読み方が 示すあなたの お人柄


 2021年11月21日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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説き明かしライブ録画(約22分)


テモテへの手紙(一)1章8‐11節

(新約聖書:新共同訳 p.384、聖書協会共同訳 p.375)


日本聖書協会の聖書本文検索をご利用ください。
 https://www.bible.or.jp/read/vers_search.html



▼偏見の根拠

 おはようございます。
 今日の説き明かしは、「読み方が、示すあなたの、お人柄」という題名にしましたが、これは「運転が、示すあなたの、お人柄」という川柳をもじったものです。車の運転の仕方にあなたのお人柄が表れていますという川柳ですが、聖書の読み方にもやっぱりお人柄がでますよね、というお話です。聖書の読み方、あるいは翻訳者の翻訳の仕方、そして聖書の文書そのものにまでも、その人の思い込みや偏見が出てしまいますなあというお話です。
 今日取り上げましたテモテへの手紙(一)は、いつかお話したこともある、女性に対する偏見、差別が激しい記事が書かれている文書です。「女性は派手な化粧はするな」とか「静かに従順でいなさい」とか「女性が教会の中で教えたり、男性よりも上に立ってはいけません」とか、挙げ句の果てには「子どもを産めば救われます」という言葉まで書いたテモテへの手紙(一)ですから、どうせろくなことは言わないだろうと思って読んでいたら、やっぱりひどいことを書いています。
 今日引用した1章の8節から11節も、同性愛者への差別の理由付けとしてよく使われる箇所です。聖書の中には、同性愛に対する偏見や差別意識が表れていると言われている箇所がいくつかあります。実はどれもそういう意味で書かれているわけではないことが今ではわかっているんですが、それでも結構多くの保守的なクリスチャンが、聖書を使って「同性愛は神のご意志に反している」とか「同性愛は罪であり、同性愛者は神の罰を受けて死ななくてはならない」と言っていたりします。
 そのようないくつかの聖書の箇所の中で、このテモテへの手紙(一)の記事は、比較的わかりやすくその誤解を解くことができる箇所であることと、性にまつわるある社会現象を問題にしているという意味でもわかりやすい箇所です。

▼悪徳表

 ここでテモテへの手紙を書いた人は、「自分はパウロである」と手紙の初めで書いていますけれども、実際はそうではないとされています。この人はパウロと違って律法を正しく用いる方法を説明しようとしています。
 パウロだったら、ユダヤの律法とは違う生き方をする人、つまりユダヤ人以外の人たち、つまり異邦人を裁かないで、律法から解放された生き方をしようという風に勧めるのではないかと想像できるんですけれども、このテモテへの手紙を書いた人は、8節で「律法を正しく用いるならば良いものだ」と言っているので、また律法主義に逆戻りしています。そして、次のリストに載っている者たちを裁くために用いれば良いものなのだと言うんですね(1テモテ1.9)。
 こういった、裁かれるべき人間を列挙しているリストのことを「悪徳表」と言います。どうもこの時期の手紙には、こういう悪徳表が使われるのが習慣だったようで、これはパウロもこういう物の言い方を使っています。
 この悪徳表に挙げられているのは、「不法な者、不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者」という、まあ色々とこれだけ挙げることができましたねというくらいの立派なリストです。
 この1章の前半は、3節以下のところにこの聖書の小見出しで「異なる教えについての警告」にあるように、この手紙の宛先のテモテのいるエフェソという町はギリシャ・ローマの神々やローマ皇帝を崇拝する神殿がたくさんあるところで、この手紙の作者はそういう宗教を偶像崇拝だと言って攻撃するつもりで、こういう悪徳表を使っているんですね。「あいつらは偶像礼拝をするから、こういう悪徳をくりかえしているんだ。だから、こういう奴らは律法で裁かないといけない」と言っているわけです。
 
▼男娼とその買い手

 この悪徳表の中で、同性愛が罪だという根拠にされているのが、10節の「男色をする者」という言葉です。
 ところが、ここで性にまつわる言葉は、この「男色をする者」だけではなく、その前に「みだらな行いをする者」。それから、「男色をする者」のあとに置かれている「誘拐する者」も実は性に関する言葉なんですね。これはどういうことかと言いますと、この3つがこのエフェソで行われていた性産業ビジネスの3点セットだったからです。
 ここで「みだらな行いをする者」と、まるでみだらな行為をする人全般を指すように訳されているのは、実は性を売り物にさせられている男性、あるいは少年、つまり男娼のことを指しています。
 それから「男色をする者」と訳されているのは、いわゆる我々の時代で言う「同性愛」のことではなくて、男娼を買う男のことを指しています。
 いま「我々の時代の同性愛」と言いましたが、古代には同性愛という、男の人を好きになる男の人、女の人を好きになる女の人、そしてそういう人どうしによる対等な関係としての性愛はなかったんですね。
 古代人の性の文化というのは、まず男が女の上に立って、女を支配し、屈服させる。あるいは女のような男を支配し、屈服させる。これしかなかったらしいんですね。ですから、古代ギリシア・ローマの性は男が相手が女性であろうが男性であろうが支配し、屈服させる。それが男らしい男ということになっていて、それが基本形なわけです。
 現代の同性同士が対等に愛し合うどころか、異性においても対等に愛し合うということはなかったんですね。異性であっても、男が女を支配する。男が「女々しい男」も支配する。ですから、古代人は私たちのこの時代における「同性愛」というものを知りません。
 ですから、ここで「男色をする者」という訳し方は間違っています。これは先程出てきた「男娼」を買う、その買い手。当時は「男らしい」とされていた男のことです。
 男色ではないものを「男色」と訳すのは、つまりこの翻訳をした人は、古代の性のあり方とは関係なしに、男色つまり同性愛がここで責められているのだという風に思い込んで、そういう訳語を当てているわけです。つまり、訳し方に同性愛者差別の気持ちが反映しているから、そうなってしまうんですね。

▼奴隷商人とセックス産業

 そして3つ目の「誘拐する者」ですが、これも単なる人さらいではなく、先程から触れているような男娼にするために少年を誘拐してくる者のことを指しています。誘拐したり、戦争の捕虜になった少年を連れてきて、売春宿に売りつける。もちろん少女もさらってきて、売春宿に売りつける。そういう人身売買をやっていた奴隷商人のことなんですね。
 ですから、ここの聖書の箇所は、正確に訳すと、「性奴隷にされていた少年たち」「その性奴隷の少年たちを買う男たち」そして「少年を誘拐してきて売春宿に売りつける奴隷商人たち」という、セックス産業の3点セットに関わっている人たちが、ここで言われているように、人殺しなどと並ぶような罪人だと言われているわけです。
 このような背景を知っているはずなのに、翻訳する人はここをまるで「現代で言う同性愛が律法によって裁かれているのだ」という風に読めるように翻訳してしまうわけです。そして、それを読んで「だから同性愛は罪なんだ」と読んでしまうクリスチャンが多いわけです。
 もちろん、翻訳者以前にこのテモテへの手紙を書いた人自身にも問題はあります。最初の方で申しましたように、問題発言の多いこの作者のことですから、何を言い出すのかわからないところがありますけれども、「誘拐されて性奴隷にされてしまった少年」も罪人だと言ってしまっていますよね。
 エフェソの性産業全体を「罪だ」と責めているわけですが、少年を買う男たちや奴隷商人を責めているだけではなく、自分を売らされている少年たちまで一緒にして「それは罪だ」と言っています。奴隷にされた少年たちへに寄り添おうとする気持ちは少しもありません。
 そうやって聖書を批判的に読んでゆくと、聖書の中の文書を書いた人の偏見、翻訳した人の偏見、そしてそれを読んで解釈する人の偏見など、様々なレベルでの偏見が少しずつあぶり出されてきます。
 そして、自分はどの立場で聖書を読むのか、誰の立場に寄り添って聖書を読むのかということが問い直されてくるのですね。本当に愛されなくてはならないのは誰なのか、本当に守られたり、助けられたりしなければならないのは誰なのかといったことを考えて上で、聖書を読まないといけないのではないかと思うわけです。
 まあもちろん、私も不十分で、そのことに少しずつ気付かされてゆく途上にある者ですけれどもね。今日のこの聖書の箇所の話はひとつのサンプルですが、聖書というのは、同じ現実を見ていても、書いた人、翻訳した人、そして読む人のものの考え方や感じ方が投影されてしまう。つまり、「読み方が、示すあなたの、お人柄」ということになるわけです。

▼聖書に書いてあるから?

 クリスチャンの多くが聖書を引用して「同性愛は罪だ」と言います。しかし、それを言うなら、他にも現代のクリスチャンはいっぱい罪を犯しています。
 たとえば、このテモテへの手紙を読むと、先程も言いましたように、「女性は教会では教えるな。静かに従順で学んでいなさい」と言います(1テモテ2.11−12)。けれども、現代ではそんなことを言う人はいません。女性の牧師もいる時代です。でもこれはテモテへの手紙に反しています。聖書の言葉に反しています。
 「大酒飲みは教会で奉仕するな」とも書かれています(1テモテ3.8)。けれども、大酒飲みの奉仕者や牧師もいっぱいいます。これは聖書の言葉に反しています。
 他にも、聖書には「反抗的で父親や母親の言うことを聞かない息子はいたら死ななければならない」とか(申命記21.18−21)、「豚は食べてはならない」とか(レビ記11.7)いろいろな規定がありますけれども、私たちは守っていません。トンカツやカツ丼、生姜焼きは喜んで食べます。好き嫌いはありますけれどもね。
 では、なぜ同性愛だけは(もっとも、聖書に書かれているのは、今の私たちが言っている同性愛とは違うと言いましたけれども)、なぜ「それだけは罪だ」「罪人だから神の国を受け継ぐことはできないんだ」と言ってしまえるのか。それは、「女性は黙っていなさい」と言うと今なら女性の人権を侵害しているということで叩かれてしまうし、「豚を食うな」と言うと、実際我々が自然に食べている食生活の週間が崩れてしまうからですよね。
 特に女性の人権という点から見れば、これまでの歴史の中で、女性の人権を獲得するまでに長い闘いがあったから、ここまで来れたということは言えると思います。だから、「女性は黙っていなさい」と聖書に書いてあるのに、それを破っていても誰も何も言わなくなった。
 それに対して、「同性愛だけは裁かれるべきだ」と言っているのは、まだ同性愛者の人権がちゃんと獲得されていないからということが言えると思うんです。他にも守らなくなった聖書の規定がたくさんあるのに、なぜ同性愛だけが「聖書に書いてあるから」ダメだと言えるのか。
 それは本当は、そう言っている人自身が「女性を差別するような聖書の読み方をすると今どき何を言われるかわからんけれど、同性愛者だったら何を言っても誰にも批判されないだろう」という思い上がりを、自分でも気づかないうちに持ってしまっているんですね。そのような、自分でも自覚していないような差別意識が残っていて、その差別意識を聖書を使って正当化しているだけなんですね。つまり自分が差別をするために聖書を都合よく利用しているわけです。
 ここにも、「読み方が、示すあなたの、お人柄」ということが表れています。本当は本人のお人柄の問題なのに、それを聖書で正当化している。聖書の読み方ひとつで、人間のありのままの姿をバッサリと切り捨て、「それが神のご意志です」と言ってしまえる自覚のない差別がここにあります。

▼寄り添う

 ちなみに、先程「男娼」についてのお話をしましたが、イエス様はそのような奴隷商人に売り飛ばされて性奴隷にされている少年や少女に対しては優しい方です。イエス様は「徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る」(マタイ21.31)と地位のある豊かな人たちに言い切った人です。
 これは、今日取り上げた第1テモテとは真逆の態度です。「娼婦の方が先に神の国に入る」ということは当然「男娼も先に神の国に入る」に違いありません。誰がいちばんこの世の中でひどい目に遭い、搾取されているのかをイエス様はわかっておられたんですね。そういう人たちにイエス様はいちばん寄り添ってくださる方だったわけです。
 体を売って生きている人に対して、昔の人も、今の人も蔑む気持ちは強いです。イエス様の後をついて行こうと言っているクリスチャンでさえもそうです。けれども、そういう人たちにこそイエス様は心を向けて、愛されていたということを読み取るのも、聖書を読むひとつの姿勢。「読み方が、示すあなたの、お人柄」ということではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

▼祈り

 祈りましょう。
 私たちに毎週の礼拝に置いて、御言葉を与えてそれを味わう時を与えてくださっていることを感謝いたします。
 本日は、あなたの御言葉と言われながらも、それを書こうとした人間の限界、それを読む側の限界について思いを巡らせる時を持ちました。
 このように聖書の言葉を批判的に読むのは勇気の要ることです。けれども、あなたの無限の愛を完全に言い表すことは、有限なる人間には大変難しいことであるのかも知れません。
 神様、少しでもあなたの無限の愛を私たちに知らしめてください。そして、少しでもその愛に私たちがついてゆくことができますように、私たちを引っ張ってください。
 あなたのお導きによって、この週も勇気をもって歩んで行けますように、この世へと送り出してください!
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

 
この説き明かしは、小林昭博著『同性愛と新約聖書』風塵社、2021に大幅に依拠しています。
  




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