ありのままのあなた、これからのあなた


 2021年10月17日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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説き明かしライブ録画(約23分)


ルカによる福音書10章25‐37節

(新約聖書・新共同訳 p.126-127、聖書協会共同訳 p.125)


日本聖書協会の聖書本文検索をご利用ください。
 https://www.bible.or.jp/read/vers_search.html



▼模範解答

 今日取り上げましたのは、よく知られた「善いサマリア人」のたとえ話です。ある律法の専門家、つまり法律家が、「イエスを試そうとして」「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」と質問します(ルカ10.25)。
 ここでこの律法の専門家は、どうしたら永遠の命を「得られますか」ではなくて、「受け継ぐことができますか」と質問しているところが目を引きます。この「受け継ぐ」というのは「相続する」という風に言い換えることもできます。人間の命がもともと永遠ということはありませんから、この場合の「永遠の命」は神の命と言ってもいいかもしれません。
 けれども、古代のユダヤの律法学者たちは、そのような永遠の神の命を、自分たちがそうすれば受け継ぐことができるだろうか、というようなことを毎日論議していたんでしょう。
 そして、そのような自分たちが論議しているようなことを、イエス様がどこまで把握しているのか、イエスならどう答えるだろうという、やや意地の悪い質問をぶつけたというところでしょう。
 これに対してイエスは、逆に質問し返します。「律法には何と書いてある? あなたはそれをどう読んでいる?」。
 するとこの律法の専門家は、こんな風に答えています。「あなたの神である主を愛せ。あなたの心(ハートですね)の全てによって、あなたの魂(プシュケーです)の全てによって、あなたの力(パワーというより力強さというような意味ですね)の全てによって、あなたの思い(これはマインドです)の全てによって。そしてあなたの隣人もあなた自身のように」(10.27)
 この戒めの前半の「神である主を愛せ」というのは、旧約聖書の申命記6章5節に「あなたの心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、主なる神である主を愛せ」と書いてあるのに、ルカさんが「思いを尽くして」という言葉をひとつ付け加えたものです。それから、後半の「隣人を愛せ」というのは、レビ記19章18節にある「隣人を自分のように愛しなさい」と書いてあるものの引用です。
 この律法の専門家は、ある意味で模範解答をここでイエス様に答えたわけですね。他の福音書ではイエス様自身が、この「主を愛せ、隣人を愛せ」ということが律法の中で一番大切だと言っているところもありますから、本当にイエス様自身がそういうことを言ったかどうかは別として、一応そういう2つの掟が律法全体をまとめるものだという考え方は広く行き渡っていたんでしょうね。ですから、ここでこの律法の専門家が答えたのは、「律法とはこういうものである」ということを一言で答えた一種の模範解答でした。「そんなことくらいわかっていますよ」という態度ですね。

▼知識か生き方か

 すると、イエス様は答えました。「正しく答えたね。その通り実行したら命が得られるよ。」
 この言葉はイエス様が最初に、律法に書いてあることを「あなたはそれをどう読んでいるか?」と問われたことと合わせて考えないといけなちと思うんですね。律法を知っているという知識だけではなくて、あなたはそれをどう自分の問題にしているのか? ということなんですね。
 この問いに対してこの律法の専門家は、自分の知識で答えただけです。自分はどうこの律法を具体的に実行しているのかということを問われているのに、それには答えてないんですね。
 そこで、イエス様は「じゃあそれを実行しなさい」と言って話を終わりにします。この「主を愛すること、隣人を愛すること」という戒めは実行しないと意味がない。そしてこれらを具体的にどう行動や生き方に表すかは自分で考えなさいというわけです。ちょっと突き放した態度です。
 ちょっと突き放した、あまり優しくない態度のようにも見えますが、一方で教育的にはこの方法が正しいような気もします。自分で考えないと人は成長しませんしね。
 それに、ちゃんとイエス様はここで、「あなたの答えは正しいよ」と言ってくれているわけですから、ちゃんとこの生徒の答えを認めているわけです。認めた上で、この先は自分で考えなさいと言っているわけですから、私はなかなかいい先生ではないかと思うんですね。

▼ゼノフォビア

 ところがこの律法の専門家は自分で考えることを放棄しているんでしょうか。具体的にどうすれば隣人を愛するという行動になるのか考えられない自分を正当化したかったんでしょうか。「では、私の隣人とは誰ですか?」と聞くんですね。自分で考えないで、すぐに「答えを教えてください」と質問を繰り返す。これはまあはっきり言ってあんまりよろしくない姿勢の生徒です。
 しかもこの質問も、底意地が悪い質問です。というのは、当時のユダヤ人にとって「隣人とは誰か」というのは誰か割にはっきりわかっているわけです。それは同じユダヤ人のことです。
 まあ、もっと厳密に言うと、同じユダヤ人でも律法をちゃんと守れないような人間とか、あるいは異邦人つまりユダヤ人以外の民族と日常的に接触して生活しているような人間、たとえばイエスの出身地であるガリラヤ地方の人たちは、他の民族の人達と商売していたりして日頃から接触していましたから、そういうのは隣人とは言えないんだという態度の人もいました。
 つまりここには、ユダヤ人による異民族嫌悪(ゼノフォビアと言いますけれども)。それがはっきり出ていて、「隣人とは誰か」という質問は、「おまえは生粋の一切汚れの無いユダヤ人から、律法を守れないユダヤ人や異民族と接触しているようなユダヤ人。一体どのへんまでを『隣人』と言っているんだ」という、イエス様がどれくらいきっちりしているのか、それともいい加減なやつなのかをあぶり出してやろうという魂胆の質問なんですね。
 こういう質問を浴びせられて、イエス様もちょっと本気になったんでしょうか。この、自分の問いかけを正面から受け止めて考えようとしないくせに、こういう底意地の悪い質問をとっさに思いつく程度には頭がいい、この面白くない男を相手に、ちょっと腹を立てたのかも知れません。そこで、このよく知られている「善いサマリア人」のたとえ話をすることになります。

▼真面目な同胞

 このイエス様のたとえ話も、底意地の悪い男に答えるのにじゅうぶんなくらい皮肉の効いた話です。
 ある人がエルサレムからエリコに下ってゆく途中、それは大変急な下り坂が続く厳しい道ですけれども、エルサレムからヨルダン川沿いにまで下っていって、そこから北上してガリラヤ地方やシリア地方まで登ってゆく幹線道路ではあるので、そんなに全く人が通らないほどさびれた道ではなかったようです。けれども、通る人が少なくなった瞬間には追いはぎが出ます。このユダヤ人の男の人は、運悪く追いはぎに出会ってしまったんですね。
 そして、さびれた道ではないですから、人が通る。まず祭司がやってきて「道の向こう側を通って」行く。次にレビ人もやってきて「道の向こう側を通って」行く。
 この祭司というのは、代々神殿で聖なる儀式を執り行う仕事をしています。またレビ人も祭司を補助する役割をする部族の出身者で、これも代々続いています。彼らは聖なる家系の人間です。聖なる位の高い人間ですから、1人で旅をするんじゃなくて、お供の者が何人かついて移動したりしていた可能性がありますから、こういう人たちは追いはぎに襲われることはまず無かったでしょうね。
 この人たちも律法の戒めを守って、真面目にこの死んでいる可能性もある強盗の被害者に近づかないようにしていました。レビ記○○章〇〇節以下に、「自分の親戚が亡くなった時以外は、人の死体に触れる汚れる」と書いてありますので、この聖職者たちは「汚れたらあかん」と真面目に考えて、近づかないようにしていました。

善良な異民族

 そして、ここに旅をしていたサマリア人がやってきたと。
 サマリア人がこの幹線道路をやってくるというのは、実際にはありえないんじゃないかなと思われます。ちょっとありえないような設定をイエス様はわざと話したわけです。そもそもエルサレムからエリコに下る街道というのは、サマリア地方を通らないように大回りするための路線なんですね。それほどユダヤ人とサマリア人というのは仲が悪い。戦争をするほどではないけれども、お互いに非常に嫌い合っています。特にユダヤ人のサマリア人に対するゼノフォビアはひどいわけです。同じ部屋で同じ空気を吸いたくもない。そんなことをしたら自分が汚れていまうと思っているくらいです。
 ところがイエス様は、このサマリア人がユダヤ人を助けたんだよというお話をします。これはユダヤ人にとっては鳥肌が立つほど嫌な話です。日本社会の文脈で言ったら、ある被差別部落があって、「あの道は通るな。何をされるかわからんぞ」と言われていた道を通っていた人が、たまたま通り魔に襲われたけれども、部落の人に助けてもらった、とでもいうような設定です。
 ところが、このサマリア人はこの裸で血まみれになって倒れているユダヤ人を見て、「深く憐れんだ」と書かれています。この「深く憐れんだ」というのは、今までの礼拝でもよく触れることが多かった「スクランニゾマイ」、つまり「腸がちぎれるような思い」「断腸の思い」のことですね。
 そして、このサマリア人はこのユダヤ人を介抱し、宿屋に連れて行って費用を払って行く。そして最後にイエス様は言う。「この3人の中で誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 すごい皮肉ですよね。「私の隣人とは誰ですか?」「ユダヤ人の中でもどのレベルまでを『隣人』と呼んだらいいんですかね?」というような質問に対して、イエス様は全然違う方向から、「ユダヤ人が云々ではないよ。あんたらが嫌で嫌でたまらないあのサマリア人が隣人になってくれたのさ」と言い返したんですね。
 この律法の専門家は、もうそれ以上言い返すことができなくて、しかし「そのサマリア人です」という「サマリア人」という言葉を口にするのも嫌だったのか、「その人に憐れみを示した人です」と言う。するとイエス様は、最初に言っていた通り、「実行しなさい」と答えます。

▼教師イエス

 私は、この律法の専門家とイエス様のやり取りの中で、イエス様はなかなか教師としてはよい対応をされたんではないかと言いました。この質問者に対して、質問で返すというのはイエス様がよくやる方法ですが、この最初のやり取りからして、質問者に自分で考えるように促しています。
 そして、この質問者が自分なりに考えた答えを言うと、「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言って、更に彼の答えを自分で深めるように勧めています。イエス様としては、これでこのやり取りは終わりだなと思っておられたでしょう。
 この時点で私が印象深く感じるのは、イエス様は決して目の前の質問者を頭ごなしに否定はしなかったということです。ある意味、ありのままのその人を活かして、自分で考えることを促しただけです。
 ところがこの質問者は、自分で考えることを拒否して、開き直ろうとします。するとイエス様も一歩踏み出して、その人の足りないところを気づかせるような話をします。それでもたとえ話を話したあとも、最後もやはり自分で考えるように促す質問で終わります。
 イエス様は決して最初から最後まで無理矢理に相手を捻じ曲げて教育しようとはしていません。イエス様は結構他の箇所では、口汚く罵ったり、憤りを丸出しにして物を言ったりすることもありますが、ここでは決して感情的になった様子は描かれていません。むしろ、質問者が自分で気づくように誘導しています。

▼このままのわたし、これからのわたし

 最初にイエス様は、この律法の専門家を一応肯定していました。いろいろ問題は抱えながらも、それを無理に変えようとまではしておられませんでした。
 私達の人生に置き換えてみると、私達自身の人生も実際には問題だらけかもしれないけれども、決してイエス様はそれを否定して無理には捻じ曲げて修正しようとはされません。基本的には「それでいいんじゃないか。そのままで行きなさい」と言われます。それを私達は「ありのままの自分を肯定された」と受け取ります。
 けれども、人間の中には、更に問いを続け、探求しようとする人もいるでしょう。今日の聖書のお話の中では、ちょっとイエス様に対して意地の悪い質問をした人が出てきましたが、別に意地の悪い問いでなくても、更に答えを求めて問いかける人がきてもおかしくありません。
 その時イエス様は、「それならこういう話はどうだ?」とヒントを与えてくれる。そして、そのヒントを基に更に自分で考えさせてくださる。そういう方ではないかと思うのですがいかがでしょうか。
 私の今の状態を決してイエス様は裁かない。けれども、次に進もうとするのなら、イエス様はそんな私の意志も促してくださる。
 「これでいいんでしょうか?」と問うと「それでいい」と答えてくださる。そして「私は変わりたいのです」と言うと「変わりなさい」と背中を押してくださる。
 イエス様はそういう方ではないかと、私は今日の聖書の箇所を通して思わされるのですが、皆さんはどのようにお感じになりますでしょうか。

▼祈り

 祈りましょう。
 神様、いつも私達のあるがままの姿を受け入れてくださり、ありがとうございます。あなたの愛によって私達は自らを裁かず、人をも裁かずに生きてゆくことができます。
 しかし神様、私達が今の自分のままでいたくないと思った時には、どうか私達の背中を押してください。どうか私達を成長させてくださいますようお願いいたします。
 今週もあなたに守られて、歩んで行けますように。安心して行きなさいと私達を押し出してください。
 イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
  




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