いつかはあなたもわかるだろう


2020年8月30日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る




 ヨハネによる福音書13章1-11節 
(新共同訳)
 



▼イコンについて

 皆さん、おはようございます。今朝も週の初めの日、こうしてオンラインという形式を通じてではありますけれども、皆さんのお顔を見て、神様に礼拝をお捧げできることを感謝いたします。
 今日は、先日Оさんが転入会記念に、教会に寄贈してくださったイコンにちなんだお話をしようかと思っています。
 本来なら、そのイコンを直に目で見ながら、そんな説き明かしをできればと願っていたのですが、COVID-19の感染が一向に収まる気配がなく、いつまで待ったら礼拝堂で礼拝ができるか分かりませんので、もう今日お話ししようと思いました。そういうわけで、イコンをお贈りくださったОさんに心から感謝しつつ、そのイコンとイエスが弟子たちの足を洗った出来事についてのお話をしようと思います。
 イコンというのは、日本語に訳すと「聖像」とか「聖図像」と言います。イエス・キリストやその弟子たち、聖母マリア、またその他の聖人たち、あるいは教会の代表者である教皇などの姿を絵に表したものですね。そして、それは普通の美術として鑑賞する絵ではなくて、その絵を前に祈りを捧げます。熱心な人は絵に何度も口づけをしながら、祈ったりします。
 私たちプロテスタントの教会では、イコンに祈りを献げるということはやっていません。それはプロテスタントを開いた宗教改革者たちが「イコンやマリア像などで礼拝するのは偶像礼拝に当たる」と言って、こういうものを一切廃止したからですね。
 ところが、現在でもロシアや東ヨーロッパ諸国、中東、北アフリカの一部のような、いわゆる正教会(東方正教会)の影響が強いところでは、教会の内外にイコンが掲げられ、人々がイコンに祈りを捧げている様子を見ることができます。また教会だけではなく、家の中にもイコンが掲げられていて、家庭祭壇をしつらえている家も多いんですね。

▼イコン論争

 でも、このイコンについてのキリスト教内部での論争の火付け役は、その正教会の本拠地の東方教会の方から起こっているんです。
 まだ西方の教会と東方の教会が完全に分裂する前なんですけれども、8世紀(700年代)の初め頃の東ローマ皇帝が、イコンで礼拝するのをやめなさいと言って「聖像禁止令」というのを出すんですね。
 ところがこれが東方教会の修道士や一般の信徒から大反対を受けるんですね。そして、西方教会の方でも、西方教会では北方から流れ込んできていたゲルマンの諸部族に、イコンを使って宣教していたので、こちらも大反対したんですね。
 このことで西方教会と東方教会の対立は決定的になって、800年には西のローマ教皇がゲルマン系の王様を「ローマ皇帝」として立ててしまって、東ローマから独立してしまったんですね。
 そして、そのあとも、このイコンの論争だけではなく、信条の文章の違いとか、聖職者の結婚の問題とか、色々な論争が巻き起こって、結局1054年には完全に東西教会大分裂ということになったんですけれども、そもそも実質的に分裂を避けられないものにしてしまったのは、この700年代の「聖像禁止令」だったとされているんですね。
 しかも、皮肉なことに、もう700年代の後半には、東ローマでも逆に「聖像禁止令」の方が異端だということになって(787年の第二ニカイア公会議)、イコン崇敬が復活します。そして、今では西のローマ・カトリックよりも東の正教会の人たちの方が熱心にイコンを使って礼拝をしておられるという現状です。
 これはカトリックの聖人や聖母マリアへの「崇敬」と似ている話ですけれども、あちらの方々は「崇拝」と「崇敬」という言葉をきっちり分けておられますね。日本語ではよく似た言葉ですけれども、元々は全然違う言葉です(latriaとdulia)。正教会でもイコンへの「崇敬」と神様への「崇拝」は全然違います。
 別の説明の仕方をしますと、イコンというギリシア語は、英語の「アイコン」の語源です。アイコンというのは、コンピュータやスマホの画面にある丸かったり四角かったりするマークで、そこからアプリを起動することができますよね。アプリそのものではないんだけれども、そこを入り口としてアプリの世界に入れる。それと同じように、イコンもイエス様そのものではないけれども、そこを入り口としてイエス様の世界に入ってゆくことができる窓口なんだと考えれば良いと思うんですね。
 イコンを神格化して祈るのではなく、イコンを通じて心の中に思い起こされるイエスの愛を信じ、そしてイコンの向こう側にある神様への祈りを献げるということであれば、私はプロテスタントであってもなんら問題はないのではないかと思います。

▼先生が奴隷になる

 さて、Оさんが贈呈してくださったイコンの絵柄は、皆さんもご存知の通り「洗足のイエス」です。今日お読みしたヨハネによる福音書の13章、イエスが「弟子の足を洗う」場面ですね。
 この聖書の箇所は、通常は受難週(つまり、復活祭の前の週)の木曜日に読まれます。イエスの受難が金曜日でその前日に起こった出来事だということで、その木曜日のことを「洗足木曜日」と言うんですね。実際にその洗足木曜日の夜に教会に集まって、教会員の方の足を牧師が洗ったり、教会員同士でお互いに足を洗い合ったりということを行う教会もあるようです。
 もうすぐ逮捕される、殺されるということを悟ったイエスは、弟子たちと食事をしている時に、立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとって、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭きます。
 この時、足を洗う際に使われたのは、金物でできた桶で、真ん中が盛り上がっている、ちょっとジンギスカンの鍋か帽子のような形になっているものだと言われています。真ん中の盛り上がったところに足を載せてもらって、周りに貯めた水で洗うんですね。
 イエスの時代のユダヤ地方では、履き物というのは主にサンダルでした。そして、幹線道路が石畳になっている以外は、道は舗装などされているところはほとんどありませんので、外を出歩いて帰ってきたら、足は土埃だらけになります。その足を洗うのは、奴隷の仕事です。もちとん奴隷を雇うことを許されている階級の人の話ですけれども。
 イエスは弟子たちに対しては、普段は教える側で「主よ」と呼ばれている側ですが、この時は、自ら奴隷のやることを実践したわけですね。

▼いずれはわかるようになる

 いきなり師匠が奴隷のやることを行い始めたので、弟子たちは戸惑いました。シモン・ペトロは「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と驚きを隠せません。これは「あなたが私の奴隷のようなことをどうしてするのですか?」と言うような意味が込められています。
 それに対してイエスは「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、あとでわかるようになる」と言います。
 さらにペトロは「私の足など、決して洗わないでください」と言います。そのような立場が逆転するようなことはなさらないでください、と言っているのでしょうか。
 しかしイエスは「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないこともなる」と答えました。
 そこでペトロは調子に乗ったのか、「主よ、足だけではなく、手も頭も」と求めるのですが、これに対してはイエスは「既に体を洗った者は全身清いのだがら、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」と言って、自分を裏切る者がいるということを暗に示しているように描かれています。
 この一連のイエスとペトロの会話で、個人的な思いをお話しして恐縮ですけれども、私が印象深く感じ、思い入れがあるのは前半の部分です。「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、あとでわかるようになる」という言葉。これは、教育の仕事をしている者にはジーンとくるものがあるんですね。まあ教育職に関わらず、人のお世話に関わることに従事している者には、覚えのある思いだと思うんですね。
 「私のしていることは、今はあなたには分からないだろうけど、あとでいつかわかるようになるよ」。今はわからないけどしれないけれど、いつかはわかるようになる。だから、今はあなたに分からなくても、私は今このことをするんだよ、と思いながら、私たちは人に接してゆくのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

▼洗礼と洗足

 イエスとペトロの会話の後半は、足を洗う話から段々と全身を洗った話に移っていきます。これは、洗礼のことを話しているのだなと推測されます。
 他の3つの福音書では、イエスが洗礼について言及するところはほとんどないのですが、ヨハネによる福音書だけはイエスが洗礼を授けていたと書いています。おそらくイエスが洗礼を授けたということは事実としては無かったと思われますけれども、イエスの亡くなったあと70年近く経って、ヨハネが福音書を書く時には、洗礼というものにちゃんと「イエスが私たちを洗い清めてくださるもの」という意味づけを与える必要があったのかなと思われます。
 それでヨハネはイエスに「もし私があなたを洗わないならば、あなたは私と何の関わりもないことになる」と言わせているんですね。ヨハネにおいては、洗礼というのは、イエス自身に自らを洗い清めてもらうものであり、それがイエスとの永遠の関わりになるということなのでしょうね。
 そして、それを思い起こすために毎年行うのが洗足。全身を洗うのは一生に一度ですが、そのイエスとの繋がりを思い起こし、イエスが私たちを愛してくれたように、残された人間が互いに仕え合うということを、毎年互いに足を洗い合うという行いに表したのかも知れませんね。
 ヨハネは、この先の14節で、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とイエスに言わせています。
 ですから、案外うちの教会でも、洗足式というのを受難週にやってもいいかなあなんて思ったりもしますね。まあスキンシップが苦手な人にはちょっと苦しいかも知れませんけどね。ちょっとした思いつきです、すいません。

▼互いに洗い合う

 そのようなわけで、今日お読みした聖書の箇所では、最後にイスカリオテのユダの裏切りに対して、ヨハネが「清くない」とバッサリ切って捨てているので、ちょっとその辺りが残念ではありますけれども、メインテーマとしては、イエスが奴隷のようになって弟子に仕える行いをしたことで、言葉でどうこう言うよりも、行いでこの意味を悟れということ。
 そして、それはイエスとイエスについて行こうとする者の結びつきそのものでもあるんだということ。そういったことをヨハネは私たちに伝えようとしているのだということはわかるのではないかと思います。
 互いに奴隷のように仕え合うこと、それはなかなか実践的に難しいことではありますが、イエスがまずはそのように私たちに仕えてくださったのだということを私たちは強く思い起こしたいと思います。
 また、それは教会の内部で互いに奉仕し合うだけでなく、私たちが世の中の他の人に接する時にも持っていたい心構えだと思うのですね。そして特に、「たとえ今の自分の心が相手にすぐに伝わらなくても、いつかはわかってくれるだろう」という長〜い気持ちで人と関わるということは、自分のためにもいいことだと思うんです。
 皆さん、これからこの洗足のイコンを見るたびに(もちろん、ウイルスの感染が収束して、礼拝堂に集まり、直にこのイコンを目にするのは、だいぶ先のことになるかも知れませんが)、この洗足の場面を思い起こしながら、イエスが私たちの足を洗ってくださるのだから、私たち人間も互いに足を洗い合うように、互いに仕え合おうという思いを新たにしたいと思います。






教会の入り口に戻る

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール