聖霊ってなんですか?

 2021年5月23日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 ペンテコステ礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約19分)


 テサロニケの信徒への手紙(一)5章23-24節 
(新共同訳)




▼聖霊ってなんですか?

 おはようございます。今日の礼拝はペンテコステを記念する主日礼拝です。ペンテコステというのは、ひと言で言うと「教会の誕生日」とおっしゃる方も多いですけれども、イエス様が亡くなられてから間もない頃、弟子たちがイエス様と再会するという体験を経た後に、自分たちに聖霊の炎が降ってきて、そして色々な言葉で宣教を始めたという故事がもとになったお祝いされるようになった、教会の暦です。クリスマスとイースターに比べて、ちょっと地味なお祝いですけれども、この3つを合わせて、キリスト教の三大祭とも言われます。
 さて、今日は「聖霊ってなんですか?」という題でお話をすることにしました。というのは、三位一体の神さまと言われますけれども、「神さま」と「イエス様」はまあ完全にとは言わないけれども、なんとなくわかるような気がする。けれども「聖霊」となるとよくわからない、という方が非常に多いからなんですね。
 「聖霊」というのは新約聖書が書かれたギリシア語で「プネウマ・ハギオン」と言います。「プネウマ・ハギオン」。
 「プネウマ」が「霊」を表すというのは、ここの礼拝の中でも何度か登場した話だと思うんで、ご存知の方も多いと思うんですね。そして、「プネウマ」は「霊」であると同時に「風」あるいは「息」のことでもあります。つまり、聖書の時代の人たちにとっては霊も風も息も同じもの、あるいは非常に近いものだったんですね。風が吹いてきた時、それは霊が吹いてきたと感じていましたし、人間の鼻と口を行き来している風が息であり、それは自分の霊が生きて動いているということだと感じていたわけです。
 先日、陣ちゃんの説き明かしの中で、復活されたイエス様が弟子たちに「息を吹きかけられた」という話が出ていましたが(ヨハネ20.22)、これも言い換えれば、「霊を吹きかけられた」ということでもありますし、天地創造の時にも、人間は土の塵で造られて「その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2.7)と書かれていますから、やはり息と風と霊は同じものだという感覚だったんですね。

▼聖霊がわからないのはなぜか?

 そうなると、私たちが「霊」というものをわからないのは当たり前といえば当たり前だと言えます。なぜなら、私たちの感覚や世界観と古代人の感覚や世界観がぜんぜん違うからです。
 昔の人達は、風や息が霊そのものだというものの見方をしているわけです。ですから。この世のあらゆる場所に、霊が満ちていたり、霊が吹いたり動いたりしているわけです。
 でも、私たちはそういうものの見方ができなくなっています。科学革命の結果、目に見えないものや目に見えない力を感じる力がものすごく弱くなってしまいました。風も息も、ただの空気の流れで、空気の中身はほとんどの窒素とあとは酸素とその他ということを知ってしまっています。
 感染症の原因も、病原菌やウイルスだということを知っています。でも、今から昔の人達は、それは悪い霊、汚れた霊、呪い、悪魔、神の怒り、そういったものだと思っていました。
 それくらいものの見方が変わってしまっていて、古代人と現代人が分かり合えるということは、この点においては多分全然ありません。せいぜい「命」とか「魂」とか「心」というものがあるという感覚くらいは現代人の多くの人には残っていると思いますが、これも将来どうなるかわかりません。

▼言霊とカリスマ

 そんな時代に生きている私たちが、かつての人たちの「霊」あるいは「聖霊」といったものをどう感じて生きてゆくことができるのか、ということを私もよく考えます。
 今のところの私の考えには、イマジネーションを豊かにするということだと思っています。聖霊というものに対するイメージを持つ。つまり想像力をたくましくするということです。風を見た時に、「それは霊だ」という古代人の感性を呼び覚まして、想像力をたくましくして、自分の周りの物事を見直してみるということです。
 「なんだ、結局そういうことなのか。想像なのか」とがっかりされるかもしれません。
 けれども、私たちは他にも、例えば「言霊」といった古くからある日本の言葉で、人の言葉に大きく傷つけられたり、あるいは逆に、人の言葉に大きく勇気づけられたりすることがありますよね。
 あるいは、これも元々ギリシア語ですけれども、「カリスマ」という言葉がありますね。何か特別な資質や才能を持った、圧倒的な存在感を示す人のことを、「カリスマなんとか」と言ったりします。「カリスマ美容師」とか「カリスマ営業マン」と言ったりします。
 ああいった「言霊」とか「カリスマ」というものも、別にそういう電波があったり、熱や光があるわけではありません。それは私たちの心に働くエネルギーの流れのようなものです。
 「霊」の働きというのも、それとほぼ同じようなものだと考えてもいいと思います。そういう点では、まだ私たちにも古代人の感覚が多少は残っています。イエス様という方は、非常にその言葉に力があり、いわば「言霊」が強く、「カリスマ」があった方だったことは間違いがありません。

▼古代人の感性をイメージする

 聖霊というのは、ギリシア語では「プネウマ・ハギオン」と呼ぶと先ほど言いました。「プネウマ」は「霊」ですね。それは「息吹」とか「パワー」と現代風に呼び替えることもできるでしょう。
 そして「ハギオン」というのは、「ハギオス」という形容詞が活用して変化したものです。それは「聖なる霊」。神から送られてきた特別な霊の働きです。
 つまり言い換えると、聖霊との出会いというのは、自分のものではない、何か別のところからやってきたパワーであり、インスピレーションであり、それに満たされることで私たちは元気が与えられ、心が洗われ、新しい気付きが与えられるという体験のことです。
 実際私たちは、自分のものではない所から、新たな着想が降ってくるような経験をしたり、自分が期待などしてなかったところから、自分に大切なことを教えてくれるヒントや人との出会いが与えられるということはないでしょうか。
 自分にはそんな力はないと思っていたのに、とんでもない力が湧き上がってきたり、窮地に陥っているはずなのに、自分のものとは思えないような希望が起こってきたり、自分を変えてくれるような感覚を覚えたり、あるいは、何もできない絶望の時にあって、誰か自分ではない者が自分のそばにいてくれるということを感じることはないでしょうか。
 そのような、自分自身から出たものではないものを感じること。古代人の感覚を想像し、感性を研ぎ澄ます、自分のものではないものの働きに対して感じるアンテナを敏感に働かせる。そのようなイメージで自分の周りの世界を見てみること、それが聖霊を意識する方法です。

▼体と心と霊

 今日お読みしました、パウロによるテサロニケの信徒への手紙(一)の5章23節には、神御自身が「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り……」と書いてあります。
 今日なぜこの聖書の箇所を選んだのかというと、ここに古代人による人間の捉え方がわかりやすく表れているからです。
 ただし、この箇所については、新共同訳はあまり良い翻訳ではないと言われています。これは、むしろ「霊と心と体と」という訳し方が良いようで、実は3年前に出た聖書協会共同訳でも「霊と心と体」という訳し方をしています。
 こういう日本語に訳されると、たとえ古代人の感覚と言いましても、そんなにわかりにくいものではないと思われるのではないでしょうか。
 「霊」というのは先程から申し上げているような「プネウマ」です。「体」というのは、これはあまり普段は引用しませんけれども「ソーマ」という単語です。そして「心」というのは「プシュケー」です。英語でも「心理学」という言葉は「サイコロジー」と言って、最初の「P」は発音しませんが「プシュケー」が最初についた言葉になっています。ですから、「プシュケー」は「心」です。
 古代人の感覚では、人間は体と心と霊でできているんですね。
 体は体です。心は自分の自分のことがわかっている心のことです。そして霊は、自分ではわからない、自分以外のところからやってくる力の働き、効果のことです。しかもそれは神さまから働きかけてくる霊、それが聖霊です。
 私たちは、この神の霊の働きを自分でコントロールすることはできません。コントロールできるとしたら、それは自分の心、すなわち「プシュケー」なんです。けれども、自分には自分でもコントロールできない見えない力がある。それが霊、すなわち「プネウマ」です。
 ヨハネによる福音書に、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くかを知らない」という言葉があります(ヨハネ3.8)。
 神の霊は私たちの予想を超えて吹く風のように、私たちに影響を与えます。予想を超えているのですから、私たちは「神さま、どうぞ聖霊を送ってください」と祈るしかありません。
 けれども聖霊は、そのような、目には見えないけれども、私たちに大切な何かに気づかせ、導き、力を与え、癒してくれて、生きる意義を与えてくれる、そんな風のような働きのイメージなんです。それを感じ取り、信じようとすることが、私たちのライフスタイルでもあると言えるのではないでしょうか。

▼聖霊の交わり

 最後に「聖霊の交わり」という言葉についてお話をして終わりにしたいと思います。
 牧師のする祝祷に「聖霊の交わりがあなたがたにあるように」という言葉があります。これは何のことだろうと思っておられる方もいらっしゃるんではないでしょうか。
 「聖霊のお守り」とか「聖霊のお導き」とかだったらわかるような気もするんですが、「聖霊の交わり」というとちょっとわかりにくいですね。
 これには2つ意味があって、1つは「聖霊との交わり」。つまり「聖霊と仲良くする」ということだと思っていただければいいのではないかと思います。
 もう1つは、「聖霊による交わり」。つまり、自分だけではなく、自分の周りの人たち、つまり具体的に言うと教会のことですけれども、聖霊の働きというのは、私個人だけに働くのではなくて、私たちの共同体、すなわち「エクレシア」(集い)の中に力を及ぼし、私たちをつないでくださる。私たちの間を満たしてくださる、特別な空気が充満しているような感覚だと思っていたければよいと思います。
 「聖霊との交わり」そして「聖霊による交わり」。それが「聖霊の交わりがありますように」という言葉に込められています。
 私たちが聖餐式でよく歌う、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」という歌の3節に「愛の息吹に満たされ、主にあって我らは歩む」という言葉がありますよね。
 この「愛の息吹」というのも「愛の風」すなわち「愛の霊」(聖霊)のことなんですね。この神から来る愛の息吹に、私たちは一緒に満たされている、愛の空気のなかに私たちが一緒に満たされている状態をイメージしているよ、というのが「聖霊による交わり」ということなんです。
 聖餐式の時は、そのような聖霊の空気に満たされているということを思い浮かべながら参加してくださればありがたいです。






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