感染症とイエス 2020年5月3日(日) 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし 牧師:富田正樹 |
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マルコによる福音書1章40-45節 (新共同訳) ![]() |
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▼ツァラアト おはようございます。5月に入りました。当初は、5月上旬までの外出自粛要請も、どうやら延長になりそうで、私たちの教会も5月31日までの礼拝をオンラインで行うことになりました。 直に顔を合わせることができないのは大変残念ですけれども、自宅でくつろいで、美味しい飲み物でも用意して、居心地の良い状態を作って、それぞれの場所で神様と過ごす時間を持ちながら、オンラインで繋がって一緒に進めてゆきたいと思います。 今日はマルコによる福音書のごく初めの方に書いてあります、重い皮膚病を患っている人をイエスが癒す物語を読んでいただきました。 皆さんがお持ちなのは新共同訳聖書で、それも改訂後の聖書なら「重い皮膚病」となっているのだろうと思いますけれども、実は私の手元にある聖書は改訂前の20年前の聖書で、「重い皮膚病」のところが「らい病」になっています。 「らい病」というのは差別用語なので、今は公には使われませんが、要するにハンセン病のことですね。20年前はここに出てくる皮膚病はハンセン病だという解釈だったんですね。ところが、それが間違いである、つまりハンセン病ではないということがわかって、「重い皮膚病」という言葉に改訂されたんですね。 じゃあ実際何の病気なのかというと、これはもうわかりません。 これは元々ヘブライ語聖書(旧約聖書)のレビ記13章から14章にかけて、「ツァラアト」と呼ばれていた病気なんですが、それが現代私たちが認識しているその病気であるかははっきりしないんですね。 と言うのも、まずそこに書いてある「ツァラアト」の症状が厳密にはハンセン病の症状とは違うということと、それから「ツァラアト」というのは皮膚病以外にも、布製品や革製品にできたカビのようなものも、全部「ツァラアト」なんですね。ですから、ますますハンセン病ではない。 なので、今一番新しい日本語訳は2種類あって、1つは『新改訳2017』というのがありますけれども、そちらでは「ツァラアト」は全部カタカナで「ツァラアト」と書いてあります。もう1つは『日本聖書協会共同訳』ですけれども、そちらの方では「規定の病」と訳しています。 いずれにしても、今日お読みしたイエスの癒しの物語に出てくる病気は「ツァラアト」であって、ハンセン病(らい病)ではありません。何か当時の人たちが恐れていた何らかの皮膚に症状が出る疾患であったことは間違いないでしょう。 では、なぜ私が今でも「らい病」と書いた聖書を使っているのかというと、それは聖書の翻訳というのは一種の解釈で、たった20年前のような最近までも、解釈する人がハンセン病に対する差別意識を持っていると、そのように間違った訳し方をしてしまうという戒めとして、「らい病」という単語に赤い蛍光ペンを塗って使っているんですね。 ▼汚れ はい、というわけで、このツァラアトと人々に呼ばれ、恐れられていた皮膚に症状が出る病気にかかった人がイエスのところにやってきました。 これは相当勇気の要る行動だったと思うんですね。というのは、当時ツァラアトに罹った人は、レビ記13章45−46節によれば、「衣服を裂き、神をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」と書いてありますので、基本的に人が集まっているところに出て来てはいけない、と律法で決まっていたんですね。 それはなぜかというと、このツァラアトは強い感染力を持っていると考えられていたからです。ただし、現在の我々が考えるようなウイルスや病原菌というものの存在は古代人は知りませんので、そういう感染とは違う、「汚れ(けがれ)」ですね。近づくと汚れが移るというような感覚です。汚れているということは、清い神からも遠く離れていて、神に見放されている、あるいは神の罰かもしれないといった見方をされていて、患者は非常に人々から忌み嫌われたんですね。 ですから、この患者さんが、あちこちから人が訪ねて来て集まっているようなイエスのところにやってくるということ自体が、非常に勇気のいることだったと思うんですね。 そして、イエスのところに来て、ひざまずいて、「御心ならば、私を清くすることがおできになります」と言った時に、この人がツァラアトだと知った瞬間、人々は「うあっ!」と散っていったかも知れませんね。 ▼断腸の思い この患者さんは「御心ならば」と言っていますけれども、聖書協会共同訳では「お望みならば」と訳されています。「御心ならば」というのは、最初からイエスを神だと信じている人の訳ですけれども、この患者さんはまだイエスのことを神だと思っているのかどうかはわかりませんから、「お望みならば」という訳の方がいいかも知れませんね。「あなたが望めば、あなたのご意志なら、私を清くすることができるんです」と言っているんですね。 これに対して、イエスは「深く憐んだ」と書いてあります。この「深く憐む」という言葉も、解釈する人の間ではよく知られていますけれども、「はらわたがちぎれるような思いで」という意味が正確なんですね。「腸が千切れるような思い」。 よく日本語でも「断腸の思い」と言いますし、その「断腸の思い」というのも中国の故事から来ていると聞きますけれども、洋の東西を問わず、「内臓が千切れるような思いで憐れに思う」という感情表現はあるのですね。 そして、イエスは断腸の思いのあまり、この患者さんに素手で触れてしまった。私の拙いギリシア語力ではありますが、、ここの部分はこんな風に読めます。 「イエスは断腸の思いで手を伸ばし、彼を掴み、そして彼に言う。『私は望む。清くなれ』」(マルコ1.41)。 ここで新共同訳で「よろしい」と言っているのは、ちょっとおかしいですね。患者さんが「あなたがお望みならば、治せます」と訴えているので、イエスが「私は望む。治れ」と言っているんですね。イエスの強い思いが表れている言葉です。「私はあなたに治って欲しい! だから治れ!」と、自分の感情を抑えることができずに、思わず患者さんを掴んで、「治れ!」って言っているんですね。 ▼良い知らせの宣教 遠巻きに見ていた人たちもびっくりしたでしょうね。いくら感情が昂ったからと言っても、触ったら汚れが移ってしまう。触るのはダメです。それをイエスはやってしまった。もうイエスに近づくこともできません。 イエスはこの人に厳しく注意して、立ち去らせようとしました。「誰にも何も話すな」と。そして「行って、祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と(44節)。これもレビ記に書いてある規定通りのことで、もし症状が治まったら、まず誰にも言わないでユダヤ教の祭司のところに行って、症状がひきましたよということを確認してもらって、あとは献げ物をして、祭司が清めの儀式をやることで人々に治ったということを証明して終わりということを言っているわけです。 けれども、この元患者さんは、大いにこの癒しの出来事を「人々に告げ、言い広め始めた」(45節)と書いてありますね。この「告げる」という言葉は、確かに「告げ知らせる」とか「言い広める」という意味ですけれども、同時に新約聖書の中では「(福音を)宣教する」という意味にも使われる言葉です。ですから、この物語は、イエスによって清められた。この良い知らせをみんなに知らせたい! と言って宣教する人の物語と言うこともできるんですね。 でも、その結果として、「イエスはもはや公然と町に入ることはできず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た」(45節)と書いてあります。 おそらく、汚れた人間に触ってしまったことでイエス自身も汚れた人間として、忌み嫌われ、表立って町中に入ることができなくなってしまった。イエス自身も差別される患者たちと同じように、被差別者の仲間入りをしたというわけです。それでもイエスを必要とする人は四方から集まって来たということですね。 ▼心を蝕む病 ![]() イエスにとっては自分がこの感染症の患者に触れてしまうことで、自分に汚れが移るということは、当然予想がついていたと思います。それとも彼は自分だけは汚れないという自信があったのでしょうか。 いずれにしろ、彼が患者に触り、掴むことで、周囲の人間がどのように自分を見るか、自分を汚物でも見るかのように忌み嫌うことは咄嗟に判断できたのではないでしょうか。大抵の人ならそうでしょう。 しかし、彼はこの患者さんを目にして、放っておくことができませんでした。はらわたがちぎれるような憐みの感情に突き動かされて、感染者を掴んでしまった。「そして、私は望む。清くなれ」と言いました。「治って欲しいんだ。それが私の望みだ」と。 私は、ここで本当に瞬時にこの感染症が跡形もなく治った、というのが歴史的に事実であったかということは述べることはできません。触れただけで感染症が治るということは、現在の私たちの世界では考えられないことですし、科学法則が現在と2000年前とでは違うということも考えられないからです。 そして、もしイエスが本当に病を癒す力を持っていたとしても、あまり今の私たちには大事なことではないと思います。というのも、実際に今私たちが生きているこの世界にイエスがすぐやって来て感染症を瞬時に癒してくれるということは、ありえないことだからです。 私たちは今、感染症の爆発的な拡大のために、お互いの顔を直接見ることも許されない。そして、経済も教育も崩壊の危機に瀕しているという、とんでもない状況に共に生きています。 この状況の中で、私が今強く感じているのは、この感染症は人の心をも蝕むということです。 ▼人を分断する病 今、私たちはただでさえ、物理的な距離を取り合って、お互いに離れることを強いられています。それは、自分が感染しないようにするだけでなく、自分が無症状のうちにでも感染してしまい、他の人に感染させてしまうかも知れないために、ソーシャル・ディスタンスをとりなさいと言われています。 ソーシャル・ディスタンシングが間違っているわけではありませんし、私たちはそれを守らないといけません。しかし、そのことが人と人との心の距離を隔てさせ、孤立感を深めさせることにつながってゆくのではないか、という気がします。 ましてや、本当に自分が感染していると分かった場合、自分は隔離され、症状が重くなった場合は、そのまま家族とも会えないまま生涯を終わり、次に会ったのは骨になった時、という状況にもなりえます。 感染が重篤化した場合、家族とも他の人とも引き離されたまま、ただ独りぼっちで苦しんで死んでゆかねばならない。たとえ重篤化しようがしまいが、感染者を出した家が差別落書きをされたり石を投げられたりするような社会というのは、かつてのイエスの時代のツァラアトをめぐる状況と何も変わっていません。 ツァラアトと同じように、このCOVID-19という感染症は人を孤独にし、社会を分断させる病だと思います。それは単に肉体的な病気として恐ろしいだけではなく、感染者を差別し、ウイルスではなく人間を忌み嫌うようにさせる憎たらしい病気なのです。私たちは、この病気によって心まで蝕まれてしまうことのないように、戦わないといけません。 ▼イエスの救い 私たちはイエスと同じことはできません。イエスはソーシャル・ディスタンスを破って、突っ込んでゆきました。しかし、私たちは今私たちが同じことをしても、何の役にも立たないことを知っています。 ただ、私は先ほど、イエスが物理的にこの病気を治したかどうかはわからないと言いましたが、イエスがこの感染者の魂を深く癒したことは確実だと思います。 この感染者にとっては、病そのものの肉体的な苦しみだけではなく、それと同じくらい大きな魂の孤独が苦しかったはずです。 病気が悪いというのではなく、まるで感染した自分が悪いのだと忌み嫌われ、町からも家からも追い出され、誰にも二度と会わずにたった独りで死んでゆかなければいけない、そんな人生の終わり方。神にも呪われていますから、死んだ後にも安楽な天国が待っているわけでもない。 そんなどうしようもない絶望、何にも救いのない現実の中で、荒み切った心を抱えて、ただ死ぬのを待つだけの人生。「何のために生まれて来たのかなあ」、「早く自分なんか死ねばいいのに」と思う毎日。 でも、イエスの噂を聞いた時、この人だけは違うと思ったんですよね。この人は自分のことを人間扱いしてくれるんじゃないかと直感したんでしょうね。そこで「私は汚れた者です! 近づかないでください!」と叫びながら、石を投げられながら、イエスのところに行ったんですね。 そしたら、イエスは自分に手を触れるどころか、がっしり掴んで、「治れ! それが私の望みだ!」と言った。 その瞬間、この感染者の人は孤独の殻の中に凝り固まった魂は解放されました。「このイエスという人だけは、私の魂の中に入り込んできてくれた」。この人に自分を開け放して良かったと思い、彼は心底救われたと思います。イエスだけは自分を孤独のままに捨ておかない。イエスのおかげで自分のこれからの人生は変わった! だから、彼は「自分はイエスに救われたんだ!」という喜びを、多くの人に知らせようとしたんですね。 ▼愛された者として イエスはソーシャル・ディスタンスを飛び越えて、人を孤独から救ってくれる人です。そのことによってイエス自身が人の集まりから追い出されてしまうことになっても、私たちの心の中に入って来てくださる方です。 私たちはイエスの真似をするわけではありません。しかし、イエスの思い、はらわたのちぎれるような憐みに応えるならば、イエスのように、人を孤立させない、人の心に寄り添う者でありたいと思います。 実際には、私たちはこの追い詰められた状況の中で、ストレスを溜め込み、攻撃性を高めてしまっている部分もあるのですけれども、それでも今この聖書の箇所を読み、我に返って、自分もイエスに愛されている者として人を愛してゆくことができれば、と思い直す者です。 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。 |
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