因果応報でもない、自業自得でもない

 2020年10月18日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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 ルカによる福音書15章11-32節 
(新共同訳)
 



▼読めばわかる

 おはようございます。今日は、有名な「放蕩息子」と呼ばれるイエスのたとえ話を読みました。
 イエスのたとえ話には、よく「天の国は次のようにたとえられる」という枕詞のようなものがあったりするものがありますが、このたとえ話にはそのような枕詞はありません。
 また、よくたとえ話の最後に、「このように天の国はこのような者たちのものである」とか、「このように小さな者が一人でも滅ぶのも、天の父の御心ではない」とか、説明的な結論みたいな言葉がついていることもあります。しかし、この「放蕩息子」のたとえ話にはそのような説明もありません。
 これを福音書に収録したルカに言わせれば、「読めばわかる」ということなのかもしれません。あるいは、「どんな風にでも解釈してごらん」という開かれた問いなんだよということなのかもしれません。
 この物語をどう読むか、自由に考えればよいわけですから、私が一定の解釈をお話しするよりも、最初から分かち合いの時間にして、思うところを話し合うということでもよいのかもしれません。
 けれども、私も何度もこの物語を読み返したり、学校で中高生の皆さんに授業をする中で、最近気づいたこともありますので、今日はその最近気づいたことだけをお話ししようかなと思います。
 
▼正直者がバカを見る

 今日、お話ししようと思うことは3つあります。3つあるうちの1つは、これは因果応報の思想と真っ向から対立するのであるということです。
 よく私は授業で生徒さんたちに、まず最初に「このたとえ話には3人の登場人物:父親、兄、弟(すなわち放蕩息子)が出て来ますが、自分だったら、誰に一番感情移入できるか、誰に共感できるかということを考えながら聞いてくださいね」と言ってから、この物語を朗読します。
 朗読し終わってから、「さあ、お父さんに共感すると思う人!」と聞くと、まあ手を挙げる人はいません。「お兄さんに共感すると思う人!」と聞くと、ほぼ全員が手を挙げます。最後に「弟に共感すると思う人!」と聞くと、誰も手を挙げません。
 今まで、私が働いている学校では、この弟に共感すると言って手を挙げた人は誰もいませんでした。と言っても、圧倒的多数が兄に共感すると手を挙げている中で、自分ひとりだけ違う意見を持っていると手を挙げるのは相当勇気の要ることでしょうから、全く共感する人がいないと言い切ることはできませんが、まあ圧倒的多数が、真面目に父と一緒に働いてきた兄の方を支持します。
 その気持ちはわかります。何年も真面目に働いて来た人間が何も報われないで、本来なら死んだ後に相続するべき父親の遺産を、生きている間によこせと言ったとんでもないドラ息子、そしてそれを全部お金に換えて、飲む、打つ、買うの放蕩三昧、その結果スッテンテンの無一文になって、食べるにも困ってしまったから、「すいませんやっぱり助けてください」と出戻ってきやがった。
 そんな出来損ないが、いちばん良い服を着せてもらって、良い靴を履かせてもらって、指輪をはめてもらって、子牛1頭つぶしてバーベキュー・パーティ、音楽や踊りで歓迎してもらえる。そんなバカな話がありますかいな、と誰がそう思ってもおかしくありませんよね。
 これこそ「正直者がバカを見る」という話です。お兄さんは正直者だったからバカを見たんです。こんなんだったら、ボロボロになるまで遊び呆けて帰って来た方が得やんかと。これはそういう話です。それで、誰に同情できるかというとやっぱりこのお兄さんだな。弟は許せない、ということになるわけです。

▼苦労人と応報思想

 こういう発想の根底にあるのは、「因果応報」の考え方です。「応報思想」とも言います。「因果」の「因」は「原因」の「因」、「果」は「結果」の「果」。「応報」というのは、「報いとなって応えている」ということで、「原因と結果は必ず結びついている」という考え方です。また、「原因と結果は結びついていなければいけない」という思い込みのことでもあります。
 善い行いをした人は良い報いを受けるべきであり、悪い行いをした人は悪い結果を引き受けなければならない。逆に言うと、何らかの不幸を負っている人は、何かその原因になるような悪いことをしたのだろう。そして、苦労をした人はその苦労が報われて当然である。苦労も努力もせず、チャランポランに遊んでいるくせに出世したとか大金持ちになったというと、それは許せないという考え方。こういった発想は全部この「応報思想」の思想から来ているものです。
 最近では、どこかの国のお爺さんが総理大臣になったとかで、「彼は苦労人だから」と言って妙に持ち上げられたりしていますが、苦労人だから良い政治をしてくれるかどうかというのは全く関係ないはずですけれども、何か「苦労人だから出世するのは良いことだ」という思いだけで正当化してしまう。これも、いかに多くの人が応報思想にどっぷり浸かってしまっているかということがわかります。
 そして逆に、サボったり、遊んだり、悪さばかりしていて、結果的に落ちぶれてしまうと、「ほら見たことか」、「自業自得や」と言われてしまいます。「自業自得」というのは、「自分の業(ごう)の結果を自分で得る」ということで、やはり「因果応報」の発想から来ている言葉ですね。
 ところが、この「放蕩息子」のたとえ話は、そういう「因果応報」「自業自得」と言われて当たり前の人間が、真面目にやっている人間よりも愛されるという話です。だから、みんな納得がいかないんですね。
 そりゃ納得いかないでしょう。みんな因果応報が脳髄まで染み込んでいますから。でも、残念ながらキリスト教と因果応報は違うのです。真っ向から対立します。仕方ありません。キリスト教、あるいは少なくともイエスの論理では、「ダメ人間こそが愛される」、「最低な奴が愛される」。神の愛とはそういうものなんだ、というわけです。

▼道徳の話ではない

 2点目にお伝えしたいこと。それは、この物語が「依存症」との関連で理解できるのではないかという視点が出てきているということです。
 この放蕩息子、「放蕩のかぎりを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」(ルカ15.13)と書かれていますが、財産をまるまる失ってしまうほどの遊び方というのは、具体的に言えば、おそらくお酒、賭け事、そしてこのお兄さんが言っているように「娼婦どもと一緒に身上を食いつぶして」(ルカ15.30)とありますから、そういう方向にも相当お金をつぎ込んだのでしょう。あるいはひょっとしたら麻薬にも手を出していたかも知れません。
 現代風に言えば、「アルコール・ギャンブル・セックス・ドラッグ」。これら全てに身を持ち崩す危険性が潜んでいます。また、身を持ち崩すほどのめり込んでしまう人というのは、依存症を持っている可能性があります。
 逆に言うと、大抵の大人は、これらを適度にたしなんでやめることができます。しかし、身を持ち崩し、人生を破綻させるまで放蕩をやめることができなかったということは、即ちその人が依存症であることはまず間違いありません。
 ということは、もう道徳とか倫理とか、善悪の問題ではありません。この人は治療の対象であり、救済の対象だということです。この人を裁いても仕方がありません。依存症は病気だからです。
 この「放蕩息子」の物語は、実は真面目にやっていた善い人と不真面目な悪い人の対比の物語ではないんですね。そうではなく、依存症によって人生を破滅させてしまった人を、いかに救済するのか。「神は救済したいと思っておられるのだ」、「この人こそ救済されなければならないのだ」とイエスは言っている、ということなのです。

▼再び起こされる

 最後に3点目。3点目は「復活とは何なのか」という問題です。
 放蕩息子が帰って来たとき、お父さんは「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(ルカ15.24)と言います。
 また、怒ってしまったお兄さんをなだめる時にも、お父さんは「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った」(ルカ15.32)と言います。お兄さんが「あなたのあの息子が」という言い方をするのに対して、お父さんは「お前のあの弟は」と言って、「あれはお前の可愛い弟じゃないのか」ということを思い出させようとしているわけですが、まあそれはともかく、その弟は「死んでいたのに生き返った」と2度も繰り返して言っています。
 言うなれば、この放蕩息子は人生をボロボロに破滅させてしまった。まさにどん底の状態、最低の状態。それを「死んでいた」と表現しています。彼は死んでいたのです。
 しかし、お父さんのところに帰りたいと思って帰って来た。それだけで、「もうこの子は生きている」、「生き返った」のだ、と喜んでもらえる。大歓迎してもらえる。ここから彼は人生をやり直せる。このやり直しがいわば「復活」なのだということです。
 「復活」という言葉が語弊を招きそうならば、「再起」という言葉に置き換えてもいいかも知れません。この物語では、一旦は滅びてしまった人間がもう一度人生をやり直すこと、即ち「再起」を「死んでいたのに生き返る」という言葉で表現しています。

▼このような愛がある

 面白いことに、日本語の聖書で「復活した」と訳されている所は、その元のギリシア語の単語を直訳すると、実は「再び起こされる」になるんですね。つまり「再起させられた」です。
 聖書の中で「イエスは復活した」と日本語で書いてある所は、実は直訳すると、全部「イエスは再び起こされた」、「イエスは再起させられた」なんです。
 そうなると、実はイエスや福音書記者たちが言っている「蘇り」とか「生き返ること」とか「復活」って本当はどういう意味なの? ということを、改めて考え直した方がいいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 人間社会の中では、そのままでは絶対に救われない、死んでしまった方がましだと思われるような、実際死んでしまってるような見失われた人間が、救われて、もう一度人生をやり直せるとしたら。生き返ることができたとしたら。それはもう奇跡としか呼べないでしょう。それを可能にできるとすれば、それこそ全能の神と呼ばれるべきでしょう。それこそが「復活」だと言えるのではないでしょうか。
 このような愛でないと救われない人間がこの世にはいます。このような愛があるから、何とか生きることができる人間がいます。「このような愛があるのだよ」と、「あなたは生き返ることができるんだよ」と、この世に対して呼びかけることができる、私たちはそのような教会でありたいと思います。






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