喜びにあふれた旅を始めよう

 2021年4月18日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約21分)


 使徒言行録8章26-40節 
(新共同訳)
 



▼フィリポ

 おはようございます。今日は、今日の礼拝後の総会で提案させていただく、「喜びにあふれた旅を始めよう」という2021年度の教会の指針を説き明かす、提案理由の説明のような説き明かしです。
 今日の聖書の個所の登場人物は2人います。1人はフィリポという福音宣教者、もう1人はエチオピア人の宦官です。
 フィリポという人は、この使徒言行録の6章のはじめあたりで、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人の対立……つまり元々エルサレム周辺に以前から住んでいてユダヤの生活習慣がなじんている信徒たちと、ユダヤ地方以外の出身で、いかにもユダヤ的な生活習慣や戒律にも馴染まず、ユダヤ人の母語であるヘブライ語も話さず、当時の国際語であったギリシア語を喋っているような信徒たちとの間で起こった対立がきっかけになって、このギリシア語を話すユダヤ人、あるいはそれ以外の異国人への宣教のために、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」として選ばれた7人のうちの1人です(使徒6.1-7)。

▼宦官

 一方、もう1人の登場人物であるエチオピア人の宦官は、エチオピア、つまりアフリカ北東部の王国では、女王の全財産の管理を任されていたと書いてありますから、非常に位の高い人だったのでしょうけれども、ユダヤ人、あるいはユダヤ教の聖書(すなわち「ヘブライ語聖書」と呼ばれていて、私達の旧約聖書とほとんど同じ本ですが)の観点から見れば、この人は差別され、排除される性的マイノリティです。
 ユダヤ教の聖書、申命記23章2節には、「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」と書いてあります。ユダヤ教の聖書はとにかく子どもを作り、子孫を増やせ、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という発想で書かれていますので、性器に異状がある者や、人為的に男性器に手を加えて、子どもができないような状態にされた者は、皆んなが一緒に暮らしている共同体から追放されるわけです。
 加えて、この宦官はユダヤ人ではなく、異邦人であるエチオピア人です。ユダヤ人は異邦人のことが大嫌いで、自分たちだけが「神に選ばれた民」なのだから、異邦人なんか汚れていて触りたくも近づきたくもないという関係です。ですから、なんでこのエチオピア人がユダヤ人の聖書なんかを読んでいるという設定になっているのかは私にも今のところわかりません。

▼イザヤ書と宦官

 ただ、申命記のような律法の書は、「あれはダメだ、これは罰せられる」とか、そういうキツい罰則だらけですが、ここでこの宦官が読んでいたとされるイザヤ書のような預言書は、もう少し人の情けがわかるというか、そんな風に人を追い詰めない記事が多いんですね。
 このイザヤ書の56章の前半には「宦官も言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と」書いてあり、宦官が神さまに祝福を受けることが書いてあります(イザヤ56.3-5)。
 また、このイザヤ書56章の中盤では、異邦人が受け入れられ、エルサレムの神殿は、ユダヤ人だけでなく「すべての民の祈りの家」になりますよと書かれています(イザヤ56.6-8)。この「すべての民の祈りの家」という言葉は、イエス様がエルサレムについてすぐに神殿で大暴れした時に、「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるだろうが〜!」と怒ったのは、このイザヤ書56章7節を引用しているわけですよね(マルコ11.17他)。
 というわけで、とにかくイザヤ書は、宦官と異邦人に対して愛情あふれるメッセージを発していますから、この「エチオピア人」で「宦官」という2つのアイデンティティを持っている人は、イザヤ書はあの自分たちのことをボロカスに言う人たちの聖書にしてはいいこと書いてるよなぁと感じながら読んでいたとしても、おかしくはないでしょう。

▼イザヤ53章

 そしてフィリポがこの宦官の乗っている馬車に近づいた時、宦官が朗読していたのは、まさにこのイザヤ書の53章でした。
 この使徒言行録の方に引用されている言葉はあまり正確ではありませんので、実際イザヤ書にはどう書かれているかを読んでみたいと思います。イザヤ書53章3節から7節までをお読みします。
 「彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって
   わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
 わたしたちは羊の群れ
 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
 そのわたしたちの罪をすべて
   主は彼に負わせられた。
 苦役を課せられて、かがみ込み
 彼は口を開かなかった。
 屠り場に引かれる小羊のように
 毛を切る者の前に物を言わない羊のように
 彼は口を開かなかった。」
 そして、このイザヤ書53章は更に、「彼が自らを償いの献げ物とした」(イザヤ53.10)とか、「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」(同53.11)、「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」(同53.12)と述べています。

▼スケープゴート

 これはいわゆる「スケープゴート」と呼ばれる者にされてしまった人のことを書いているのだと思われます。スケープゴートというのは直訳すると「いけにえの山羊」という意味で、ある集団や共同体に溜まった暴力的なエネルギーを誰か1人の者にぶつける。悪者にしてしまう。痛めつける。あるいは場合によっては殺してしまう。そのことによって、皆んなが自分の中の暴力的な衝動を発散して、そして、例えばそこが100人の村だったら、犠牲者になった1人を除いた99人がそれによって平和になる。落ち着く。そういう人間社会の罪深い性質のことを指します。
 古代のユダヤ人の場合、この罪深い性質による暴力性を、人間ではなくある動物に向けて、人間の代わりに動物にその罪を引き受けてもらって、山羊や羊を殺して、血を振りまいたり、肉を焼いて捧げたりというできるだけ残酷な儀式を執り行うことで、人間が人間に暴力を振るうことを防ごうとしてきたわけですよね。
 しかし、イザヤ53章には、悲しいことにその暴力が人間に向けられてしまった事件を描いています。この犠牲になった人物が誰であるかということはイザヤ書には明らかに書いてありません。しかし、イエス様が無残な殺され方をした直後、イエス様の弟子たちは、なぜ自分たちの先生がこのような死に方をしなければならなかったのかを探っているうちに、自分たちの聖書の中、イザヤ53章に書かれているのはイエス様に起こったことの予言だ! イザヤはイエス様の死を予知していたのだ!と解釈したのですね。
 このイザヤ53が、本当にイエス様の十字架の出来事が起こることを想定して書かれたのかどうかは、人それぞれの考え方があると思います。ただ、少なくともこのイザヤ53に書かれたスケープゴートの暴力は、昔からそうですし、今も当然どこの社会集団でも起こりえます。殺すところまで行かなくても、誰かを何か理由をでっちあげて吊し上げて、皆んなでスカッとするなんてことは日常茶飯事です。
 イエス様はまさにそのような人間社会に存在する罪深い暴力の犠牲になって殺された。しかし、そのおかげで私達には平和が与えられたのだ。イエス様が私達を救ってくれた。そのことをフィリポはこの宦官の質問に対して応える形で説き明かしたんですね。
 この8章35節に「フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについての福音を告げ知らせた。」と書いてあります。ということは、フィリポはこのイエスの犠牲の話から始めて、「イエスについての福音」つまり、イエスの全生涯にわたって示された神さまの愛について説き明かしたんでしょうね。

▼喜びにあふれて旅を続ける

 その説き明かしによってイエス様と神さまの愛を知った宦官は、フィリポにバプテスマを授けてくださいと願います。そこで、2人は水の中に入って行き、フィリポは宦官にバプテスマを授けます。
 「彼らが水から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」と書いてあります(使徒8.39)。
 主の霊がフィリポを連れ去って、フィリポの姿は見えなくなったというのは、旧約聖書に書かれているエリヤという預言者が、エリシャという預言者と話しながら歩いている最中に天に上げられるところを連想させます(列王記下2.11-12)。
 また、この使徒言行録と同じ記者が書いたルカによる福音書の終わりの方で、エルサレムからエマオに向かう道中で、2人の弟子がイエス様と再会していたのに気づかず、夕方になって、イエス様がパンを祝福して裂いた時に「あ、イエス様だ」と気づいた。その瞬間、イエス様は見えなくなったという物語も連想させます(ルカ24.30-31)。
 つまり、ここの記事では、「フィリポはエリヤのような優れた預言者であり、イエスの福音をまさに生きている者である」と称賛されているわけですね。
 このフィリポが説き明かして伝えたイエスの福音は、この宦官がエチオピア人である、つまりユダヤ人からは差別される異邦人であることも、宦官という一種の性的マイノリティであることも、決して貶められる理由にはならない、むしろイザヤ書が書いている通り、神は格別にこの人を愛するのだということを、この宦官にわからせてくれたんですね。
 だから、この宦官はイエス様なら信じられると思った。そして信じた。バプテスマを受けた。そして、もうフィリポのような手引きをしてくれる人がいなくても、自分で「喜びにあふれて旅を続けた」と書かれています(使徒8.39)。
 神は別け隔てをなさらない。どんなに貶められた人をも愛し、育んでくださる。その確信がこの宦官に喜びを与え、喜びに満ちた人生の旅を続ける力になったのではないでしょうか。
 私達もこの宦官と同じように、喜びにあふれて旅を続けたいものです。そして、まだこの旅に参加していない人は、どうぞ一緒に出発しましょうと呼びかけるものでありたいと思いますが、皆様におかれましてはどのようにお感じになるでしょうか。
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。






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