるを得なくなったんですね。
 ユダヤ教にしてみれば、イエスというのはまぎれもなく1人の人間であり、人間を神にして崇めるとは何たることか、この教えを放置しておくととんでもないことになる、というわけで、取締り、逮捕し、投獄したり拷問したりしてその信仰を捨てさせようとしたわけです。

▼ガマリエルの知恵

 今日お読みした聖書の箇所も、ちょうどそのような状況の最中にある様子を描いたもので、ユダヤ教の当時の最高議決機関であるサンへドリン(最高法院)というところで、まだ「クリスティアノイ」と呼ばれる前のイエス派の、「使徒」と呼ばれるイエス派の指導者たちが尋問を受けているところですね。そして、33節にも書いているように、使徒たちはこのユダヤ教徒たちに激しく怒りをぶつけられ、殺されそうになります。
 ところがそこに、ファリサイ派というユダヤ教の中でも特に民衆に影響力の強い派閥の、その中でも特に尊敬されているガマリエルという教師がその会議の場に立って、「放っておきなさい」と言ったという話です。
 38節を改めて読みますと、こう書いてあります。
 「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」(38-39節)。
 この記事は、当時、イエス派を迫害する激しい怒りがユダヤ教の中で渦巻いていたのは確かですが、その一方で、このようなバランスの取れた穏健派の意見もあったのだということを示しています。
 残念ながら、このガマリエルの意見がユダヤ教の中で大きく支持されることはなかったようで、イエス派に対する迫害はその後も続いたのですけれど、このような主張をした人もいたのだという証言を聖書が残してくれていることは貴重なことだと思うのですね。
 キリスト教は元々ユダヤ教の中の1つの異端で、ユダヤ教から外に出て行って独立して初めてキリスト教となったということ。そして、現代に至っても、私たちはユダヤ教から見れば相変わらず異端ですが、現代ではほとんどのユダヤ人がガマリエルのように、穏健だということを忘れてはならないと思うのです。

▼キリスト教史のダークサイド

 次に押さえておきたいのは、キリスト教の歴史というのは、ほぼ異端排撃の歴史と言って良いほど、異端とは何かという定義と、それを追い出して自分たちを純粋に保とうとする動きの連続だったことですね。
 これはキリスト教史のダークサイドと言ってもいいと思いますが、よく私たちが信仰告白とか信条と呼んでいるものがありますよね、徳島北教会の礼拝では唱えませんし、唱える必要もないと思いますが、例えば「使徒信条」とか「日本基督教団信仰告白」とか。一番最初にそういうものが作られたのは、ニケア公会議というキリスト教全体で行った最初の会議の場で決議された「ニケア信条」というものです。
 なぜ、そのような会議を召集する必要があったのか、なぜ「信条」というものを制定せざるを得なかったのか。それは、キリスト教があまりに多様化してゆくことに教会の指導者が耐えられなかったからです。そして、自分たちが「正統」なんだと宣言して、自分たちの支配できる形で「統一」したかったからです。
 そのために、どこまでなら「一致」できるか、文言をすり合わせて、できるだけ多数派を巻き込むような言葉を探って、ちょっと意地悪い言い方ですが、気に入らない派閥は追い出せるような内容にして、多数派で賛成多数で決議した。そういう形で「信条」というものが作られ、一部の人が「異端」と宣告され、追放される。つまり、「正統」と「異端」というものは多数決で決議されるものなのだということを、私たちは覚えておいた方が良いと思うんですね。

▼何が「異端」を生み出すのか

 だいいち、私たちは「プロテスタント教会」を名乗っていますけれども、この「プロテスタント」というのも、「抵抗者の連中」という意味で元々は蔑みの呼び名だったこと、そしてカトリックから異端として激しく排撃されたということを忘れてはなりません。
 よく「宗教改革」という呼び方が世界史の授業でも教えられますけれども、あれは実際には宗教改革者たちはカトリックを改革できなかったんですね。実はカトリックを改革しようとした人はそれまでにもいましたが、みんな火炙りにされてきたわけです。
 そして、マルティン・ルターという人も同じように異端宣告されて、追放されて、殺されそうになったけれども、カトリックに対する反乱運動が巻き起こってきた歴史的なタイミングに助けられて生き残ることができた。そこからカトリックを飛び出して自分たちの教会を作ることができてしまったから、結果的にプロテスタント教会というものが存続しています。
 しかも、あろうことが私たちのこの徳島北教会も、ある意味では異端宣告を受け、異質なものを見る目で見る人々もいるということを忘れることはできません。それは、「聖餐式のやり方が多数派とは違う」という、たったそれだけの理由です。
 決して私たちだけではなく、ここに集うすべての人が聖餐に与る権利がある、誰も排除したくないという思いを、フリー聖餐あるいはフルオープン聖餐という形で守っている教会はいくつもあるのですが、四国教区では圧倒的に少数派です。
 その程度のことかと思われるかも知れませんが、その程度のことでも「多様化」というものを恐れる人々というのは存在します。また、逆に言えば、「正統派」とか「統一」とか「一致」というものを実現しようとすると、実は誰かを仲間外れにして「異端視」して攻撃して排除するのが一番手っ取り早いんですね。それを実際にやってきて、今もその体質が残っている。それがキリスト教のダークサイドだということも、私たちは忘れてはならないと思います。

▼犬も食わない夫婦の喧嘩

 こういうことの連続であったキリスト教の歴史を、第三者的に眺めてみると、異端問題にまつわる論争とか迫害というのは、言ってみれば「犬も食わないような夫婦喧嘩」みたいなものではないかと、私は思います。つまり、お互いに離れがたく、近く、深い関係にあるのに、他の人にはよくわからないような理由で喧嘩をしているということです。
 だから私たちがこのキリスト教の歴史から学べることは、ちょっと考え方が違うからと言って、「異端、異端」とぎゃあぎゃあ騒ぎなさんな、ということです。
 ガマリエルの言う通り、「ほうっておきなさい。あれが人間から出たものなら、自滅するだろう。神から出たものなら、滅ぼすことはできないよ」ということだと思うのですね。
 私たちがなすべきことは、何が神の喜ばれることであるかを探り、愛される喜びを分かち合ってゆくことです。自分たちが「正統」であることを確認するために、誰を排除するべきか、そのスケープゴートを見つけようとすることではありません。何が異端であるかという論議に加わって時間を潰すほど、私たちは暇ではないと思います。

▼むしろ警戒すべきこと

 むしろ、私たちが本当に恐れ、警戒しなければならないのは、「異端」の問題ではなく、「カルト」の問題です。何が正統で何が間違っているかという教義や儀式の違いの問題などよりも、どの宗教団体が反社会的で、多くの人に損害を与える犯罪集団なのかということを警戒するべきです。
 人を巧みに勧誘し、洗脳し、個人的にも社会的にも破壊してしまい、教祖や指導者の富を増やすために信者をしゃぶり尽くすような悪の組織があるんですね。
 そういう意味では、エホバの証人も統一教会も、今なお非常に大きな被害をもたらして社会問題化していますし、全能神も近年無視できない勢いで強引に信者を増やすための活動を展開しています。
 特に統一教会に関しては、最近は「世界平和統一家庭連合」と名称を変更して、家庭的な道徳を推進する団体のような表面を繕いながら、神道政治連盟や日本会議という日本のカルト団体とも手を組んで、安倍内閣とがっちりタッグを組んでしまっています。
 これは、あからさまに反社会的なテロ行為を行ってしまったオウム真理教よりも危険な状況で、政府が閣議決定という形で一方的に決めてしまえばもう誰も逆らえないような体制が出来上がってしまっているのですから、今後あの人たちが、どのような宗教政策・道徳教育をもって日本人に影響を与えようとしているのか、私は非常に恐ろしいなと思っているのですね。
 クリスチャン同士で、「ここが違う、あそこが違う」と内輪揉めをしている間に、いつの間にか真綿で首を絞められるように、気がついたら身動きが取れなくなっている。実際、そういうことが大日本帝国の時代にはあったわけですから、私たちはそういうことを本当は警戒しなければならないのではないかなと思いますがいかがでしょうか。

▼最後に再びリラックス

 ……と気が重い話になったところで、最後は少し気分転換に、もう1つ音楽ビデオをご覧いただきましょう。今日のお話の最初にお見せしたブリガムヤング大学の、今度は女子の聖歌隊で「ノートウォーディ」というグループの動画です。後で私たちが歌うつもりの、『讃美歌21』の226番「輝く日を仰ぐとき」の現代風のコーラス・アレンジです。
 (動画を再生:BYU Noteworthy “How Great Thou Art” 4分12秒)

 







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