のろさに付き合う神さま

 2021年1月10日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 新年礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約17分)



 詩編23編 
(新共同訳)




▼のろくなった歩み

 皆さん、あけましておめでとうございます。
 ここ数年、徳島北教会は新年の第1主日はお休みをいただいておりまして、例年第2主日を新年礼拝として行うようにしています。というわけで、今日1月10日が2021年最初の主日礼拝ということで、皆さんよろしくお願いいたします。
 さて、月並みな話題ですが、皆さんにとっての2020年はどんな1年だったでしょうか? まあ何を話しても、必ず話題になるのはやはり「コロナ」のことでしょうね。
 この徳島北教会も、感染拡大防止のために、それぞれの場所で離れたままオンライン礼拝を行わないといけませんでしたし、今もこうして、礼拝堂にいらっしゃる方と、(私もそうですけれども)こうしてオンラインでの参加をミックスするような礼拝を行なっています。
 このような今までそうそう経験しなかったような、制限の多い状況の中で、教会の歩みは確かにのろくなった面があると思います。
 新しく教会に来られる方の数も減ったのではないでしょうか。もちろんこのような中でも来て下さる方もおられるので、それはとても喜ばしい驚きではあります。
 けれども、かつてのような自由な移動が許されている時なら、「ちょっと教会でも行こうかな」と思っていた人が、「やっぱり人の集まる場所に行くのはやめとこう」と考えるようになったということはあるでしょう。また、ひょっとしたら私たちがオンライン礼拝だけを行っていた日曜日の朝に、教会の前まで来て、人がいないのを見て引き返された方々もおられたかもしれません。 
 そういうわけで、私たちがこのコロナの影響で失ったものは色々あります。

▼礼拝を死守する

 しかし、そのような困難や制限の中にあっても私たちは、とにもかくにも礼拝を守ってきました。たとえお互いに物理的な距離があったとしても、今の時代には今の時代なりに使える道具があり、それを活用しながら礼拝を守ってきました。
 礼拝というのは教会の中心にあるものです。
 礼拝において私たちは、聖書の言葉を正面から受け止め、神様、イエス様から何を問われているのかに気づき、その問いにどう応答してゆくのか、みんなで一緒に探って行く。そして、その応答を実際に生きるために、この礼拝から送り出されて、またこの世に派遣されてゆきます。
 そういう礼拝がしっかりと行われていることが教会にとって一番大事ですし、逆に言うとそのような礼拝が疎かにされている教会は、もはや教会ではありません。だからこそ私たちは、どんな方法を使おうとも礼拝を死守しようとしてきたわけです。
 正直な話、今後しばらくはコロナが収束するということは考えにくいと思います。少なくとも日本においては、私の知る限りでは、何一つ明るいニュースはありません。
 また、コロナが仮に今後次第に収束に向かったとしても、おそらくコロナ以前と同じような生活が再び戻ってくるということも、非常に考えにくいと思います。
 例えば、人がどこかに出かけること、集うこと、会って話すこと、一緒に食べること等々、そういったことがことごとく禁じられた状態で生きるというライフスタイルに、このコロナの状況下で私たちはどんどん慣らされてきています。
 これは、互いに出かけてきて集い、話し、共に食べるということを、とても大切なこととしている私たちにとっては非常に痛手です。「教会」と私たちが呼んでいるのは、新約聖書の中では「エクレシア」という言葉であるのは、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、これは直訳すると「集い」です。ですから、教会につながる人間が集うことを封じられるというのは、ある意味致命傷ですよね。

▼ぶどうの木と枝

 ただね、初代の教会は確かに「エクレシア」(集い)と呼ばれてはいました。けれども、じゃあ歩いて毎日曜日エクレシアに来れる人ばっかりで集っている、そんなスモール・グループ1個だけでキリスト教会が完結していたとかというと、そうではありませんよね?
 実はこっちのエクレシア、あっちのエクレシア、そしてエクレシアに集うことが物理的にできない、距離の離れたところにいる一人一人のクリスチャン(ギリシア語で「クリスティアノス」)も、「みんなひとつのキリストの体ですよ」、「多くの部分があっても、体は一つなんですよ」ということを、パウロさんなんかも言ってるわけです(1コリント10.17および12.12)。
 パウロさんはそういう風に教会というものを捉えているから、あっちこっちにパピルスという、まあ紙ですけれども、当時として最新の通信手段、すなわち「手紙」というものを使って、あちこちのエクレシアやクリスティアノスたちを結びつけて、一つの体であるキリスト教会のネットワークを作り上げていったんですよね。
 このネットワーク的なクリスチャンの繋がりのイメージというのは、イエス様が別の言い方で、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15.5)とおっしゃっていることにも通じてきます。つまり、本体の木はイエス様で、我々はその枝である。枝がどんな風にどの方向へそれぞれに伸びていたとしても、それはイエスという一つの木の枝なんだと。
 あっちにいて実を結んでいる枝もあれば、こっちで違う実を結んでいる枝もある。もちろん、花も咲かず、実もならなくても、ただ生えているだけの枝もある。みんなそれぞれだし、そのままで私たちは一つの体、「キリストの体」なんですね。
 そういうわけで、私たちは物理的に距離の離れた所に住んでいても、互いに同じキリストの体のそれぞれの部分なんです。
 考えてみれば、パウロの時代の通信手段は「手紙」が最先端でしたけれども、それに比べれば、今の我々は目の前で顔を見ることも声を聞くこともできるわけですから、実はパウロが本当にやりたかったことを、かなり私たちは実現していると言えるのではないかと思います。

▼牛歩〜slow but sure
 
 私たちはこれからも、この困難な状況にあっても、礼拝を続けてゆきます。私たちに許された形、許された方法で、春夏秋冬礼拝を続けて行きます。
 たくさんの手枷足枷がありますから、その歩みはのろくならざるを得ません。しかし、ここで私たちがまたいつも忘れずにおきたいのは、神は私たちの歩むスピードで歩んでくださっているということだと思います。今までも実はそうだったはずですし、今もこれからも神様は私たちのゆっくりとした歩みに歩調を合わせて同伴してくださるでしょう。
 ゆっくり歩むことを「牛歩」と言いますよね。丑年の2021年、私たちの歩みは牛の歩み:牛歩でいいじゃないかと思います。
 けれども、牛歩であったとしても、歩いてはいます。寝転んだまま安眠を貪るのではなく、ゆっくりと、しっかりと歩みを進めて行きたいのです。

▼杖と鞭

 本日の聖書の箇所は、この教会でもきっと多くの方が好きな聖句ではないかと思います。詩編の23編、これを礼拝で読みましょうと選ぶ方もよくいらっしゃいますね。
 その中では、私が特に注目したいのは、4節の、
 「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。
  あなたがわたしと共にいてくださる。
  あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(詩23.4)。
 という聖句です。
 「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」。
 自分の人生がどのような苦難に満ちていても、どんなに打ちひしがれることがあっても、私はそれを恐れないんだ。なぜなら「あなたがわたしと共にいてくださる」からだと。
 ここで「あなたの鞭、あなたの杖」という言葉が出てくることにも注意したいと思います。
 「杖」というのは、私たちが倒れそうになるとき、支えてくれるありがたいものです。しかし、「鞭」というのは何でしょうか? この鞭というのは人を痛めつけ、拷問にかけるような鞭ではなく、立ち止まってしまいそうになる羊に「ほれ、歩きなさい」と促す、羊飼いの鞭です。そういう面も、神の愛にはあるのだということですね。
 立ち止まってしまえば、そのまま歩けなくなってしまう。そして「もういいんだ、わたしはここで終わってしまってもいい。どうにでも好きにしてくれ」と自暴自棄になってしまいたくなることも人間にはあると思います。
 そのような状態にいる時、私たちは自分がどういう状況にいるか、実は客観的に見えていません。夕暮れが近づき、危険な夜が近づいていることに気づいていません。だから羊飼いは、あえて羊を叱咤激励することもあるということではないでしょうか?
 そうしないと、羊は6節の後半に書いてあるように、「主の家に帰る」ということもできなくなります。迷い出た1匹の羊のようになってしまいます。だから、ゆっくりでもいいから「歩きなさい」、「主の家に帰ろう」と促してくださるのです。

▼のろさに付き添う神

 私たちの生きるこの世界は、厳しい世界です。まるで「死の陰の谷を行く」ようなものです。
 しかし神は、時には倒れそうになる私たちに杖を貸し、また時には立ち止まってしまおうとする私たちに鞭を入れます。そうやって、神はいつも私たちに付き添って、離れないで一緒に進んでくれます。私たちの歩むのろさで一緒に歩んでくださいます。
 ゆっくりと、でもしっかりと、神と共に歩む1年にしたいと思いますが、いかがでしょうか?
 





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