ひとつ屋根のもとの安らぎ

 2020年12月20日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 クリスマス礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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 ルカによる福音書2章1−7節 
(新共同訳)
 



▼税を払わせていただきます

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。
 色々とこの世の都合があり、今年は直に顔を見て、一堂に会してクリスマスの祝いの時を持つことができません。様々な制限があり、困難があり、希望が見えない時代です。
 しかし、このような時だからこそ、この社会を生き抜くために、「私たちは皆、神に愛されている」ということを信じる。誰が何と言おうと、それは確かで、そのためにイエス様がこの世にお生まれになったのだと信じ、それをますます私たちはこの世に対して宣べ伝えてゆく。それが大事だと思わされます。
 今日の聖書の箇所は、クリスマスの物語、ルカによる福音書第2章の始まり、皆様もよくご存知ではないかと思いますが、イエス様の誕生の瞬間を描いた場面です。
 その時のローマ帝国の皇帝アウグストゥスが、「全領土」と言いますから、広い広いローマ帝国の、即ちイスパニアからユダヤまで(スペインからイスラエルまで)、地中海沿岸の全ての属州から税金を集めるための原簿、台帳を作るために、全ての世帯は登録しなさいという勅令を下したんですね。
 まあ昔も今もどこでも、こういうことは一緒なのかも知れないなと思いますが、税金というのは往々にして払う方がしんどい思いをして、あれこれ登録したり、申請したり、手続きをやらされますよね。
 税務関係の事務とか、確定申告とかやっていたら、「誰が喜んでこんな面倒臭いことを、しかもこちらから出向いていってお願いせなあかんのか?」とか思うようなことばかりじゃないですか?
 しかし、権力者というのは庶民に向かって、「ありがたくも、お前たちに税を払わせてやっているのである」というスタンスですよね、常に。それは2000年前のローマも、今の日本もあまり本質的には変わっていないんだろうなあと思います。

▼馬小屋か洞窟か

 まあそういうわけで、とにかくイエスを産むことになるマリアも、その夫となったヨセフも、その住民登録のために、世帯主のヨセフの里に帰ることになりました。その町はベツレヘムとされています。けれども、これは先日、マタイによる福音書の冒頭に書かれた系図と同じように、「キリストはダビデ王家の子孫でなければならない」という読者の期待に応えて作られた設定です。ダビデは元々、ベツレヘムに住んでいた羊飼いだったんですね。そこで、「キリストもベツレヘムから現れるのだ」という話です。
 さて、そのベツレヘムの町でマリアは産気づき、初めての男の子を産み、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2.7)と記されています。
 この場面を描いた絵や、人形とか模型などがたくさん作られていて、この季節になると、よく見かけるようになりますよね。馬小屋でお馬さんや羊さんなどが見守っている中で、マリアとヨセフが寄り添っている。そのそばに赤ん坊のイエス様が、家畜たちの餌の干し草を入れる木でできた入れ物の中に、干し草をクッションのようにして寝かされている。そんな様子が描かれていて、なんとも牧歌的というか、見ていて心が和みます。
 けれども、そうやってプロテスタントの信徒が和やかな気分に浸っているところに、カトリックや正教会(東方正教会・あるいはギリシャ正教とも呼ばれますが)の人たちは、「それはあなた方の単なる思い込みに過ぎないよ」と言ってきます。大体そういう時は彼らは上から目線です。「それは違うよ(笑)」みたいな。
 なぜかというと、正教会とかカトリックには「聖伝」すなわち「聖なる伝承」というものがありまして、彼らはプロテスタントより歴史がありますから、それだけ昔から続いています。それだけイエス様の時代に近いところからの言い伝えを持っているのだというわけです。特にキリスト教の中でも最も古い正教会の人たちは、それだけイエス様についての最初の言い伝えを伝えているのだと胸を張ります。
 彼らが言うには、「本当にイエス様が生まれたのは洞窟の中だ」というんですね。また、その当時の飼い葉桶というのは、実は木でできた箱のようなものではなくて、そこそこのサイズの石材を洗面所のシンクのようにくり抜いたものです。これは私もイスラエルで実際に遺跡に残されている、「昔はこれを使ったのだ」という現物を見たので、「なるほどな」と思います。
 けれども、正教会の人たちが、「イエス様(イイスス様)が亡くなられて葬られたのは石の壁に掘られた墓であり、寝かされたのは石の台である。だから、ご誕生の際にも、石に掘られた洞窟で、石の飼い葉桶に寝かされたのである」とおっしゃるのを聞くと、それは結局、洞窟でご誕生されたという話が、イエス様の埋葬に合わせて作られた話、つまりフィクションであるということじゃないの? と、また私は思ってしまうのですが、これ以上言うと正教会の人の逆鱗に触れて、また炎上してしまいますので、差し控えたいと思います。
 でも、とにかく今日の聖書の箇所でもそうですが、福音書のどこにも、イエス様が馬小屋で生まれたとは書いてありません。ただ、生まれてオムツの布にくるまれて、飼い葉桶に寝かされた。宿屋にはこの3人が泊まる場所がなかった、ということだけしか書いてありません。
 
▼客間には彼らの泊まる場所がなかった

 さて、このイエス様のご誕生された場所については、実は第3の説があります。それは、ベツレヘムも含めて大体ユダヤのどこにでもあるような、それほど豊かではない小さな家でイエスは生まれたという話です。
 というのも、この聖書の箇所で「宿屋」と日本語に訳されているのは、実は「宿屋」ではなくて「客間」という意味の言葉なんですね。「宿屋」というと私たちが思い出すのでは、同じルカによる福音書に書かれている「善いサマリア人」の話です。追い剥ぎに襲われて半殺しにされた人を助けたサマリア人が、その怪我人を「宿屋」に預けますよね。その「宿屋」は、このイエス様が生まれた場所を指す言葉とは違います。ルカはそこをしっかりと言葉を使い分けています。マリアとヨセフが泊まれなかったのは、「宿屋」ではなく正確には「客間」だったんです。
 この時代の、「まあそんなに豊かではないけど、住む家はあるよ」というような庶民的な家。奥に「客間」があって、真ん中に自分たち家族の生活する「居間」があって、手前には「馬屋」があります。
 これは日本の古い家屋の保存されている観光スポットなど(「何とかかんとか村」とかガイドに載っていたりしますよね)でも時々見かけますけど、馬屋が人の住む家と同じ、ひとつ屋根のもとにある。人が住んでいるスペースと家畜のスペースが隣り合っている。
 そういうのと同じで、ましてや小さな家ですので、壁もなく、まさに家畜と一緒に暮らしているという感じです。家畜といっても、馬は金持ちや軍人の乗り物ですし、乗り物だとしたら、ロバかラクダでしょうか。ヤギの乳を飲むために飼っていたかもしれませんし、もちろん衣類を作るために毛を刈ったり、お祝いの時の食事のために、「少数かもしれませんが、羊を飼っていた可能性も高いでしょう。そういう動物たちと一緒にひとつ屋根で暮らしていたわけです。
 さて、その一方で、マリアとヨセフが「宿屋」に泊まろうとしたというのは考えにくいと言われます。というのは、そういう「宿屋」には、ならず者や強盗などが泊まっていたり、あるいはさっきの「善いサマリア人」の話でも出てくるような、強盗に半殺しにされたような人がかくまわれてくるとか、かなり物騒な所なんですね。そんな所に出産間近の妊婦の夫婦が行くというのは、あまりというか、かなり望ましくありません。
 大抵の旅人は、そういう場合は、自分の縁故のある人、親戚の家などに泊まります。ヨセフは元々ベツレヘムが里であるということですから、そりゃあ親戚くらいはいたでしょう。ところが、その親戚の家には、既にやはり住民登録のために旅をしてきていた先客の家族が客間に入っていたんです。だから、「客間には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2.7)ということになるわけです。

▼うちにおいでなさい

 けれども、この家の人たちは、出産間近のマリアと、「マリアをどこで休ませたら」と悩むヨセフ、「どこで赤ん坊を産んだらいいのだろう」と途方に暮れていた2人に、「うちに来なさい」「いいから入りなさい」と招いてくれたんです。
 客間には彼らの泊まる場所はありませんでした。なので、ここの家族は、自分たちが寝起きしている居間に2人を泊めたんです。程なくしてマリアが男の子を出産しました。その赤ん坊を布にくるんで、居間から馬屋に餌をやるために置いてある飼い葉桶に寝かせた、ということなんですね。
 この小さな家の名も無い人たちが、お世話をしてくれたから、マリアはなんとか無事に出産できたし、生まれたての赤ん坊のためのオムツに使う布もあったんですよ。この人たちの行いは、本当にさりげないものでしたが、それがこの夫婦と赤ん坊の命を救いました。そこから、イエス様の生涯が始まりました。
 ですから、もう皆さんもお分かりだと思いますが、このさりげない「いいから、いいから、うちにおいでなさい」、「ここで休んで行きなさい」、「ここで何か食べて行きなさい」という招きともてなしが、キリスト教会の始まりなんだよと、ルカは言っているのです。
 このイエス様のご誕生の次第の、どこまでが実話なのか、何が本当に近いのか。そういうことはあまり大事なことではありません。
 そうではなく、「これが教会の始まりだ。ここに原点があるのだ」というのがルカの伝えたいことなのです。
 教会には全ての人が招かれ、全ての人が歓迎され、祝福されます。私たちは、このイエス様のご誕生に既に教会が始まっているのだということを思い起こし、この教会の原点を常に忘れず、新しい歳を生きてまいりたいと思います。
 





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